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スクール・バス  作者: 野宮ハルト
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第3話


「さつきーッ!ずる休みでもする気なの!?」

勢い良く開け放たれたドアの音と共に響く母さんのドラ声に、熟睡し切っていた僕は驚いて目を覚ました。


昨夜は遅くまでテレビを見てしまったせいで、宿題に取り掛かるのが遅くなってしまった。

しかも余裕で終ると思っていた英訳が、思いの他僕を梃子摺らせ、結局深夜を過ぎても辞書と睨めっこをする羽目になってしまった。


母さんの声に慌てて目覚まし時計を見れば、7時45分という時間が示されていた。

「何でもっと早く起こしてくれないんだよッ」

…ホントなら、家を出ている時間なのに。

慌ててベッドから飛び起きると、持って行き場のない焦りと怒りを、目の前にいる母親にぶつけてみた。

「夜更かしするから朝起きられないんでしょう」

「う…」


… ごもっともですお母様、確かに僕が悪いんです。

母の言葉に反省し、しゅんと項垂れながらパジャマ代わりのハーフパンツを脱いで、制服に手を伸ばすと、脱ぎ捨てた衣服に足を取られてコケそうになる。

「朝ゴハン食べる時間無いでしょ?おにぎりにしておいたから持って行きなさい」

無様な僕の姿に深い溜息を吐きながら、母さんは階下へ降りて行ってしまった。


『朝ごはんで一日が作られる』と言うのが僕の母さんの口癖。

親の方が子供の後から起きてくる、なんていう家もあるというこのご時世に、毎朝きちんと朝ごはんを作ってくれる母の姿勢は表彰ものだと思う。


… ゴメン、母さん。

母の気遣いに感謝しながら新しいTシャツに着替えると、その上にワイシャツを羽織り、制服のズボンを穿く。

焦る指先で不器用にベルトを締めながら、広げたままになっていた課題と、今日の授業に必要な教科書類をかき集めて、無造作にカバンの中へ詰め込んだ。



そこから先は、我ながら神業だったと思う。

7時55分には家を飛び出し、駅まで徒歩10分の距離を猛烈にダッシュして、およそ5分で到着。

… この電車に乗れば、ギリギリ8時25分発の学バスに間に合う。

息を切らしながら階段を駆け下りると、閉まりかけた電車のドアに無理矢理身体を滑り込ませる事が出来た。


「はあ、間に合った…」

目指す電車に乗れて一安心した僕は、走り出した電車の窓に映る自分の姿に愕然となった。

…うわ、ヒドイ。

形振り構わずダッシュしたせいで、髪はぐしゃぐしゃ、全身汗だく…とても見られた姿じゃない。


そういえば朝見に、『鏡をよく見ろ』なんて言われた気がする。

…確かにそうだね。

酷すぎる髪型を何とかしようと、カバンの中に忍ばせているワックスを取り出し、窓ガラスを鏡代わりにして、乱れてるだけなのか、寝癖なのか分からない状態の髪にワックスを伸ばしてみた。

…まあ、無造作ヘアってことで。

キマりきらない髪形に満足することなんて出来ないけど、今の状況で贅沢なんて言ってられない。


それよりも、もっと気になるのは、全身を流れ落ちるこの汗。

制服の上着やズボン、さらにはカバンの奥底まで漁ってみても、ハンカチどころかティッシュペーパーの欠片すら見当たらない。

…仕方ないや。

流れる汗をワイシャツの袖口で拭おうとしたら、不意に誰かが僕の腕を掴んだ。


「そこは汗拭くところじゃないでしょ?」

ふわり、やわらかな花の香りに振り向くと、涼やかに微笑む合田さんが立っていた。

「あ…」

「寝坊でもしたの?凄い勢いで駆け込み乗車する学生がいるなぁ…なんて思って見てたんだ。ふふ、面白かったなあ。最初に気にするのは、汗じゃなくて髪型なんだね」

合田さんはにこりと笑いながら、きちんとアイロンのかけられた淡い水色のハンカチを差し出してきた。

「これ使って」

「え?でも…」

滝のように流れ落ちる汗を拭き取りたいのは山々だけど、人様の…というか、合田さんのハンカチでそれを拭き取るのは気が引ける。

いや、別に…合田さんのハンカチが嫌ってわけじゃないんだ。

むしろその逆で、合田さんのハンカチだから申し訳ない気持ちになるんだ…。


心の中で一人葛藤していると、いきなり僕の額にハンカチが当てられた。

「ハンカチは汗を拭くためのものでしょ?」

公衆の面前で汗を拭ってもらった僕の顔には、違う種類の汗が噴出して、顔が赤くなっていくのが分かった。

「は…はい」

俯き照れる僕の姿を面白がるような表情で見詰めながら、「遠慮しなくていいのに」、なんて笑う合田さんの表情が、僕の顔をますます赤くしてしまう。


「じ、自分でやりますっ」

そんな状況に耐え切れず、合田さんの手からハンカチを奪うと、僕は自分で汗を拭きはじめた。


肌にあてたハンカチからは、合田さんと同じやわらかな香りがするから、僕はその香りにクラクラしながらゆっくりと汗を拭き取った。


やがて噴出した汗を拭き終える頃には、淡い水色だったハンカチが、水気を帯びた青い色へと変わっていた…。






「合田さんはいつもこの電車なんですか?」


合田さんにハンカチを借りたおかげで、滝のように流れて落ちていた汗は綺麗に拭い去る事が出来た。

そのお陰で、さっきまで全身を覆っていた不快感も無くなり、落ち着いて話をする余裕さえ出てきた。

「うーん、大体そう…かな?職員は8時45分までに出勤しなければいけないから、本当はもう1本前のバスに乗りたいところなんだけど、恥ずかしい話、僕は朝が弱いから、このバス…8時25分発に乗るのがやっとなんだ」


