心鉄に魔の手
時は少し遡る。
眩い夏の日差しの下、朝来山には大勢の人間が集っていた。福一が率いる面々に、岩断から招集されてやって来た自警団。さらにそこへ、炎に追われて避難してきた商売人たちも。後から加わった勢力は一人残らず捕えられ、盗品たちと同じく並んで座らされている。
要も逃げ惑う商売人たちを捕まえるべく手伝ったが、敵も味方も数が多いので目が回りそうだった。戦闘とは縁遠い相手から反撃されることはなく、拘束すればいいだけだったが、これが殺し合いの戦場であればどれだけ傷を作っていたか分からない。
大人数による捕物劇が終結し、一段落の余韻が漂う中。要はこっそりとその場を離れ、洞窟へ戻っていた。誠吾や知俊の注意は他に向いていて、紀定は最後に山を出るため不在。一人で動けるのは今しかなかった。
人妖兵を殺し、その手柄を持ち帰るために。
朱泉常守隊は、妖怪や物の怪に一切の容赦をしない。人妖兵の存在にも否定的だ。飼い主の手を噛むどころか、都を容易く壊滅させかねない化け物を飼うなど正気の沙汰ではない。元よりその姿勢は強固だったが、須榧在雅、現在の名を雷雅という屈辱を刻まれてからはなおのこと。それからも数百年、朱泉府の意思が揺らいだことはなかった。
しかし、朱泉常守隊の意に反して、現在の人妖兵は記録上類を見ないほど増えたという。そればかりか、雷雅と関係の深い者まで加わったのだとか。端から戦力に数えられていない要は、存在の有無しか耳に挟んだことがないけれど、人妖兵が排除されるべき理由が増えたことに変わりはない。
人妖兵を殺せば、要は確固たるものを得られる。
取り返した短刀を胸に、要は無数に張り巡らされた洞窟の一つへ入り込んだ。煙の匂いや籠った熱が肌や臓腑を刺してくるが、すぐに護符を用いて対処する。短刀を探していた際に仕込んでおいた式を起動させれば、道案内の鳥も現れる。誠吾も知俊も敏い方だろうと見当がついていたので、行動には相応の慎重を要したが、細心の注意を払ったかいがあった。
引き続き、警戒を解いてはいけない。これからもっと手強い相手を仕留めなければならないのだ。ただ挑みかかるだけでは返り討ちにされるだろう人妖兵を、稲葉孝信を確実に殺すなら、いかなる油断も許されない。
「っ……」
これまでに見てきた孝信の姿を思い返して、要は唇を噛んだ。何を考えているのか分からない不気味な男。見下ろされていても、要の首など一瞬で切り落とせるのだろう化け物。されど、向けられた侮辱を弾く誰かに囲まれている、化け物。
道具を羨むような身が取るには大きすぎる首だと、重々承知している。それでも、人妖兵の首を獲れば、要は認めてもらえる。一縷だとしても望みがある。
細い隧道から大きな洞窟を窺えば、炎の声と熱に混じって、化け物の笑い声が聞こえた。まだ、孝信たちは舞台にいる。脱出に備え、この道が残されることは決まっていた。間違いなく、孝信は残った用心棒たちを誘導し、この道から外へ出る。そこを一網打尽にすれば、要にだって。
目が眩んでいる自覚はあった。ただでさえ弱い自分の中でも特に弱い部分が、叫び出す寸前の気配があった。それでも手を止めはしない。心の揺らぎが術に影響して失敗するなど大恥だ。あってはならない。
「必ず、殺す。殺さなければ」
密やかながらも強く、自分に言い聞かせる。そんなことをしなくても、自分の心を容易く殺せるようにしなければ。
地面へ向けた手のひらに巡る脈と、洞窟に巡る脈が繋がり、熱を帯びる。本来はない場所へ、線を引くように脈を伸ばし、呪力を巡らせて岩盤を弱らせていく。孝信たちが暴れることも考慮して、ギリギリまで。
幸い、術に揺らぎは生じなかった。起こすことは単純な崩壊だが、単純だからこそ精神状態が明確に反映しかねない。加えて、規模や範囲がそれなりに大きいため、気を抜くわけにもいかない。
そして、その時はやって来た。
