008.はじめての魔法学習
リリスの助力により人界へ帰ってきたアーシェは、勝手に住み着いている同居人の存在を感じとった。
──茜。
──おかえり。どこに行ってたの?
──魔界と人界の狭間ですって。
──なんじゃそりゃ。まあ、魔法もある事だし地獄とかもあってもいいのかな。
──それより、わたくしの身体を勝手に使って何をやっていたのかしら?
アーシェの意識が途切れたのは、立ち上がっている状態の時のはずだ。であれば今は立っているか床に倒れているはず。
しかし現在彼女の身体は椅子に腰掛けており、外傷なども見当たらない。それにもし本当に気を失い、倒れたならば、側近たちがこんな場所に放っておく筈がないだろう。
つまり、この身体は茜の意思でも動かすことが可能で、それによってここまで来たか、茜がアーシェの声を使って側近を誘導したかのどちらかと言うことだ。
──いやぁ、自分から立とうとしたんだけど、思うように身体が動かなくてね。ほら。
茜は本の上で手を開き、力を集中させる。すると微かに指先が震え始めた。
最初は何をしているのかと思ったアーシェだが、それが手を開閉しようとしているのだと知ってから、割と深刻な問題だと見受けられる。
──身体が馴染んでいないのか、それとも別の原因か、兎に角今の私には頁を捲るくらいは出来ても、本を片手で掴んだりはできないんだよね。
──ふむ。
──それと、今すぐ身体の主導権をあーちゃんに返したいんだけど。
そう言って茜は身体の力を抜き、アーシェに肉体を返した。
押しつけられたように返された肉体は、一瞬でアーシェの精神に馴染み、茜が操っていたときに起きていた手の震えもなくなった。
──それで、一体どうしたのよ?
──実は。
茜はこれまでの経緯をすべて話し、アーシェの疑問に包み隠さず答える。
――という訳なのですよ。
──なるほど。
「セリア、メリッサ、レオノーラ」
「はい、姫様」
駆け足で近寄ってくる側近たち。その顔色は普段と同じく、至って健康的で真面目な表情だった。
「どう?」
「どう……とは?」
「苦しくない?」
「はい。もう苦しくありません」
──つまりは貴女が原因ということね。
──まあ、予想はしてたけど。あ、それともう一つ報告。魔法が一つ使えるようになったよ。たぶん。
茜は何気なく言ったつもりだったが、アーシェにとっては今までの報告以上に衝撃的な報告だった。
──まあ見ててよ。
震える手をそのまま前に出し、魔導書に載っていた通りに略式呪文を唱える。
「《灯火/灯火よ》」
すると手のひらにゆらゆらと焔が沸き上がる。
──凄いわね。こんな短時間で魔法を使えるようになるなんて。
──そう。あんまり実感がわかないなぁ。
茜の考えでは魔法とは数学の証明問題のようなものだった。
現実干渉という命題があり、その中で魔法語という特殊な言葉遣いを用いて魔法陣という用紙に記述し、呪文という番号を振り分けて、略式呪文という合い言葉で現実を解く。これが魔法だ。――多分。
呪文を省略できるというのは、慣れた者なら問題の特徴を思い出す時間を飛ばし、直接該当する物を言い当てる事もできるということだろう。
実際はアーシェが使っていたような、祝詞を用いた魔法などもあるので、一概には言えないのだが、そう考えると魔法という摩訶不思議な技術にも接触しやすくなる。
たとえそれが間違っていようとも、魔法を理解できる領域になってから、改めて再度検証してゆけばいいのだ。所詮世の中の九割九分は仮定なのだから。
──実は私も魔法を覚えてきたの。
──それは凄い。
アーシェは茜の気が引けたことが、何故か無性に嬉しく、得意気になった。
「レオノーラ」
「はい、姫様」
「お手々握って」
アーシェに言われるがままに、手袋越しに手を添えるレオノーラ。尻尾が生えていれば嬉しさのあまり振り回しているだろう表情は、茜の記憶にある大型犬を彷彿とさせる光景だった。
「《魔力吸収/知恵を奪え》」
「……?」
──何したの?
