月にサヨナラ/人外
文学フリマ東京42にて販売する月×クソデカ感情×SFオムニバス短編集「月からかえり君に会えたら」の第八話です。
情報集積整理思考回路システム、かぐや姫の開発から数十年。かぐや姫計画は終焉を迎えた。
かぐや姫の一部として機能していた私は開発者の母と一緒に月のコロニーから地球へと向かう準備を始める。
母に触れて人間として生きることになった私と家族の物語。
情報集積整理思考回路システム〝かぐや姫〟の開発から数十年経ち、かぐや姫計画は終焉を迎えた。かつて一世を風靡した検索システムKaguyaも新たなサービスの台頭によって提供を終了することになっている。月に作られたかぐや姫を設置しているための施設は売却され、新たな月探査会社が入居することが決まっていた。
私は研究施設の職員である水元に連れられて研究ホールへとやって来ている。広い部屋にはかつて所狭しと水槽が並んでいたのだが、今はだだっ広く灰色の床が広がっているだけだ。ただ、職員に少しでも地球という故郷を偲んでもらおうと思ったのだろうか。研究ホールには大きく広がった窓があり、ここからは青い惑星が良く見える。
あれが地球です、と水元が私に指さす。私はそれを知っていた。この部屋から地球を見たのは数回程度だが、月面に置いてあるかぐや姫のカメラシステムからは何度も見た景色だった。青い地球は私にとって、映像データの中に常に入りこんでいる景色の一部としてそこにあったのだから。
私と水元がいるこの部屋はかぐや姫のパーツである人間の脳が保存されていた施設で、明日封鎖されるのだ。
情報集積整理思考回路システム──通称、かぐや姫は私の母がメインで携わっていた月のシステムである。これは何十年も前に作り出されたもので、私の母は最初の製作者が死んだあとその開発を引き継いでいた研究者だった。
かぐや姫は人間の脳をコンピュータ回路のなかに組み込み、人間の思考回路を使用して計算を行うシステムだ。当然、稼働には生きた人間の脳が必要だった。〝かぐや姫になる〟ということは人間の身体を手放して脳を取り出すということを意味する。
かぐや姫が開発され運用されてから数十年、計画がとん挫したのは現代においてかぐや姫になりたがる人が激減したからである。かぐや姫自体も安楽死制度の合法化や独身世帯の増加などを理由に自分の存在存続の可能性を否定した。
それでも、かぐや姫計画を継続するために、母と開発チームはある解決策を捻出したのだ。かぐや姫が必要とする、システムに不可欠な補充脳を生み出す、それがかぐや姫の延命のために行われた方法だった。
人工知能により平均化された思考を行う神経細胞接続が構築され、かぐや姫のためだけに作られた脳が私だ。私を元にしていくつものクローン脳が作られた。
私と私たちはホールに置かれていた水槽の中で保存され、他の人間たちの意識と混ざり合い、情報は統合され、かぐや姫の総意として結果を次々に出力した。
私の脳はいくつも繋げられ、最終的にかぐや姫の十分の一ほどは私の脳になっていた。そして、かぐや姫の多様性は損なわれたのだ。
同じ思考を持つ脳を使ったことで落ちた性能の補填をしなくてはならず、私たちは再び数を増やされたが、かぐや姫は以前のような輝きを持たなくなっていた。新たに補充する脳の莫大な開発費用やシステムの不具合が積み重なり、かぐや姫計画は終了した。母はかぐや姫チームの責任者を下ろされ、地球へと戻ることに決まった。
かぐや姫の研究施設が封鎖されるため、私は脳だけの姿から自分の身体を持つことになった。脳だけを地球に運び、脳だけで生活するということが地球では許されなかったからだ。私は水槽ではなく人の形をした新しいタンパク質の器を与えられたのである。
手術の後、私は人間の身体を手に入れ、起き上がり、歩き始めた。水槽の中でしか生きられなかったかぐや姫のための研究施設はもう必要が無くなり、明日はこの城を手放す日だ。
「地球に戻って、誰に何を言われるのかもわからないわ。もうどこにも行きたくないのに」