隙間なく準備を整え、身を潜めた要の傍へ、激しくぶつかり合う武器の音が近づいてくる。場違いな笑い声が挟まるのも。
岩陰から顔を出しても、要に気づく者はいなかった。黒に朱の服装が暗闇で目立ちにくく、頭巾を被っているからというのもあるが、妖怪たちの誰もが戦いに夢中だからだろう。躍る影に響く音は恐ろしい。
全員が人ではなく、要からすれば打ち倒すモノ。ここで全員殺せたとしても、要には何の咎もなければ、成果にさえならないのだ。人妖兵の首以外は、何一つとして。
「っははははぁ!」
幾度となく聞こえてきた笑い声が、要の覚悟を締め上げた。
孝信が相手と接敵する瞬間、ありったけの呪力を流し込み、術を起動させる。炎でも外光でもない白い光が瞬いた直後、ずしんと地面が揺れ、底が抜けた。二つの影が姿勢を崩し、落下していく。
後は瓦礫に埋もれるのを見届けたいところだが、生憎、要が仕留める相手は人ならざるモノ。自分の手でとどめを刺し、死んだことを確認しなければ、手柄にはできない。
要は懐の短刀をすぐさま抜き放った。空いた片手は地面に触れさせ、未だ通ったままの地脈に力を流し、活性化させる。砕けた岩盤で片道を作ったのだ。落とせるかどうかも分からないが、落とすと決めた首を獲るために。
躊躇なく踏み出した足が、瞬く間に目標へ駆けていく。戦闘ができるよう仕込まれているとはいえ、格上の相手に挑みかかるのは初めてなのに、要の体は怯懦など知らず滑らかに動いた。頭巾が取れ、顔の横で不揃いの髪が靡く。勢い衰えず飛び掛かり、孝信の背にぶつかったが、短刀からは確かな手ごたえが伝わってきた。
けれど、要の腕はすぐさま掴まれる。それどころか、孝信は要の体を軽々と引っ張り、あろうことか抱き締めた。
「は!? お前、ふざけるなッ」
要の姿は見えているはず。短刀を持っていると分かってもいるはず。要は孝信を殺そうとしたのに、孝信は警戒さえしていないのか。
「何のつもりだ、どうして」
藻掻いても身動きが取れない。細身からは想像もできない力で、孝信は要を抑え込んでいる。要のそれより大きな刀で、片手が塞がっているのにも関わらず。
人の形をした化け物の前で、自分は、これほどまでに無力なのか。
要を奮い立たせていた覚悟が、いとも簡単にへし折られる音がした。その残骸が、骨にまで食い込ませられるような心地がして。
「離せ、このっ、化け物が!」
それを自分に思い知らせるのが、殺すべき化け物であることが、耐えられなかった。
「申し訳ありませんが、今は離せません」
耳元で声がすると共に、抱き締める力が強まる。否応なく体が重なると、孝信の細さを全身で分からされた。もしかすると、紀定や知俊より華奢かもしれないのに、今にも要を潰さんばかりの力はどこから出てくるのか。
「う、ぐ」
「加減できないのも申し訳ありませ……んぇえ?」
間の抜けた声が聞こえたのと、ぐんっと何かに引っ張られるような感覚がしたのは同時。落下の速度を物語っていた風圧が消え、緩やかに降下していく。要の顔は相変わらず孝信の胸に押し付けられていたため、状況がどう変わったのか確認できなかったが、地面に激突する可能性は消えたと察せられた。
間もなく、足が瓦礫だらけの地面に着く。やっと身動きができるようになり、解放される前に、要は孝信の腕を振り払った。短刀は収めないまま、後方へ下がり距離を取ったが、足場が悪く思うようにいかない。
「要さん、危ないですよ」
「黙れ!」
白々しいほど暢気な心配に叫び声で返してしまうと、自分の立場が弱いと思い知らされる。孝信も刀は収めていなかったが、切っ先は地面に向けられ、ただ持っているだけだった。脇腹には、要の付けた切り傷が血を滲ませているはずだが、全く意に介されていないように見える。
「さっきから、私を馬鹿にしているのか。私はお前を」