僕はこの人に会うたび、いつも面倒を見てもらっている気がするけれど、実は大学の職員であるという事意外、詳しい事を知らないんだよね…。

…学生みたいだ。

一見クールそうに見える合田さんだけど、実は朝が弱くて、遅刻ギリギリの電車に駆け込むなんて話を聞かされると、妙な親近感が湧いてくる。

そんな時でもきっと、僕みたいに形振り構わず汗だく…なんてことは無いんだろうな…この人は。


「山郷くんは?」

「え、僕ですか?うーん、その日によってマチマチ、かな?今日みたいにギリギリ、なんていうのはあんまり無いかもしれない。寝坊しても、親が起こしてくれるし…」

「そっか、自宅だもんね。僕も高校生の時は、毎朝親に怒られながら起こされてたなあ…。ふふ、僕は昔から朝が弱かったかんだ」


そう言ってはにかむように浮かべた笑顔に、僕の心臓がどきりと大きな音を立てた。

… あれ、何だろう?このドキドキ感。

感じたことの無い感覚に戸惑っているうちに、電車が駅に到着した。



改札を抜け、バス乗り場へ向かう人の流れに乗りながら、学校生活の事なんかを話し続けた。


「うわ、混んでるね」

バス乗り場に停車しているバスの車内は相変わらず混雑していて、既に満員の状態だった。

「これに乗らないと遅刻だ」

とは言え、僕達が乗れそうな場所は、バスのステップ部分に出来た僅かな空間のみ。

「仕方ない、無理矢理乗っちゃおう」


スクールバスを利用する人達は、このバスの乗り方を心得ている

僕達はいつもと同じ要領でステップ部分の僅かな空間に足を乗せると、他の人に寄り掛かる様にして身体を滑り込ませた。

「ドア閉めるから、カバン引いて」

マイク越しに響く運転手さんの声にカバンを引くと、プシュウと音を立てて扉が閉まり、僕達を乗せたバスは学校へ向かって走り出した…。



揺れる車内、僕は合田さんと向き合う形でバスのステップに立っていた。

僕達の距離は僅か10cmにも満たない、というか腰から下は密着してるし、僕の髪には合田さんの吐息が掛かってしまう距離なんだ。

もしも目の前にいるのが女の子だったら、無理だと思える体勢をとってでも、極力身体が触れ合わない様に気を遣うけど、僕と合田さんは男同士だからそんな事は気にせず、楽だと思える姿勢で立っていた。

けれどそんな体勢で居続けると、バスが揺れる度、僕の身体が合田さんとの密着度を増していく。

そして何故だか分からないけど、密着する部分が増えていく度、そこからビリリと電気が走るような感覚が生まれる

を感じた。


…うわ、何これ。

電車の中で感じた感覚とも違う、新たに生まれた未知の感覚に、僕の頭は混乱していた。


…どうしよう。

縋る様にして視線を上げると、僕の目の前に合田さんの綺麗な顔が飛び込んでくる。

すると今度は、あまりにも近過ぎる距離が恥ずかしくなって、慌てて顔を伏せてしまう。


「ふふ…山郷君て睫毛長いんだね」

俯いている僕の頭上に、合田さんの声が響いた。

まだまだ成長中とはいえ、僕の身長は172cmという微妙な高さだから、180cm近い合田さんは余裕で僕を見下ろすことが出来るんだ。

「え…まつげ?」

「山郷くんてモテるでしょ?キレイな顔しているもんね。ふふ…思わず観察しちゃったよ」


… うわッ、観察って。

恥ずかしいから顔を上げられないのに、そんな事言われたら益々顔を上げられなくなっちゃうよ。

それに…僕の身体は臭いはず。

だって、メチャクチャ汗かいたから…だから、これ以上距離を近付けないで欲しい…。


「あ…ゴメンね、なんかエロ親父発言だったね。うん、でも絶対モテると思うなあ…。僕が女子だったら放っておかないんだけどなあ」

自分の言葉に確信を持っているのか、合田さんの声には嬉しそうな響きが混じっている。

「エロ親父って…。合田さんと僕って、そんなに年離れていないですよね?」

「高校生にしてみたら、20歳過ぎた人間はオヤジじゃないの?」


確かに、20歳過ぎた人はオヤジに見えるけど、こんな綺麗な男性を捕まえて、≪オヤジ≫なんて思うわけないよ…。


「全部の人に当て嵌まるわけじゃ無いですよ。それと…合田さんの言う通り、僕はモテなくは無いと思います。でも、彼女はいません、というか今まで付き合ったことが無いんです」

どうしてムキになってしまうのか分からないけど、≪彼女がいない≫という部分だけははっきりさせておきたくて、僕は俯いていた顔をついと上げた。


「へえ…そうなんだ」

真剣な眼差しで見詰めると、僕の視線と合田さんの瞳がぶつかった。

「何か、意外…」

合田さんが驚いた様子で僕を見下ろした瞬間、バスが大きく揺れた。


「うわッ」

「あぶなッ」


バランスを崩した僕の身体を、合田さんの腕が抱きとめていた…。


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