裏と表
裏野ハイツの表の顔、ネジ止めされている裏野ハイツの看板。
そのネジを外すと、看板の裏に何枚かの封筒が貼りつけられてあった。
封筒の中には裏野ハイツの土地建物の権利書、印鑑の置き場所を記したメモと。
「手紙……」
この手紙を読んでいる方へ
あなたに裏野ハイツのすべてを託します。
全てのことには表の顔と裏の顔があります。
私は人の裏の顔を多く見過ぎました。
これを読んでいるということは、そのことにも片が付いたということでしょう。
私はあなたにどこまでお願いしたかは判りません。
ですが、人には表の顔もあるということを知っていてください。
101号室。
世帯主は本多里留(56)。タクシードライバー。
現在行方不明中。
「本多さん、いらっしゃいますか? 今度ここの大家を受け継ぎました、日影と申します」
「はいはーい、ちょっとお待ちくださいね」
101のドアが開く。
そこには年配の女性の姿があった。
「あら、お若い大家さんね? お若くて、元気そうでいいわねえ。
すいませんね、ちょっと持病で心臓が悪くて、急な動きが難しいものですから」
「いえ、お構いなく。
私も大学に通う身なので常にいる訳ではないのですけど、なにかありましたらご連絡くださいね。
これ、私の携帯番号です」
「まあまあ、ごていねいにどうも」
「それで、ご主人のことなんですけど、今いらっしゃらないのですか?
借主にご主人のお名前がありますので」
本多夫人は少し悲しそうな色をしてから、すまなそうに頭を下げる。
「なんでも私の心臓のことで遠くに行ったっきり、音沙汰もないんです。
一応生活保護と貯金でお家賃は払っているのですけど……」
「あいえ、そういうことではないのですけど。判りました。またお邪魔します」
「はい、それでは失礼しますね」
「お大事にしてください」
「ありがとう、若くて元気な大家さん」
若くて元気、か。
102号室。
世帯主は青山魁(41)。職業欄に記載なし。
「青山さん、こんにちは。今度大家になりました日影です」
「はーい」
102のドアが開く。
働き盛りの年代だろうか。老け込むにはまだ早いくらいの女性と、小学生くらいの女の子がいた。
「青山さんですか? 私、今度ここの大家になりました、日影っていいます」
「それはそれはどうも、ご丁寧に。よろしくお願いしますね」
青山の妻は明るく太陽のような笑顔を見せる。
開け放った窓から夏の風が吹き抜けてきた。
部屋の中は外の光をふんだんに取り入れてとても明るい。
「少し不躾なお願いなのですが、お部屋に入ってもよろしいですか?」
「え、ああはい、大丈夫ですよ。でもいったいどうされたのですか」
「お邪魔します」
私は脱いだパンプスを丁寧にそろえて部屋に上がる。
6畳の洋間に行くと、壁紙を調べ始めた。
「あの……なにを」
「ここですね。後で修理代はお支払いしますけど、ちょっと失礼します」
そう言うと私は相手の承諾を待たずに壁紙をはがす。
そこには数枚の手紙が。
日付けを見ると、青山が失踪したその年のクリスマスから昨年のクリスマスまでのものが収められていた。
あの青ビョウタン、×ウラノって解りにくいってえの。
素直に壁紙の裏って伝えればよかったのにさ。
その手紙には、理由があって会えなくなったこと、毎年楽しみにしていたクリスマスに妻と娘へプレゼントを贈ることができなくなったこと、それでも自分は愛しているということが、その年の分だけ綴られていた。
そして、サインと印鑑の入った離婚届。
「お邪魔しました。壁紙のリフォーム代は後ほど請求してください」
何が起きたのか解っていない女の子の頭をなでる。
「急にお部屋を壊しちゃってごめんね。あなたのパパはね、ママに伝えたかったけど言えなかったことがあったの。
お姉さんはそのお手伝いをしたんだけど、悪いことをしてしまったかもしれないね」
泣き崩れる青山の妻と心配そうにそれを見つめる娘を置いて、私は足早に部屋を出る。
103号室。
借主は引き払い済み。
御嶽良太(35)。
妻、瓜子(31)。
そして長男早苗(3)。
合鍵でドアを開ける。
一瞬むせかえるような血の匂いが襲ってきたかに思えたが、そんな事実はこの部屋には無かった。
あれは土野の婆さんが別の場所でやったことの追体験。彼らの記憶の産物でしかない。
新しい借主の問い合わせがあったと、仲介の不動産業者から連絡があった。
その人もも3人家族で、子供が小さいから1LDKでも足りるのだそうだ。
「子供が大きくなったら、この部屋じゃ狭くなるものね」
御嶽は子供が大きくなることを考えていなかったのか、ワンルームマンションに住んでいたらしい。
子供が大きくなることがないと知っていたからなのか。
201号室。
明日から私が入る部屋だ。
前の大家である土野匕女(73)。
彼女はいつの頃からか記憶障害を起こし始め、施設での生活を過ごしていたそうだ。
本が好きだったそうで、施設では物語の主人公と自分の記憶が混ざってしまうこともしばしばだったとか。
先日、心臓発作で亡くなったそうだ。
親類縁者もおらず、この裏野ハイツの権利書を持っていた私が唯一の関係者だったらしい。
復讐に生きたもう一人の私。
今の私には霊を見るような力はない。
霊媒師、土野匕女としての人生を歩むことはないだろう。
202号室。
世帯主は前川若菜(19)、学生。
私の一個上の学年に相当するが、現在は留学中とのことだ。
なんでも宗教系の学校らしく、経やまじないといった技術を習得しに修行しているのだそうだ。
あの時の何か叩く音も、修行をしている彼女だからあちらの世界とつながったのかもしれない。
土野の婆さんの能力は、この前川さんの方がマッチしていたかもね。
きっと話が合ったことでしょう。
留学から戻ってきたら、生前の土野の婆さんのことを聴いてみようかな。
そして203号室。
元々たいした荷物は持ってきていなかったから、自分一人でも201号室へ荷物を移すことはできた。
大きい家具もなかったしね。
でも気になったのは、この建物のどこを探してもどこのベランダを見ても、見つからなかったものがある。
風鈴だ。
真っ先に調べたが、201のベランダにはなかった。
その他の部屋にも風鈴らしきものはなく、似たような音を出すものも見当たらない。
高台にあるこの建物の近くには他に建造物はなく、ご近所さんが吊るしているという可能性もない。
ただ、夏の蒸し暑い夜、風もないのに聞こえる時がある。
リリン……、チリリン……。
そういう時は決まって、吐く息が白くなる。
後日談というより人物紹介をシリーズにして別立てで投稿しました。
読後のデザートにご覧いただければ幸いです。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。