「殺すおつもりだったのでしょう。でも、それとこれとは話が別ですよぉ。誰かの命が危険に晒されたら、守らなければなりませんよね?」
酷い矛盾の歪みを晒しながら、孝信はなんてことないように即答して笑う。崩れた上の洞窟からは、未だ火明かりが注いでいたが、微々たるもので闇の方が濃い。それなのに、化け物の笑みはありありと分かる。常に浮かんでいるからではなく、真正面から、要に向けられているせいで。
「……あ。先ほどはどうも、ありがとうございました。そちらもご無事だったのですねぇ」
ところが、急に孝信は別方向に声を投げた。暗闇の中で何かが動き、ぼうっと明かりを灯す。孝信と一緒に落ちた、笠を被った浪人のような妖怪が、持った札に明かりを浮かべて掲げていた。
「この身が傘に変じると、お前はとうに知っているだろう。助けた礼なら作った者に、と言いたいところだが、もうおらぬゆえ拙者が受け取っておこう」
「ついでに明かりまで」
「これも拙者が作ったものではない。先に勤めていた場所で、報酬と共に貰い受けた。高楼から脱出する時に使えそうだと、拙者の姿を参考にしたから、その料金だと。そんな程度で金など取らぬし、拙者には宝の持ち腐れだと思っていたが、まさか役に立つとはな」
「貰えるものは貰っておく方が正解というわけですねぇ。あっ、要さんはご覧になれませんでしたよね? いやぁ俺もびっくりしたんですよ、何か投げつけられたなと思ったら、急に後ろでバッと何かが広がる音がしたもので」
のんびり会話まで始めたかと思いきや、孝信はまたも急に要へ向き直った。刀を収めるのと入れ替わりに、背後から何かを拾い上げ近寄ってくる。やはり脇腹には血が滲んでいたが、全く気にしていないらしい。
要は呆気に取られて動けなくなったが、孝信はそれも気にかからないのか、何の変哲もない布を広げて敷く。ご丁寧に、浪人姿の妖怪も明かりを持ってきて、墜落を防いでくれたものを照らし出していた。
「ほら、こちら。俺の背中に何か当たったなと思ったら、この布が広がりまして。落ちる勢いに歯止めがかかって、ゆっくり降りることができたんですよぉ」
腕を広げて歌うように言う人妖兵は、自慢の商品を紹介しているかのよう。ところが、瓦礫を覆うように広げられていた布は、音もなく崩れて消え始めた。孝信は「あれぇ!?」と素っ頓狂な声を上げたが、術を起動させた妖怪は、驚きもせず落ち着き払っている。
「便利だが、さすがに一度の使い切りだ。しばらく残っていたのは、それだけ製作者の力が強かった証左だろう」
「はえぇ。勿体ないですが、仕方ありませんねぇ。道具というのは、使われなければ意味がありませんから。ねぇ、要さん」
悪意のない、どこまでも軽やかで親しげな声が、しかし要にはどうしようもなく耳障りに響く。戸惑いはとうに消え、募っていた苛立ちには火が投げ入れられた。
「……愚弄するのも大概にしろよ、化け物が」
怒りが滲んで、視線も声も黒くなる。真正面から向けているのに、きょとんと首を傾げた人妖兵には届いていない。灰を混ぜられない強固な白が、どうしようもなく腹立たしく、要の中に黒いものが止めどなく湧いてくる。
「洞窟を崩落させたのは私だ。お前を殺そうとしたのも私。その脇腹の傷だって、私が斬りつけた。だというのに、さっきからその態度はなんだ、馬鹿にしているのか、私を。大体この問いかけにすら応じていない時点で軽んじているよな。私はお前に返答される価値さえないとでも言うのか」
「はて。それについては確かにお答えしたかと。誰かの命が危険に晒されたら、助けなければいけないと。だから俺は要さんを助けたのですが……ええと、もしや、これは答えになっていないのでしょうか」
孝信の笑みは気に食わないが、困惑を示す僅かな色が、要の黒を少しだけ堰き止めた。分からないのもどうかと思うが、相手は人の理から外れた化け物、伝わらないこともあり得る。理解を求めること自体、本当なら筋違いとすら言えた。
