016.アーシェの夢
アーシェは城から出たことが無い。
平民が住む下層と貴族の生活区域である上層はもちろんのこと、城下に広がる庭園にも。城の中ですら、茜が来る前は子ども部屋と食堂と、寝室までの通路周辺しか知らなかった。
茜が来るまで、それを不満に思ったことは一度も無かった。
どこにいても従者たちがいる。彼女たちは何でも言うことを聞いてくれて、知らないことは何でも教えてくれる。食堂に行けばお父様とお母様、ロベルティーネ様にも会うこともできる。
しかし茜が来て気付いてしまった。
――わたくしは家族のお部屋を存じ上げない。
家族に自分から声をかけることは一度としてなかった。お忙しいだろうと言い訳をして、家族との接触を避けていた。
大きな魚に乗って考える。
アーシェは魚のことを伝聞でしか知らないので、この魚も想像上の姿――つまりは夢である。自覚もある。
胸鰭の部分に鳥の羽があり、その羽で櫂のように漕ぐその魚は、背鰭にアーシェを乗せて天空を自由に泳ぐ。
――茜はすごい。
たった一日と少しで思い知らされる茜の実力。
茜の精神的外見は、メリッサやレオノーラと同じくらいに見えた。すなわち最低でもアーシェの三倍は生きているのだから、アーシェと経験の差があるのは当たり前のことである。
しかし、同年代の彼女ら二人と比べても、茜の才能は突出していた。
難解な魔導書を半刻で読み切り、その上、魔導書に書かれている魔法を一つの取りこぼしもなく習得している。
アーシェにはそれができない。
今まで読んでいた魔導書の内容は半分程度しか理解できず、全部を理解するには茜の解説が必要不可欠である。
魔導書の解説に茜は嫌な顔一つせず付き合ってくれる。しかしそれが茜の足を引っ張っているのだと痛感してしまう。
――本当は転移の魔法陣ももう完成していたのに。
茜は、生物を試すのには、植物、動物と段階を踏んだ方が良いと言っていたが、アーシェは同じ魔法陣なのだから、心配はいらないのでは無いかと考えている。
同じ魔法陣からは同じ効果しか得られないからだ。
太陽から射す日差しが心地良く、アーシェの肌に纏わり付く。
アーシェにとって日差しは怖いものである。白い布に身を包み、全身の肌を隠さねばすぐに赤く腫れてしまう。
しかしメリッサもレオノーラも日差しが気持ちよいと言った。
アーシェは分からないが、彼女たちは嘘をつかないのは知っている。だから日差しとは、こんなお風呂に入っているような暖かい感じなのだろう。
世界には海というものがあるらしい。
海は青く、広く、どこまでも続いているのだとか。つまり海とは陸に広がる空なのだ。海には水が満ちていると聞いたことがあるから、きっと空にも水がたくさんある。だから上から水がこぼれて雨になる。
思考がまとまらない。
夢なんてそんなものだ。今日覚えたこと、今まで忘れていたことが、全部ごちゃ混ぜになって整理される。本棚をひっくり返して整頓するように。
青い空に自分が映る。
――あれはわたくし。わたくしに虹が架かった。虹は知っている。見たこともある。
雨の魔法と同時に、晴れの魔法も使うと、空に虹がかかるらしい。それは光神と闇神が空に同時に現れたときの境界線なのだそうだ。
夜の満月は光神の祝福。昼の曇天は闇神の祝福。
どちらも等しく神。互いに互いを超える存在。その拮抗が時を生み、大砂時計を動かしている。
お空には昨日の天空城。逆さのお城は空という海に浮かぶお船。下は山。山とは土が盛っている場所。大きな畑。畑とは野菜やお肉がとれる場所。
――野菜が木になるということはお肉も木になるのかしら。
木とは茶色いもの。机は木らしい。山は木がたくさんある。つまり机や椅子もたくさんあるのかもしれない。
山とは勉強するところなのだろうか。
しかし貴族の子息令嬢が山で勉強するとは聞いたことがないし、そもそも上層に山などない。では山は下層や外層に住む住人の天然の勉強場所なのだろうか。
考えるたびに崩壊と創造を繰り返す夢の世界。その世界は真っ白な何も無い空間から始まり、少しずつ、しかし着実に現実へと近付いていった。
◆
漏刻の砂が落ち切り、命令通りにセリアがアーシェを揺する。
「姫様。姫様。お時間でございます」
「……ん」
まどろみの中から意識が浮上する。目を開いた先にはセリアの顔が、精神空間には茜の姿が見えた。
――おはようあーちゃん。
――……。
「……」
誰の問いかけにも答えず、アーシェは再び布団に潜る。セリアは慣れた手つきで布団を戻し、アーシェの復帰を待っていた。
アーシェは睡眠から起床までに少し時間がかかる。
精神世界のアーシェが目を瞑り瞑想に入り、そんな彼女を茜はじっと見つめ、観察していた。溶けたチョコレートが冷え固まるように、ぐるぐると回る思考が少しずつ固定化される。
「ん。おはよう存じます」
――おはよう。
――おはよう存じます。
セリアに抱えられて姿勢を正す。白足袋を履き、手袋をつけたらいつものアーシェの再誕である。
――どんな夢見てたの?
