003.転生
とある領地のお城に、それはそれは可愛らしい幼子が住んでいました。
その子の名前はアーシェリット。親しい者からはアーシェと呼ばれ、屋敷中の人から愛情をもらい、賢く、若干病弱に育ち、先日五歳の儀式を迎えました。
そんな純真無垢な少女は、今からきっと人生最大級の出来事と直面してしまいます。
アーシェの意識が一瞬途切れ、次に入ってきた情報は、密かに愛用していた硝子のカップが割れる音だった。
「……?」
一体何が起きたのか理解出来ない。
現実をそのまま認識するのは簡単だ。しかしそれを受け入れろと言われると反射的に、本能的に拒絶してしまう。
突如、頭の中に何かが入ってきた。
何かの比喩などではなく、本当に、精神に別の精神が侵入し、まるで生まれた時からそこにあったかのように、すんなりと定着してしまったのだ。
──……こ、こんにちは。
──……えぇ。
こちらのご婦人はどなたなのでしょう?
見知らぬ女はアーシェの身体に侵入するも、何かをする訳でもなく、ただキョロキョロと辺りを見回して不審な行動を取っていた。
──あー、えっと、なんか、ごめんなさい。
──如何致して?
──わ、わかりません。へへへ……。
完全に引き攣った笑いを浮かべている謎の女。何の目的かは知らないけが、自分に危害を加えるつもりならばこんなに動揺しないだろう。アーシェは戸惑いつつも突如現れた侵入者にそう判断を下し、彼女との対話を図ろうとした。
──もし。
──はい。
──ご婦人はどちら方でしょうか。
──久……加藤茜と申します。
咄嗟に今まで使っていた名前のうち最も新しい名前を言う茜。
別に隠す意味はないのだが、過去の決別と、どうせなら生前最も自由に行動できていた時代の名前を用いてみようと考えたからである。
──加藤茜様。わたくしの略名はアーシェリット・セルヴと申します。
──アーシェリットさんですね。
──断りもなくわたくしの領域に踏み入るとは如何な了見でしょうか。
──はい。まさか着地点に人が居るとは思ってもみなかったというか。考えれば当然なのだけれども……。
何だかパッとしない人だなと思いながら、アーシェは目の前の女性を観察する。
茜、精神年齢は随分幼稚なようだけれど、精神的外見はセリアより少し年上くらいかしら。黒い髪に黒い目、橙色の裸。お屋敷では見たことない人種ね。……南部の出身者にこのような肌を持つ人がいると聞いたことがあるわ。
そんな辛辣な評価を茜に下して、アーシェは警戒心を強くする。対してこの時茜も混乱している素振りを見せながら相手の出方を窺っていたのだが、社会経験不足なアーシェには看破できていなかった。
◆
ふむ、転生先は年端もいかぬ少女か。子供にしては随分と賢いが、警戒心丸出しで事を構えるあたり、あまり人と接したことがなく、知識と比べ経験もあまりないようだ。しかし転生先に別の意志があるなんて聞いていないぞ。
彼の存在は望んだ姿にできるだけ近い身体にすると言っていた。つまり茜が降り立つ前から、固体の自我や、それまでの記憶は存在していると言うことになる。その可能性を見落としていたのは茜たち自身であり、超常の存在に文句を言うのは筋違いであった。
彼女もそれは自覚しているのだが、危うく引っ越しと同時に椅子取りゲームが始まるところだったのだ。少しくらい文句を言っても罰は当たらないだろう。
一応私にも倫理観と言うものは存在する。しかし同時に私にだって生存欲求だって存在するのだ。さて、どうしたものか。
──んー、こほん。セルヴ様。改めまして、加藤茜です。いきなりで驚いたと存じますが、こうなってしまった言い訳をすると、超常の存在にここに来るよう言われたのです。
──……超常の存在?
よし食い付いた。
茜は思考をフル回転させ、やけに鮮明に映る精神空間にて、少女の印象を好印象へと塗り替える方法を模索した。
現状彼女と対立することは二人の生命に関わるかも知れない。加えて相手はまだ子ども、幼いというのはこちらにとって利点となるが、子どもながらの奇抜な思考により、癇癪でも起こされたのなら堪ったものではない。
取り敢えずは肉体の主導権がどちらにあるのか判断してから、少女との距離を見定めていこう。
──うん、多分だけれどね。
──つまり貴女は天使なのかしら?
