第1話
満員電車は、今日も眠気を帯びた僕を運んで行く。
揺れる車内でスーツ姿の大人達に押し潰されそうになりながらiPodを操作すれば、自分だけの世界を作ってくれる音楽が流れ始める。
瞳を閉じて視界をシャットアウトすれば、最寄駅までしばしのトリップ。
僕の通う学校は、中学から大学院までが同じ敷地内に立つ私立の高校で、都心から離れているせいか、周辺を住宅地や畑に囲まれていて、どこかのんびりした空気が流れている。
学校は駅から離れた場所に建っている為、学生や教職員の為にスクールバスが運行され、そこには様々な年齢の人たちが乗り合わせている。
僕はいつも始業ギリギリ、8時25分発のバスに乗る。
駅にはこれより前のバスに乗れる時間に着いているけれど、僕はわざとこのバスに乗り込むんだ。
僕がこんなことを始めたきっかけは冬のある日…期末試験の最終日だった。
満員電車と強すぎる暖房に酔ってしまった僕は、学校の最寄り駅に着くなりホームにへたり込んでしまった。
今時駅のホームに座り込む若者なんて珍しくないのか、それとも関わりたくないのか、同じ制服を着た奴らやスーツを着た大人達は、蹲る僕に視線を向ける事なく素通りしてしまう。
改札へ向かう人の流れが途絶えたところで、ホームに設置されたベンチまで這うようによろよろと進んでいくと、力なくベンチに腰を下ろした。
だるい身体を横たえることなんて出来ないから、僕は両膝に肘を乗せると、教会で祈を捧げる人の様な姿っで俯いた。
ふわふわと浮遊感を感じながらそのままの姿勢で休んでいると、微かにやわらかい花のような香りがした。
香りに誘われるまま閉じていた瞳をゆっくり開くと、爪先の間に綺麗に磨かれた黒い革靴が見えた。
『あれ?誰だろ…先生かな?』
目の前に立つ人の正体を確かめる為、だるい頭をゆっくり上げると、そこには高い身長に少し細身のスーツを纏い、涼しげな目元を細い銀フレームのメガネで覆った若い男性が立っていた。
「はい、お水。今日の電車暖房きつかったからね。それとも、朝ごはん抜いてきたのかな?」
ニコリ、男性はやわらかく微笑みながら手にしたペットボトルのミネラルウォーターを差し出してきた。
「あ…りがとうございます」
みんなが素通りする中、具合の悪い僕に声を掛けてくれた男性にお礼を述べると、ありがたい気持ちでいっぱいになりながら冷たいミネラルウォーターを頂くことにした。
冷たい水が喉を通り過ぎると、火照った身体の奥がすうっと冷めていくのが分かる。
「君、高等部の子だよね?」
男性は僕の制服を見ながら、そう尋ねてきた。
「はい、そうですけど…」
『そういえば、この人は誰なんだろう?』
見ず知らずの僕にミネラルウォーターまで買ってくれて…怪訝な表情を浮かべている僕に気が付いたのか、男性は再び微笑んだ。
「僕、大学の図書館で働いている合田紅葉って言います。あ、そういえば、高等部って期末試験の最中じゃなかったっけ?学校までタクシーで行くけど、良かったら一緒にどう?」
≪期末試験≫…男性の言葉に慌てて腕時計を見ると、文字盤には8:32と表示されていた。
今からスクールバスに乗っても始業時間に間に合わない、でもタクシーで行けばなんとか始業に間に合うかも…。
「でも、あの…」
「あ、気にしないでいいよ。実は寝坊しちゃって、電車1本乗り遅れたんだ。次のバスだと間に合わないから、タクシー使おうと思ったら君がいたってワケ」
銀色の細いフレームのせいで一見キツそうに見えるけど、その男性がニコリと微笑めば、その笑顔はまるで曇り空の隙間から差し込んだ陽の光のように輝いて見えた。
その笑顔に吸い寄せられるようにふらふらと立ち上がると、合田さんという男性の後を追ってタクシー乗り場へと向かった。
タクシー乗り場に到着すると、運よく空車のタクシーが到着した。
扉が開くと、合田さんが先に乗り込み、僕はその後からタクシーの車内へと入った。
学校までの道のり、何を喋っていいのか分からず、僕はずっと俯いていた。
そんな僕の姿に、余程気分が悪いと思ったらしく、合田さんはわざわざ高校の前までタクシーを乗り付けてくれた。
「じゃ、試験がんばってね」
そう言い残すと、合田さんを乗せたタクシーは大学の建つ敷地へと走り去って行った。
走り去るタクシーをボーっとしながら見送っていると、友人の声ではっと現実に引き戻された。
「皐月、何やってんだよ!早く来いよ」
教室から自分を叫ぶ友人に大きく手を振ると、僕は教室に向かって走り出していた…。
高校1年最後の期末試験を無事乗り切りると、学校は春休みとなってしまい、僕を助けてくれた男性と再会する事は無かった。
春の訪れを教えてくれた桜の花が散り、枝先に若葉が目立つようになったゴールデンウィーク間近のある朝、僕は思い切り寝坊してしまった。
家を飛び出し、電車に飛び乗り、ギリギリセーフで滑り込んだのは8時25分発のスクールバス。
