68:拓海様、大人の階段上ってくださいね
レッド家の邸宅においても、俺はベリルの部屋に行ったことがない。
この別荘についてからは、アフタヌーンティーに招かれ、ベリルの部屋に行っていた。でもそれはみんなが一緒であり、一人での訪問ではない。
しかし今、俺は、夜も更けたこの時間に一人、ベリルの部屋を訪ねようとしている。俺にとってそれは物凄く勇気がいることだった。つまり滅茶苦茶緊張している。
緊張のあまり、何度か迷ったりもした。
ようやくベリルの部屋の扉の前に立ったのだが……。
「あら、拓海くん、どうしたの?」
スピネルに声をかけたれた。
口から心臓が飛び出るぐらい驚いた。
「ちょ、ちょっとそのベリルに話が」
スピネルは黒のオーガンジー生地の薄手のガウン姿だった。
その姿にも俺は驚き、さらに心臓がバクバクしている。
「あら、そうなの? でもベリル様、さっき部屋に戻ったばかりだから、今、入浴中だと思うわよ」
「⁉ 随分ディナーに時間がかかったんですね」
「違う、違う」
スピネルはゆらゆらと手を振った。
「私の部屋で話していたの」
「あ、そうなんですね」
「どうする? 出直す? それとも私の部屋で待つ?」
ここに来るまでに何度か迷った。スピネルの部屋で待てるなら、まさに渡りに船だ。
「……スピネルの部屋で、待ってもいいんですか?」
「構わないわよ」
「ありがとうございます!」
俺は遠慮なくスピネルの部屋で待たせてもらうことにする。
さっきまでベリルが部屋にいたというだけあり、ソファの前のローテーブルには、二客のティーカップと、ポットが置かれていた。
「何か飲む?」
「あ、じゃあ水で」
「水でいいの?」
「はい」
スピネルは部屋の電話を使い、水とワインを頼み、俺の斜め前の一人掛けのソファに腰をおろす。
「……それで拓海くんは、ベリル様に何の話が? なぜそれを聞くかと言うとね」
そう言うとスピネルは脚を組み、前のめりになって囁いた。
「実はベリル様、さっき、ここで泣いていたの。だから話そうとしている内容によっては、私、拓海くんを止めるつもりよ」
「ベリルが泣いていたんですか⁉」
衝撃で俺は目を丸くする。
「そうよ。珍しいわ、ベリル様が泣くなんて」
「何が……ディナーの席で何かあったんですか⁉」
「そうねぇ」
そこでドアがノックされた。
「いいわよ、カレン」
ボトルのワインとボトルの水、そしてグラスを載せたトレンチを手に、カレンが部屋に入ってきた。
「あれー、スピネル様と拓海様の組み合わせ、久しぶりですね。何か検査でも?と思いましたが、これからワイン飲まれるんですよね、スピネル様」
テーブルに置かれたティーカップやポットをチェストに移動させながら、カレンはスピネルを見る。
「そうよ。これから拓海くんのこと口説こうかと思って」
「そんなことだろうと思いましたよ。ちゃんとボトルで用意しましたから」
テーブルをさっと拭くと、手早く2つのボトルと2つのグラスをおいた。
そしてそれぞれのグラスに、ワインと水を注ぐ。
「さすがね、カレン」
チェストに置いていたカップ類を、トレンチに載せたカレンは……。
「あと30分でぼくらも業務終了です。……スピネル様、ほとほどに。拓海様、大人の階段上ってくださいね」
意味深に微笑んで出て行った。
とんでもない会話が、スピネルとカレンの間でなされた気がする。でも、当然お互い冗談だと分かってしている会話に違いなかった。
だから俺は、さっきの続きを聞くことにした。