天が使わした存在というのなら、あながち間違いでもないのだが、彼の存在は自分たちが神とは名乗らなかった。見栄のためにも、あの場では神という、定義が不確かな単語を用いる気にはなれなかったが、今思うともったいないことをしたと思う。
聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥とはよく言ったものだ。なんと本当に末代までの恥となったのだから。
──人間だよ。いや元人間かな。前の世界で一度人生を全うしたから、幽霊のようなものかもしれないね。
──では貴女はわたくしの前世?
確かにこれを輪廻転生に当て嵌めるのならば、前世といえるかもしれない。しかし茜は過去に大した善行を積んだ覚えもなく、公平な裁判から六道輪廻の人間道に再び入れるとは思えなかった。
曖昧な相槌を打ち、茜とアーシェは相互理解のための自己紹介を始めた。
──貴女、学者様でしたの。
──まあね。最後の研究分野は化学寄りの生化学だったかな。
──化学?
無駄に長く生きた人生の引き出しから、消極的なアーシェの興味を引く話題をいくつも出し、弾む会話の流れを生み出したところで心の会話に邪魔が入った。
──セリアね。
──誰?
──わたくしのお人形。
『セリアです』
ノックとともに名乗りを上げる。扉の両隣で控えていた従者の一人が警戒し、一人が扉を開けてセリアを招き入れた。
「失礼致します」
入ってきたのは金の髪を小綺麗にした、薄い碧色の瞳を持つ可愛らしい少女だった。
「……お怪我はございませんか、姫様」
割れたカップを片付けている侍女を目にし、状況を察する。椅子に座って足が地に着いていないアーシェを抱え上げ、寝台へと降ろして片付けの指示を出した。
「欠片が飛散している可能性がございます。片付けが終わるまで床に降りてはなりませんよ。新しいカップをお持ち致しますが、他に必要なものはございますか?」
「黒板と白墨を用意してくださいませ」
「畏まりました」
そう言って音もなく部屋を出るセリア。茜とアーシェはそれを見送り、再び脳内で会話を始めた。
──あーちゃんってもしかしてお姫様?
──……急に近くなったわね。間違ってはないわ。
心の中でため息をつき、アーシェは本音を独り言つ。
――貴女なんかに取り繕っても仕方ないわね。
どうやらここはパール王国という、人が住む最北端にある国らしい。最北端と言っても年中極寒というわけではなく、冬は極寒、夏にはそれほど暑くはない程度の国だ。今いる場所はその国の更に北部にあるセルヴ公爵領本領の城の一室なのだとか。
――お父様は領地を治める領主。お母様はその第一夫人よ。
――立派なご両親なんだね。
――もちろん。
その後セリアが帰ってきた後もたくさんの事を話した。アーシェの身内のこと。茜の身内のこと。この世界にはどういった国があるのか。どういう技術があるのか。
そして驚いたのは、この世界では科学らしい科学の発展──例えば蒸気機関や高度な医療技術など──がなく、唯一それに当たるものは現代の化学の基となった錬金術程度のもの。しかしある単語を聞いた瞬間、その錬金術も本当に以前の世界にあったモノと同質のものなのか怪しくなった。
──まほー?
──魔法。
──…………え、なんて?
魔法。宗教学では呪術とも呼ばれるそれは、未科学の延長にあり、現時点では科学的に解明されていない現象のことである。茜もその単語自体は耳にしたことはあるが、深く考えたことは一度もない。
――神事で行われるような儀式とか?
――先にそちらが出てくるとは、博識なのね。
世界の根底たる前提が違う故の、かみ合っているようでかみ合っていない会話を楽しむ二人。中々に高度な会話をしている片方は、かみ合っていないことに気付いておらず、片方は内々で整理しているので苦言も言わない。
雑談を交えているうちにセリアが戻ってくる。先程までいたテーブルの上にカップと用具を置き、アーシェを抱きかかえて椅子へと座らせた。
「お嬢様、代わりのカップをご用意致しました」
「ありがとう」
再び部屋の隅に戻ったセリアを気にも留めず、アーシェはトクトクとお湯を注ぎ、ポットに蓋をして暫く待つ。そのうちに茜はアーシェに魔法を乞い、彼女は煩わしく思いながら扈従に指示を出した。
「セリア。何でも良いから魔法を見せて」
先程から部屋の壁と同化していたセリアに、突然アーシェが無茶振りを言い放つ。しかしセリアは特に思うところもなく、「畏まりました」と一礼して呪文のようなものを唱えた。
「《灯火/灯火よ》」
すると、セリアの手のひらに小さな炎がゆらゆらと出現する。
──ほう。
茜は初めて見る現象に絶句した。
しばらくの間食い入るようにじっと見つめるが、その仕組みが全く理解できない。
──何か分かった?