バスの扉が閉まり、外気と遮断された車内にふわり、微かにやわらかい花のような香りがした。
『あ、この香り…』
やさしいその香りには覚えがあった。
そう、あの人の香りだ…。
香りの元を辿るため、乗車率200%はありそうなバスの車内に無理矢理視線を向けた。
この時間のバスは制服姿の学生よりも、カジュアルな服装の大学生やスーツ姿の職員と思しき人のほうが圧倒的に多い。
僕の探すその人は、沢山の人に挟まれながら吊り革に掴まり、目の前に出来た僅なスペースの中で手にした単行本を開いていた。
久し振りに目にした男性の顔には冷たい印象を与える銀縁フレームの眼鏡が掛けられていたけれど、眼鏡越しに見える涼やかな目元や、整った面立ちは以前と変わらず僕の視線を惹き付けた。
『メガネ外したら絶対美系だし、優しそうに見えるのに…あれじゃ、真面目な堅物にしか見えないよ』
心の中で男性の眼鏡にダメ出しをしながらも、あの日みんなが見て見ぬ振りをする中、只一人手を差し伸べてくれた人なのだから、きっと本性は優しい人なのかもしれないと考えていた。
職員の彼にしてみれば、≪同じ学校の生徒≫ が困っている、という理由で僕を助けてくれただけなのかもしれないけれど…。
『そういえば、ちゃんとお礼言ってなかったな…』
期末試験から随分日にちが経ってしまったけれど、朝の慌しい時間帯にわざわざミネラルウォーターを買ってくれたり、遅刻しそうな僕をタクシーに同乗させてくれた上、高校まで送り届けてくれたんだから、ちゃんとお礼言わなくちゃ。
バスが学校に到着すると、真っ先に下車して、車内から合田さんが降りてくるのを待った。
朝だというのに、混雑する電車やバスに揺られたせいか、疲れ切った表情をした学生達が次々とバスから流れ出てくる。
そんな中、合田さんはグレーのスーツに淡いブルーのワイシャツという出で立ちで、颯爽とバスから降りてきた。
「あの…」
足早に去って行く背中を追い掛けながら、僕は合田さんに声を掛けた。
僕の呼びかけに振り返った合田さんは、制服姿の高校生に声を掛けられ一瞬戸惑ったような表情を浮かべたけれど、すぐに学生を相手にする時の事務的なものへと変わり、「はい?」と、よく通るハッキリと澄んだ声で返事をしてきた。
「あの僕…期末試験の日に駅で具合が悪くなったのを助けてもらったんですけど…」
僕の言葉に暫し記憶を辿っていた合田さんの表情が、ぱっと明るいものへ変った。
「ああ、あの時の!」
それまで事務的だった表情が綻ぶと、見ている僕の気持ちまで優しくなるような笑顔が浮かんだ。
「あの時は本当にありがとうございました!あれっきりお会いできなくて、ちゃんとお礼も言えなくてすみませんでした」
僕は合田さんに向かってぺこりと頭を下げた。
「あはは、大した事してないからお礼なんて言わなくてもいいのに…だって、困っている時はお互い様でしょ?」
合田さんは眼鏡の奥にある涼しげな目元を笑顔で細めながら、僕の肩をポンと叩いた。
「でも…人に助けてもらったら、お礼を言うのは当たり前のことです」
そんな僕の言葉に、合田さんの笑顔がさらに広がった。
「実はね、あの時声掛けるのちょっとだけ迷ってたんだ…『うぜー』みたいなこと言われたらどうしようって内心ドキドキしてた…ふふ、笑っちゃうでしょ?でも君みたいに、ちゃんとお礼を言える子で良かった」
大人なのに、しかも学校で働いている人なのに、同じ学校の高校生にビビる合田さんの発言が何だかおかしくて、思わずクスリと笑ってしまった。
「そんな事言うのは一部のヤツらですよ。それに、うちの学校ってそんなにイキがってるヤツいないし…」
「そうなんだ。いつも大学生や教授達としか接点がないから、イマドキの高校生って分からなくて…」
ちょっと照れながら話す姿に僕は確信した、この人は絶対『いい人』なんだと。
一見すると、若いくせに頭が固くて融通の利かなそうな大人に見えてしまうけれど、その中身は他人に気配りが出来るゆとりと優しさを持っている人なんだ。
見た目が良くて、中身も良いなんてカッコよすぎる…ちょっと憧れるかも、なんて考えながら、綺麗に笑う合田さんに見惚れてしまった。
「早く行かないと、授業始まるよ」
合田さんの言葉に腕時計を見ると、文字盤には8時40分と表示されていた。
…ホームルームの開始は8時45分だ。
「あ、ホントだ!」
僕はもう一度合田さんに頭を下げると、高校の校舎に向かって走り出そうとした。
「ねえ、名前ッ!」
「うわあッ」
ぐいと腕を掴まれ、走り出した身体を引き戻される。
「あ、ごめん…名前教えて」
突然呼び止められ、怪訝な表情を浮かべた僕を安心させるように、合田さんがもう一度ふわりと笑った。
「今度お昼でも一緒に食べない?」
思わぬお誘いに、何故か僕の胸は高鳴っていた。
「えっと僕、高等部2年の山郷皐月って言います」
「山郷くん…ね」
自己紹介を済ませた僕は、始業を告げるチャイムに弾かれる様にして校舎に向かって走り出していた。