母は自分が地球に帰ることを認めていなかった。若い頃からかぐや姫に傾倒し、月で研究を続けていた彼女にとって地球は夢のない場所だったのだろう。生きる希望はない。私の目の前で突っ伏して何度も母は泣いた。
私が母に初めて会ったのはかぐや姫計画が終了してから半年が経ってからのことだった。私が身体に移植されている手術を受けている間、母は私の保護者として月のコロニーに残っていたのだ。それは母親としての義務であり、母の研究者としての抵抗でもあった。
しかし、私が最初に目を覚ました時、そこにいたのは母ではなかった。傍にいたのは口角を上げて笑っている顔をしたメガネの男性で、母の事情と自分の身分を私に説明した。
「初めまして。私はあなたのお母さんの助手をしている水元と言います。これからよろしく」
水元は礼儀正しく、だけどもぎこちない様子で私に挨拶をした。そして、療養中の母の代わりに私のことを細かく理解している水元が私の世話をすることになった、と話した。
その頃、母は計画の終焉を受け止められずに研究所の医療施設で治療を受けていたらしい。水元はかぐや姫計画の永久凍結と母がショックを受けていることを私に伝えた。母の事情を知っても実感はなかったが、かぐや姫計画が凍結されたことには私は反応した。肌にぶつぶつとした変化があり、身体の上をぞわぞわとしたものが這っている。水槽の中では感じたことのない不快感だった。
「お母さんも今必死です。あなたもお母さんや私と一緒に地球に行けるように頑張ってくれませんか?」
水元と出会ってから二か月間、私はリハビリをして地球の重力に耐えるための準備をすることに決まった。そもそも人間の身体を持っていなかった私は身体を起こすという行為さえままならなかったのだ。その状態のままでは地球に行った際に全く活動できずに寝たきりで過ごす日々になってしまう。水元は地球で私に起こりうることについて説明し、強くリハビリを促した。
「あなたはまだ若い。地球では月ではできないことがあります。今ここで励めば地球で苦も無く過ごすことができる」
水元の言葉は優しかったけれど、表情は笑っていなかった。私は私の中でこの表情の意味を探そうとして、もう私はかぐや姫ではないことに気が付く。
私は自分の若さがこれからの生活に及ぼす影響や、寝たきりの生活という物を想像することができなかったけれど、地球で暮らすことが困難になるというのは知識の上で分かった。私は水元の言葉に従うことに決めた。
毎日のリハビリは過酷で、一日のプログラムが終わるとベッドに倒れこむような生活がひと月ほど続いた。人間の身体という物は質量を持っている。自分の意のままにならない物が私を支配していると気が付く。私はかぐや姫の中から情報を探し出すのが困難だった時のような時間の長さを感じていた。私はこの状態に関する表現の正しい答えを知っているはずだが、私は自分の状態を表現する言葉を見つけられなかった。
それ以上に身体の中心部を緊張させたのは意識の消失だ。十二時間ほどブラックアウトしてから目覚め、パニックになった私にそれが眠りだということを水元が教えてくれた。二十四時間、かぐや姫として駆動していた私は眠ったことがなく、自分の意識が途絶えることは初めてのことだった。人間は睡眠が必要であると知識では理解していたが私は不快な気分を抱いていた。二度と意識を手放したくなくて徹夜を試みたものの、それも三日と持たなかった。
「眠りたくない」
面談で私は水元に言った。
「そのうち慣れてくると思いますよ。眠るのが怖いですか?」
私は自分が対峙しているものの正体がわからなかった。まとまらない思考と身体が拡散してしまいそうな浮ついた感覚だけがある。怖い。そう水元に名付けられたことで、私は眠ることに怖さを感じているのか、と漸く考えられるようになった。
「目を覚ますと、自分が何をしていたのかわからなくなります」
「何をしていたのかわからない?」
「今まで、私はずっといろんなことをしていたから」
目まぐるしく入り込んでくる情報は途切れることがなくかぐや姫としての私の生活を支配していたのだ。私の回りに何もない。それがわかると私は表現できない空虚さに襲われるのだった。