──いや、全く。
分からないから面白いのだ。この世界は前にいた世界と根本的に何かが違うらしく、その事実が茜の研究欲を際限なく刺激する。なろうとは思わないが、この世界ならば、もしかしたら魔法界のニュートンにもなれるかもしれない。
──私の知っている知識もあまり役に立たないかもね。
──そうなの。
茜は少し考え、現在の状況を再認識する。
魔法と言うあちらの世界とは別の法則で成り立つ世界では、あちらの常識で動いてはいけない気がするし、あちらの法則が通用しない可能性もある。こちらの常識を知らないうちは、アーシェの常識を取り入れ、理解し、慣れる必要があるだろう。
現在最も興味を惹かれるのはやはり魔法だ。その仕組みを解明、最低でも仮説が立てられるまでは過去の世界の法則を信じないことにしよう。そう決心した茜は、再び魔法についての考察を続けた。
──うーん、情報が足りないな。あーちゃん、ここいらに情報を集めている機関とかないかな。書籍館とか。
──当家が代々貯蔵している書庫ならあるわよ。
未だ灯し続けているセリアにお疲れ様と一言かけて控えさせる。
「セリア、書庫を使いたいのだけど」
「書庫ですか。立ち入りには閣下の許可が必要ですね」
──お父様に会いに行くの?
──何かまずいことでも?
──お仕事の邪魔にならないかしら?
──そんなことないよ。
──本当に?
「閣下への面会予約を取りましょうか」
「お願い」
セリアがアーシェの右筆、メリッサに指示を出す。彼女がアポを取りに行っているうちに、アーシェは黒板に文字を書き出した。
「いろはにほへと」
石灰石を持ちやすいように削っただけの白墨を握りしめ、いろは歌を書き出した。
――これはひらがな。
――知ってる。
布で擦り文字を消す。次はカタカナ、その次は真名を書き、アーシェと茜は知識のすり合わせを行った。この国で使われている文字は、どうやら当用漢字を中心に、現代の常用漢字も多く取り入れているらしい。
――貴族が使う漢字は歴代君主が即位後一年以内に、陛下自らが書き出して常用漢字表を作るの。それを各地の領主が位階順に書き写し、各領地に持ち帰ってその領地の貴族に書き写させるのよ。
――ふむ。
そして話題はこの世界の貴族に変わる。
この国には領主貴族が一五八家あり、公爵家が五家、侯爵家が十八家、伯爵家が三十家、子爵家が四二家、そして男爵家が六三家だ。その領主たちの配下に位の高い方から浄階、明階、正階、直階貴族がある。領主貴族以外の貴族は領地を持たず、一族の魔力と実績で爵位が決まる。
つまり魔力とは貴族に必要不可欠でとても重要なものなのだ。
――まりょく。
――魔力。
――りょう。
――量。
辛うじて理解が追いついたことを纏めて情報を吟味する。茜が潜心に努めているとアーシェの右筆が帰ってきた。
「姫様。閣下がお呼びです」
「……今すぐにかしら?」
――あーちゃんのお父上って御国の重鎮なんだよね?
――そうよ。いつもならお仕事がお忙しくて数日経たないと面会できないのだけれど。
「何かご事情が?」
「はい。午後からは中央から賓客が来て、明日からは中央を行き来する必要がある故暫くは暇がなく、火急の用であるならば直近の方が都合が良いとのことです」
「分かりました。すぐに向かいます」
人肌程度になった紅茶を飲み干そうとし、一口付けるがすぐさま諦めて父のいる書斎へ向かった。アーシェの一口は大さじ一杯分程度であり、カップ一杯だろうと空にするのに時間がかかる。多忙の身である父の時間を自分の都合で奪うわけにはいかないのだ。
「ご案内致します。お手を」
アーシェの手を引き椅子から降ろす。その光景をアーシェ視点から見ていた茜は改めて思った。
五歳と言っていたけれど、体感一メートルも無い気がする。人種的な理由なのか時代的に栄養が足りていないのか、五歳にしては身長が足りていない。加えて身体も動かしにくく、倦怠感もある。
手を開閉し感覚を確かめる。アーシェに心のなかで文句を言われながら動作確認を行っていると不思議に思ったセリアが声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
不審な少女として側近に見られているのだと再びお小言を言われて茜は渋々力を緩める。どうやら肉体の主導権はアーシェにあるが、彼女の気が緩んでいる間に物凄く集中すれば一時的に動かすことができるようだ。
「何でもないわ。さあ、案内して頂戴」
「畏まりました」
こうして少女は人生で初めて、自らの用事で父を訪ねに行くのであった。