049.旅立ちの日
時は遡り、アーシェが領地を出る当日。
普段は一の鐘が鳴り終わった後に起床するアーシェも、今日はそれより一刻以上早く起きた。
未だ残る眠気を入浴で洗い流し、外行きの装束を纏っていつもより早い食事を取る。
今朝の朝食はエリザベートも共に食べており、その料理はいつもより何倍も美味しく感じられた。
彼女は領地に戻ってきても、ミリアシルたちと食事を取ることはほとんど無い。
それは、自分がいると夫人二人が寛げないだろうという、彼女なりの気遣いだった。
エルミニクとは従妹、ロベルティーネとは五世の祖で繋がっているのだが、やはり公室と浄階貴族、それも領主の姉という存在は、二人ですら畏怖の対象となり、近くにいると謙遜してしまうらしい。
「姫はわたくしが責任を持って預かります」
「頼む」
城の大正門が地鳴りを立てて開かれ、セルヴィスの上層と古城の区切りが取り除かれた。あまりの大きさに、開けた瞬間、周囲に風が吹き荒れる。
外開き故に、アーシェに吹く風は、追い風のように外へ吹き出ていった。
領主と統括の出城号令も終わり、先頭の獣車から次々と出発する。その数、実に三十両を超え、大型車だけでも二十両あった。
「行って参ります。お父様」
「あぁ、気を付けなさい」
家族の別れは意外にもあっけなく終わり、ついに真ん中あたりに配置されたアーシェの車両も動き出す。
城から出て、上層を出て、下層を出て、セルヴィスを離れる。上層の道中に見た、閉門する城門の姿はアーシェの心に杭を打った。
寂しさが表情に表れ、一筋の涙が頬に線を描いた時、エリザベートは手巾で優しく拭い取る。
「アーシェ、獣車の生き物はご存じでして?」
アーシェを気遣ってのことか、彼女は頻りに姪に声をかける。それは確かにアーシェの気を紛らわし、彼女の心は別の所へ誘われた。
この世界に厳密な意味での馬はいないが、馬と呼ばれている四足歩行の魔物は多く存在する。しかしこの国において馬は、前世の歴史ほど重要視されていなかった。その理由として、魔獣の存在が挙げられる。
彼等魔獣の中には、魔力によって、通常の魔物よりも身体や知能が著しく発達している種族がいる。
例えば卵の頃から育てれば、人の言葉をある程度理解する鳥や、自身の数十倍の質量を持ったものを軽々と引きずる犬など、手懐ければ馬より便利な種はたくさんおり、相対的に馬の価値は低いのだ。
しかしそれは大国内での話。
個人が強大な力を持つ貴族であれば、一般的な魔物の対処など造作も無いが、魔力を持たない平民では、魔獣が暴れたのなら、訓練された兵隊や、それこそ冒険者でもなければ太刀打ちできない。
そんな危険な存在を貴人の側に置けるはずもなく、故に小国では魔力が殆どない馬が使われている。
しかしそんな事情は大国貴族には関係のないことだ。
魔獣引きの車、通称獣車に用いられている魔獣は、国内用と国外用の二種類がおり、国内用の魔獣はサエルラベスティアと呼ばれる巨大なアオミノウミウシ。
国外用の魔獣はアルゲントゥムルプスと呼ばれる巨大なホッキョクオオカミだった。
後者はまだしも前者は完全な飛行体であり、その形状からも一般的な動物ではないと断言できる。
浮遊していて一見非力に見えるこの生物。しかしその実、馬力は数百から数千と言われており、優秀な固体を数匹用いれば、貨物列車にも匹敵する。
魔力に感情を乗せて話せばある程度の意思疎通も可能であり、基本的に自分よりも魔力の高い生物に従うため、側に貴族がいれば暴れる心配も無い。
「そして何より、餌が殆どいらないと言う所よ」
魔獣の中には、身体の多くが魔力で構成されている魔力生命体と、それ以外の肉体を持つ物質生命体があるらしい。
彼等は限りなく前者に近い後者らしく、魔力に満ちた大国にのみ生息する。
魔力が豊潤な我が国では、大気や大地から魔力を吸い取ることで、寿命が来るまで生き続けられるのだ。水やりは雨水程度で事足りて、維持費が掛からないことから長距離輸送に重宝される。
これだけ聞くと利点だらけの生物なのだが、この魔獣は大量発生すると自然界の魔力を根こそぎ奪い取ってしまうため、特殊害獣に指定されている。加えて生息できる地域が魔力に満ちた土地のみであるため、三大国の外に出した場合、みるみるうちに衰弱し、半日から二日ほどで死に至る。
尤も、サエルラベスティアの場合、魔力の少ない場所には行きたがらないので、小国に連れ出そうものなら全力で抵抗される。
そうなれば貴族相手であろうと一筋縄ではいかなくなり、信用を失い逃げられるか、命を賭して反撃される。
移動しているにも関わらず、一切の振動がない獣車の中、蘊蓄を傾けるエリザベートの隣で話を聞くアーシェの目は、キラキラと輝いていた。
アーシェは聞き上手だ。誰のどんな話にも興味を持ち、純粋なまなざしを向ける。
そんな子どもの前ではどんな大人も天狗になり、自身の知識や経験をさらけ出してくれるのだ。
ただし彼女の場合、知っている内容については然したる興味を示さないため、そこは茜がフォローして完璧な子どもを演じてみせた。
彼女の小話に耳を傾けていると、いつの間にか日は完全に昇りきり、セルヴ領とケクレ領の境である峠が見えてくる。本日の半分を通過したと知ったアーシェの腹は、急にぐずり始め、それを聞いたエリザベートが微笑みながら籠箱を取り出し、アーシェに渡した。
中身は城の中で作った昼食だ。
異空間にしまわれたものは、状態が完全に保存されるため、できたてほやほやの状態で食べることができる。美味しゅうございますと、幸せそうに頬張る姪の顔は、万人の顔を綻ばせた。
アーシェが乗っている獣車は輸送用のものではなく、ロベルティーネが乗る専用の車だ。外見はただの豪華な獣車なのだが、中身は魔力で拡張された空間で、その広さはアーシェの私室一部屋分以上もあった。
「移動している空間にもできるのですね」
「えぇ」
そうして雑談に花を咲かせていると、夕暮れ前にはケクレ本領にたどり着く。
アーシェたちが泊まる宿は、やはりその街一番の宿泊施設だ。彼女は最初、無駄に高級な施設を利用することに疑問を感じていたが、茜の言葉と揺るぎない現実によって、考えを改めた。
――侮られてしまうでしょ?