水元はそうですか……、と頷く。そして、少し考えた後に続けた。
「あなたの中には、あなただけではなくいろいろな人の記憶や経験があると思います。その中に眠るという経験もあったと思う。あなたは忘れているだけだと思えませんか?」
水元が私にかけた言葉は、私一人の中では見つけられなかった結果だった。水元のキーワードは私の頭にあった不明瞭な現実の答えとなった。私の経験ではなくても、誰かがそれを経験しているというならば、私もそれを覚えているはずだ。思い出せば、眠りというものに忌避感がなくなるかもしれない。
「あなたは一人じゃない。でも、一人でいるのが心配なら、しばらく私も一緒に部屋にいましょう」
夜、水元は私と一緒に過ごしてくれることになった。私はしばらく眠りのことは思い出せなさそうだったが、朝起きた時に水元がいることで、夜の間に私はただ眠っていただけなのだと実感することができた。
リハビリの間、母は私に会わなかった。時折、水元が母の様子を話してくれる。一進一退の揺らぎを繰り返す母の話を聞いて、私は人間として生きることは難しい、と考えていた。コントロールできない身体とそれについて行けない精神。そして、それ以外の社会的な事情がある。知識では知っていたが、私は母という人間の話を聞いて、結果を予測できずにいた。
一か月ほど経って、私は母と対面することになった。歩くことに慣れた私は水元と歩いて母の病室へと向かった。母は身体を持った私、歩行する私を見て何を思うだろう。私は自分の歩みがぎこちないのを感じた。脚が動かしづらいことを水元に伝えると、彼は緊張しているんですよ、となぜか笑顔になった。
車いすの母は強張った顔をした線の細い女性だった。ほとんど食事をとれていなかったと聞く。げっそりと頬はこけ、髪の毛にはつやがない。腫れぼったい瞼の奥には薄い灰色の瞳があり、私と水元の姿を映していた。
私がかぐや姫として稼働していた時に溌剌と声をかけてくれていた女性とは違う印象だ。かぐや姫を失ったことは母に大きな影響を与えていたのである。わが子のように育てていたかぐや姫が今、人間の姿をして目の前にいる。母の内心を思うと私はその場から立ち去りたい衝動にかられた。母の生活に挟み込まれてしまった自分の異物感。部屋の中は居心地が悪かった。
私と母は言葉少なく対面をした。私は会釈をし、彼女は元気そうね、とだけ言った。そうか私は元気に見えるのか、と思った。どういった表情を作ればいいのかわからず、私はとりあえず頷く。適していたかはわからない。
その場で一番話したのは水元だろう。お茶をいれ、用意していたお菓子を振る舞い、親子の再会記念に写真を取りませんかと私たちを並ばせたのも水元だった。
携帯端末で撮影された画像の中で並ぶ二人を見て、私は自分の姿が母に似ているのだと知った。
母の回復を待ちつつ私はリハビリを続けていた。地球に戻る予行演習として、私は施設の中で様々なものに触れた。
植物のプランテーションや鮮やかな花たち。カサカサとしたコンクリートとしっとりとした木の板。潮風の粘り。おそらく私を取り巻くであろう、排気ガスの混ざった空気。雑踏の中に響く横断歩道の囀りの音。甘い野菜の味と、口の中に刺激を感じるレトルトのカレー。
液体に浮かんでいたはずの私はそこで初めて水に触れた。
プールの中に初めて入った時、濡れた感覚を私は心地よく感じた。水槽の中に同じように浮いていたはずなのに水の感触に触れたことがなかったのだ。私は水元に手を引かれながら十メートルほど身体を浮かせて進んだ。ふわふわと浮かぶのは好ましかった。
ただし、プールから出た後の身体は重く、水に濡れたままでいるのは不快だった。脳が引き上げられた時にはなかった感覚で、私は不思議に思った。
私は地球に行くまでの間に、疑似的に地球の環境に触れた。そのすべてが新鮮だった。五感という物は心臓の動きに変化を与え、でも徐々に慣れてくる。その過程を味わうまでもなく、私は別の様々な情報に晒される。脳に直接言葉が響いていたのとは違う、言葉では表されないものが私の回りにあった。どれもこれも水元が教えてくれたものだ。