──魔力を吸い取っているの。
──へぇ、そんな事が。
──もう少し勢い上げてみるわ。
「ひ、姫様。何だか魔力が抜けている感覚がするのですが……」
「気にしないで」
「はい……」
──うーん、何か回復しているようなしていないような。
──効力は微妙ね。
早々に見切りをつけてレオノーラの手を離す。何をされたのかと不安になった彼女は、手を擦りながら自身に起きた現象の説明を乞う。
「貴女の魔力を取り込もうと思ったのだけど、あまりうまくいかなかったわ」
周囲の者がキョトンとした表情を見せ、レオノーラの顔がみるみるうちに青褪めていく。直後、命乞いをするかのような形相でアーシェの手をがっしり掴み、主人に向かって懇願した。
「返してくださいませ! いえ、返さなくても良いので今すぐ吐き出してくださいませ!」
「レオノーラ!」
同僚の血迷った行為にメリッサは慌ててアーシェから引き剥がした。セリアは取り押さえられたレオノーラに一瞬だけ同情の視線を向け、セリアの方へと振り返る。
「姫様。緊急事態です。目を瞑り、己が魔力に意識を向けて下さい」
「こうかしら」
「失礼致します」
セリアはアーシェの魔力の変化を少しでも正確に感じられるように、彼女の額と自身の額を接触させた。ほんのり温かい体温がセリアに伝わり、それと同時に主人の中にある魔力の流れを感じ取る。
「何か感じませんか?」
――魔力ってどう感じるの?
――ここよ。
――え?
――ここよ。
アーシェは茜との精神空間で辺りを見回す。
そこには小さな、本当に小さな豆粒のような光がアーシェの足下にあった。その光がもっと大きければ、子犬のように愛でることもできたかもしれないのだが、いかんせん小さな光は小バエのようで鬱陶しかった。
――……ハエ叩き、いる?
――……頂くわ。
アーシェが魔界と現世の国教沿いに行っているうちに、茜はやけにはっきりしている精神世界を調べていた。もちろん読書をしながらである。
そこで見つけたのは、このやけにはっきりしている精神世界は、本当にはっきりしていることだった。
馬鹿の一つ覚えのように言っているが、はっきりしているのである。この空間は想像したものが創造されるのだ。ただし創造できるのは二人がよく知っているものに限るなどの条件は多い。
見た目プラスチック製のハエ叩きを持ったアーシェが、素早い動きで腕を振った。現実では決してできないであろうその動きも、精神世界なら可能なのだ。
道具に叩かれ地面に落ちた光は茜の用意した虫籠に入れられる。籠に入れれば蛍のように多少は風情のある存在になるかと思ったが、捕らわれてなお飛び回る光は風雅の欠片もない。
「鬱陶しかったから隔離したわ」
「ではそのまま使ってください」
先程茜が使っていた魔法に倣い、アーシェは右手にハエ、もといレオノーラの魔力を持って行き、魔法を使うべく呪文を唱える。
「《灯火/灯火よ》」
ポフッと小気味好い音が鳴り、精神世界の光が少しずつ弱まっていく。そして灯し続けること体感数分が経過し、アーシェの体内からレオノーラの魔力は完全に消え失せた。
「消えたわ」
「姫様。いくら側近とはいえ他人の魔力を勝手に取り込んではいけません。今は吸収されずに使い切ることができましたが、一歩間違えたらもう少しで大事に至るところでした」
「大事って、どうなってしまうの?」
アーシェが手を頬に添えて尋ねると、側近たちは皆誰もが言い淀む。
「第一公妃殿下から示教を授かってください」
「お母様に?」
その時点で茜は凡その予測を立てられていたが、アーシェが自力で考える前に何でもかんでも教えていたらアーシェの思考力を鍛えることができなくなると思い、口を噤む。
「今度お目にかかるとき伺ってみるわ」
何故か赤面し俯いて震えているレオノーラを無視して、アーシェは魔法の学習に勤しんだ。