ノエル・コールマンの婚約‐三
手はまだ冷たいのに、汗がじわりと滲み出す。
ただ足を組んで座っているだけなのに、跪きたくなるような威圧感。
“悪魔”と恐れられるに相応しい。
「“おや?顔色が悪いようですが、いかがなされました?”」なんて白々しく聞いてくる。
「しかし、手紙を書いたのがノエル嬢でなくて安心したよ。私も昔、故意的ではないにしろ、顔に傷を付けられたことがあってね。今回は、私が加害者側に回らずに済んで、本当に良かった。」
世間話を続けるように話しかけるパトリック。
かつて傷があったであろう、白い頬をつぅっと、なぞる。
―――“昔、顔に傷を付けられた”
―――“ブルックスの悪魔”
「あっ!!」
ノエルは勢いよく、姿勢を伸ばす。
幼少期、その条件に合う人物のある噂を耳にしたことがあったからだ。
でも、その人物の性別は、確か……
「おや、幼少期の私を知らなさそうな、ド田舎から厳選したつもりだったけど、家畜動物しかいないような地方にまで、私の異名は知れ渡ってたのか。」
ブラウスのボタンを、上から一つずつ外していく。
「こんな早くに明かすつもりはなかったけれど……まあ、いいか。そのために、口が固い令嬢を選んだんだから。」
ちらりと見えた上半身は、コルセットをギチギチに締め上げてもなお、零れそうな双丘。
「改めて、自己紹介をいたしましょう。」
パトリックは立ち上がり、固まってしまったノエルを見下げる。
二人の視線が絡み、怯えることしかできないノエルに、
『いい子だ』と言わんばかりに、パトリックの瞳がにんまりと弧を描く。
「私は“パトリシア”・ブルックス。ブルックス公爵家の“一人娘”よ。私的には、“黒い茨”の異名を広めたかったのだけれど、“ブルックス家の悪魔令嬢”の方が広まってしまったのよねぇ。どうしてかしら?」
後半は、独り言のように呟いた彼女は、にこりとノエルに笑いかける。
「貴方が書いたとか、父親が返事をしたとか、もうどうでもいいの。私を馬鹿にしたことを、後悔して、謝罪なさって?……許しは、しないけれど。」
ノエルは浅く息を吐いた。
唾を飲み込めど、喉に何かが張り付いた感覚が拭えない。
謝罪を口にしたいのに、言葉が上手く出てこず、もどかしさを感じていた。
「(お父様は、本当に何を書いたの!?)」
手の震えが止まらない。
口を開けては閉じを繰り返す。
「餌を欲しがる魚の真似?とても似てるわね。そんなことで、私の機嫌が取れると思ってるなら、私の推測は、半分以上、当たっていたってことね!」
何が何だかわからずに、かひゅ、かひゅ、と荒い息になるノエル。
――手紙になんと書いてあったかはわからないが、とにかく早く謝罪しなければ。
ガクガクと震える足に力を入れる。
自分に喝を入れるつもりで、左手首に爪を立てる。
長めに息を吐き、目線をパトリックへ移す。
「大変、申し訳ございません。」
頭が膝につくのではないかと思うほど、腰を曲げる。
……今日も、両親や兄弟の尻拭いのために、頭を下げる。
“いつものことだ”
でも、さすがに怒らせる相手は選んでほしい、と思うノエルだった。
―――
……どのぐらい頭を下げ続けているだろうか。
気持ち的には三十分か、一時間経ったように思えるけれど、実際は五分程度だろうか?
「(……聖女も、この子……に……しなければ……)」
何を言ったのか聞き取れず、パトリックの顔を少し盗み見る。
苦しそうな、悔しそうで。
そして、痛みを我慢しているような。
転んで怪我をした子供が、必死に溢れる涙をこらえているような――
今にも、泣きじゃくってしまいそうな顔。
今でこそ、心無い言葉を私に投げかける妹だが、
可愛げがあった昔の姿と、何故だか重なる。
本当は、泣きたくてたまらないのに、心配してくれる人間が側にいないから、泣くのをこらえている。
妹にとっては、涙さえも人に構われるための道具だった。
“この人も、子供のように泣きたいだけだとしたら?”
理由はわからない。どうして泣きそうな顔をしているのか。
それでも気づけば、ローテーブルに乗り上げ、パトリックの頭を抱きしめてしまった。
公爵家の跡取りと言っても、私の一つ下で、十六歳のはずだ。
泣きたい時に、泣けない時もあっただろう。
ただ、子供のように泣いてほしいと思った。
いや、願ってしまった。
「差し出がましいとは思いますが、どうか泣きたい時にお泣きください。今は、貴方様と私の二人だけですから。」
先ほどまで、あんなに恐ろしく感じていたのに、
今では、憐れみさえ感じてしまう。
……私はどうも、うまく甘えられない子に弱いらしい。
胸元から小さな嗚咽が聞こえだしたので、頭を優しく撫でることにした。
星、評価、レビュー、感想を教えもらえますと大変、喜びます!
励みにもなるので、どうかよろしくお願いいたします!