水元は母のことをよく知っていて、母についていろんなことを私に話してくれた。好きな食べ物は何かとか、大学時代のサークルの話とか、どうして月に来ることになったのかとか。母の楽しそうなエピソードを聞きながら母の感覚を想像した。私は少し母のことが好きになったが、母を前にすると変わらずに緊張した。
「あなたは母とは違うように思います」
ある時、私は水元にそう伝えた。
「どうしてですか?」
水元の眉間に皺が寄った。怒っていないことはわかるが、表情からその内心を読みとることはできなかった。
「母は私に会うのが嫌なように思います。あなたの態度は母とは違うというのがわかるから」
このまま、地球で母と一緒に暮らせるだろうか。知識でいうところの介護やサポートとは別の困難なものを私は母に感じていたのだ。私を拒否する母にとって、私と共に生活をすることは苦痛になると考えていた。
「……私はずっとあなたに会いたいと思っていました」
母の話ではなく、水元は自分の話をし始めた。
例えば、母が育てた私はどんな姿なのだろう。どんな声で話しどんなふうに笑うのだろうか。私が子供の頃から人間の姿を持っていたとして、私がどのように過ごしたのか、水元は考えられずにはいられなかったという。私は水元がどうしてそんな話をするのか理解できなかったが、水元が私に興味を持ってくれているのを感じることができた。
「あなたはお母さんに会いたくはなかったですか?」
私が脳の姿でいた時、私はマイクとカメラで母の声や姿を認識していた。その姿形はわかっていた。彼女がどういった人間なのかを考えたことはなかった。
「私はあなたのお母さんが好きですよ。あなたも好きでいてくれると私は嬉しい」
そう話す水元の瞳は穏やかだった。緊張感のある母の目とは違う。
私と同じとび色の瞳をもつ水元の話を聞きながら、私も水元と同じように穏やかな目で母と過ごすことができるだろうかと考えていた。
***
月から地球へと向かう日がきた。
私と母、水元は最後に三人でホールにやって来ていた。
大きな窓に映る地球を見て、ぶるぶると震えていた母が嗚咽を漏らす。かみ殺すように泣いていたのが、次第にわんわんと声を上げる泣き声に変わった。車いすの上で項垂れる母を水元が支えた。
「……大丈夫、きっと地球でも生活できますよ」
水元の慰めを大きく振り払って、母は思いもよらぬ行動に出た。車いすを飛び出し私に縋り付いてきたのである。
「私たちはかぐや姫になるのよ。地球に戻ってもまた月に帰って来れるわ。新たなかぐや姫に生まれ変わるの。あなたは再びかぐや姫になって……っ」
取り乱した母の身体は温かかった。喉から漏れる嗚咽、涙で濡れた頬、力強くも脆く細い腕。縋り付いて来る母の身体に触れて、その時、私は初めて母が生きていることを実感した。
──生身の人間という物はこんなにも柔らかく頼りないものなのだろうか。人間として生きることはこんなにも豊かな感情を有することなのだろうか、と私は震えた。
金属と強化ガラスに守られ、水に浮かんでいた時にはなかった感覚だった。私の身体の中心からじんわりと湧きおこってくる何かがある。脳だけで生きている時に入力された様々な言葉たちとは違う、温かで柔らかで儚い人間の感触に私は触れてしまったのだ。
私の目には母と同じように温かな涙が溢れていた。
「私は月に戻らなくてもいい。私はあなたに会えて良かった」
母が私の身体を掴みながら泣き崩れる。
私は、私の中に息づく〝かぐや姫〟を感じていた。私が経験したことのないものが私の中にある。だけど、まだしっかりとは理解できない感覚だ。
いつか私もかぐや姫の一員になり、その感情を本当に理解する日が来るのかもしれない。そう思いながら私は母を抱きしめていた。
お読みいただきありがとうございました!
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