「……質問の仕方を変えよう。お前は、殺しに来た相手を殺し返さないのかと訊いている。それとも何か、私はお前が殺すにも値しなかったのか?」
「あー、そういう。とんでもない、殺意の乗った良い不意打ちを食らわせていただいたと思っておりますよぉ」
筋違いだから、求めるだけ無駄。分かっていながら踏み出してしまった過ちに、要はようやく気づいた。
止まっていた孝信の足が、一歩、瓦礫を踏み締める。刀が盗まれたと知った時、要が詰め寄っても立ち上がらず、へらへら笑っていた姿が思い出された。あの時に感じた悪寒が、再びぞわりと要の肌を粟立たせている。
「俺にとって至上の喜びに当たることは、誰かと互いに傷つけ合い、殺し合うことです。それを持ちかけてくれた貴方が、殺すに値しない方だなんて、ありえません」
吹けば飛ぶような軽い愛想と違い、奥底から込み上げる何かを含んだ笑みを浮かべて、孝信は躊躇なく要に歩み寄ってくる。反面、要は凍りついたかのように動けなくなっていた。認識を求めていたのは別の方向なのに、しくじったせいで、化け物の視界に収められてしまった。
「命が危うければ助けること、殺意を向けられれば応えること、どちらも俺には当然です。ただ、俺を殺してくれる相手は一人だけですので、貴方に殺されることはお約束できません。でも、貴方と遊ぶことはできます」
言っていることは分かるが、どうしてそんな繋がり方をしているのかが分からない。理解できない道理の持ち主が、殺傷を拒絶の表明と見なさない相手が、目と鼻の先にまで迫っている。要という人間に、手を伸ばそうとしている。
「殺し合うのが一回きりだなんて勿体ない。これからも俺と遊びましょうよ、要さん。朱泉府の方々は、俺のことがお嫌いとのことですけれど……それってつまり、俺を始末するとなれば、一切の容赦を挟まないということでしょう?」
青白く光る双眸が、要を覗き込こんだ。視線は要の体内へ入り、心臓を握り血管を伝い、体中を巡って掌握してくるかのよう。そしてそのまま、要は魂までも掴まれて――。
「小僧。口説いているところ悪いが、何か来るぞ」
視線の形を取った魔の手は、傍観者によって阻まれる。「ざぁんねん」と孝信が身を引けば、要の体に自由が戻ってきた。視線だけで動きを封じられたことに、早くも怒りが湧いてきたが、切り替える。浪人姿の妖怪が感じたのだろう気配が、要にも打ち寄せてきたので。
「……うーん? お二方、感じたことありますか、こんな気配」
「妖怪ではあると思うが、そうと言い切るには少し妙な気がするな。朱泉府の小僧、お前なら何か分かるのではないか」
「確かに、妖怪と括るには違和感がある。無害な気配とも言い難い」
気配が感じ取れた方向、未だ闇に包まれている場所を凝視して、要は口元に手を当てる。嫌悪や禍々しさのような、尖ったものは感じ取れないが、逆にそれが不吉を予感させた。今にも破裂しそうな袋を前にしているかのような、布を一枚挟んで敵と対峙しているかのような、一触即発の絵面が頭をよぎる。
「相手の正体はともかく。戦うとなったら、お互い協力する他なくなりますねぇ」
「それが分からないほど、私が愚かだと思っているのか。妖怪、お前も協力しろよ」
「心外だな。この中では拙者が最も協調性に溢れているぞ」
「えー、俺だっていい子ですから、お二方に合わせられますよぉ」
場違いな暢気を交える妖怪たちにため息をつきつつ、要は袂から紙人形を取り出し、予め仕込んであった術を起動させた。白い紙は光を帯び、宙へ放れば数を増やして飛び回る。光る鳥の群れの完成だ。要が一か所を指し示せば、紙の擦れる幽かな音を伴って飛んでいく。
「見えるぞ、構えろ」
紙の鳥たちが気配の正体に肉薄し、白い光で四方八方から照らし出す。逃げ込めそうな暗闇を排した中、ぽつりと浮かび上がったのは、とても小さな人影だった。