――そう言うものなの。
民とは下賎な話が好きなものだ。
もしも商会統括たるエリザベートが、程度の低い宿で妥協をしてしまったのなら、統括様は金がないやら、見る目がないやらと悪評を流される。可能性がある。
そして彼女が最高の宿を取る最大の理由、それを知ったのは、アーシェが入浴を終えて食事に在り付く時だった。
アーシェは生まれてこの方外食をしたことがない。それは殆どの場合美点になるのだが、今回に限っては致命的な欠点となる。
「……うっ」
その表情を見たエリザベートは悪戯が成功した子どものように、にやりと笑う。しかしアーシェは、そんなことを気にしている余裕はない。口の中で、できるだけ舌に当たらないように転がして、唾液が出てきたところで思い切り飲み込む。
「不味い、でしょう」
「いえ、その……」
はっきり言って不味かった。
食感、舌触り、味付け、香り、そして見た目から使われている食器の質まで、何を取ってもアーシェが今まで食べてきたどんな料理よりも劣っている。
アーシェは今まで好き嫌いせず食べてきたが、今後の人生において嫌いな食べ物は何ですかと聞かれたら、お外で初めて食べた名も知らぬ料理です、と答えてしまいそうなほど、城のものとは乖離していた。
「その、えっと……斬新ですこと……?」
その答えにエリザベートは失笑し、よほど面白かったのか、扇子を取り出すことも忘れて涙を浮かべる。
この宿に泊まることを決めたのは彼女だ。そこで出された食事がこれほどまでに酷いと言うのは、彼女の品も落ちてしまう。しかしアーシェは的確な言葉が咄嗟に思い付かず、美味しくないと思っていることを悟られてしまった。
項垂れるアーシェを横目に、一通り笑い終わった彼女は、行儀悪く姪の切った食事を一つ摘んで口に入れる。
「うん、微妙」
「え……」
どう言うことだろうか。エリザベートはわざと自分につまらないものを出したのだろうか。
訳も分からず事情を聞くと、彼女は嫌な顔一つせず教えてくれた。
アーシェは外食をしたことがない。つまり、この国最高峰の環境で育ったことを意味する。
最高の環境で生活し続けた彼女が、その場から少しでも外に出れば、そこに映るのは酷く醜い低俗な外界。何もかもが格下で、取るに足らない卑しい世界だ。
この宿にしたって、彼女は何一つ嘘などついておらず、この領地最高の旅館だ。それこそ貴族しか泊まることを許されない、領主と同じ水準の生活を送れる公営旅館。
その宿代は当然、貧しい貴族が払えるような金額ではなく、普段であれば浄階貴族すら連泊は憚られる額であった。
しかしそんな超が付くほどの高級旅館ですら、アーシェの日常生活には届かない。エリザベートはそれを実感させることで、アーシェにどれだけ自分が高い位にいるのかを認識させたかったのだ。
「伯爵領の本領だからこそ、ここまでの待遇が受けられるのです。辺境に行けば徐々に質も落ちて行き、国を出れば家畜が食べるような物も食さねばならなくなることもあります。それでも本当に行くと言うのですか?」
彼女の目はただただアーシェを心配している瞳だった。
決して無理なことは言わず、大人しく城に籠もって健やかに成長して欲しい。そんな優しさで満ちあふれた彼女のまなざしは、アーシェの瞳を鋭く射貫く。
決意が揺らぎ、何をどうすれば良いのか分からなくなったアーシェは茜に助言を求める。しかし茜は彼女の期待を裏切り、それは自分で決めることだと突き放した。
――進にせよ戻るにせよ、どちらにしろ後悔するんだから、自分の意志に従いなさい。
――……こういう所だけ、本当に憎たらしいわ。
答えがまったく参考にならずとも、誰かに相談する、所見を口に出すと言うのは思考の整理で役に立つ。突然の選択に迫られたアーシェは、冷静さを欠いてしまったものの、茜の正論で正気を取り戻した。
そんなもの、わたくしが我慢すれば良いだけの話。そう茜の前で豪語して、アーシェは自分の意志を持って口を動かした。
「進みます。全ては領地のために。お国のために」
「……そうですか」
恭しく頭を下げ、御心のままにと礼をする彼女の表情は、髪に隠れて伺うことができなかった。
しかしアーシェは、この時の選択を一生後悔することになる。