――魚の上で虹を見る夢よ。
――それは素敵だね。
六の鐘が鳴るまであまり時間がない。
もっと魔法の勉強をしていたいアーシェは、少しでも早く書庫に着けるよう、自身に飛行魔法をかけて、浮遊しながら廊下を進む。
「姫様!」
突然飛び出したアーシェについて行くために、側近たちも飛行魔法や身体強化の魔法を用いてアーシェを追う。
その一行はさながら泉を自由に飛び交う妖精――などでは無く、獲物を仕留める鷹の如き形相で城の廊下を直進していた。
――やはりこちらの方が楽な上に早くて良いわね。
――人にぶつからないように少し速度落とそうか。
幸いにも廊下での交通事故は起こらなかった。
しかし到着した頃には、側近たちはたいそうご立腹だったようで、書庫に入るなりセリアたちから説教を食らい、結局徒歩で来るのと大差なかった。
「次からは事前に言って下さいませ」
今回のセリアはなかなか手強い。そう思いながら魔法書を開いて勉強を始める。
――魔法書と魔導書の違いって何だろうね。
――魔法書という名前の魔導書ではなくて?
なるほどと手を打って、魔導書の読み解きを始める。
持ち出し許可を得ていながら、わざわざ書庫まで出向いて読書をする理由。それは、魔導書の大半が持ち出し禁止の鎖付き書籍だからだ。
検証してみたところ、この赤い鎖に繋がれたものは、書庫の出入り口付近に近付くと、謎の引力により元の書棚に戻ろうとする。加えて異嚢の対象にならず、異空間を頼って持ち出すこともできない。
赤い鎖の根があるはずの天井を見ようと、飛行魔法で鎖を伝っていくと、いつまで経っても天井に辿り着くことなく進み続ける、底なし沼ならぬ天なし部屋だった。
天井がないわけではなく、天井までの距離に際限がない。茜はこの書庫をある種の異空間であると判断し、アーシェがおねむになる前に引き返した。
――いつか行けるところまで行ってみたいね。
――帰れなくなりそうだから嫌。
雑談を交えながらも魔法書の読み解きを続けた。
魔法書は魔法について多くのことを教えてくれる。それこそ四六時中本の虫になっていたいくらいの知識量であり、アーシェの身体の体調面を考えていなければ、本当に実行していたかもしれない。
現在習っているのは魔力の扱い方である。
この著者、初代セルヴは魔力の研究に熱を入れていたらしく、他の項目より文章量や考察が多かった。
魔力には強い魔力と弱い魔力があるらしい。
強い魔力は生物が内包する魔力の総称であり、その名の通り強力で、弱い魔力を制御することができる。しかし人が扱える量には限りがあり、回復速度も圧倒的に遅い。
弱い魔力は非生物の中にある魔力の総称で、生物の意思を受け難いが、自然界には存在している量は前者の比ではなく、並大抵の消費量では揺るがない。
人は無意識に強い魔力を用いて、自然界にある弱い魔力を操作している。
人の本質は意思であり、意思が魔力を作用させることによって人体を保ち、手足となって行動できる。
魔力を使いすぎると段階的に心身に悪影響を来し、その現象は九段階で定められている。
第一段階は通常の魔力的健康状態。二は疲労感。三は目眩、吐き気。四は平衡感覚の消失、血管の損傷。五は失神、裂傷。六は臓器類の急激な劣化。七は死亡。八は人体の炭化。そして九で物質としての構造が保てなくなり、微粒子となって霧散する。
自ら魔法を行使して到達できる段階は第五段階までとされているが、戦時中では第五段階手前の症状で大規模魔法を行使し、死亡したとの記録もある。
ただし、戦場では外傷などによる衰弱死の可能性もあるので、その説はは定かではない。
――人が粉々になっちゃうんだ。
――使いすぎにはくれぐれも注意しないといけないわね。
アーシェ曰く、日常生活で魔法を使う程度では、第二段階にすらならないらしい。
貴族の勤めで、各季節の始めに行われる魔力奉還の儀や、領主が行う線引きの儀などでは、大量の魔力を消費し、毎年何人かは無理をして第三段階まで到達するのだとか。
――魔力は回復するんだよね?
――そうね。
ふむ、と一呼吸置き、茜は思考の沼に沈む。こういう時の茜には話しかけない方が良いのだとアーシェの勘は囁いた。
程なくして茜の知識量が限界に達し、考察が行き詰まることを理由に浮上する。
――少し調べたいことがあるのだけれど。
アーシェに念じてもらって頁をめくる。そこに書いてあったのは、魔力の保存方法である。魔力は魔石に保存でき、周囲に魔力が満ちている限り、保存期間は半永久的である。
魔石は鉱山から採掘できるらしく、公爵領のような最上位の領地は保有魔力量も豊富であるため、鉱山に潤沢な魔力を送り、高品質の魔石を輸出している。
――つまり父君に頼めば魔石を頂けるかも?
――重要な輸出品なのだから無理に決まっているじゃない。
多くの領地は鉱山に魔力を回せるほど裕福ではない。
それよりも先に食料、水、気象、必要な例なんて、列挙したのならばきりがない。
人の生活は全て魔力で補われており、魔力を供給するのは貴族である。
最低限生きるためならば平民なんてこの国には必要ない。
しかし平民がいなければ、大量の貴族が自ら農作業をする必要が出て、結果的に魔力消費量が増え、大規模な事業が興せない。
もちろん平民の数に対して貴族が減れば魔力の供給が追いつかず、土地は乾き、天候は荒れ、空気までもが淀む。
貴族が増えるためには平民が必要で、平民が増えるためには貴族が必要不可欠である。
その均衡をうまく保ち、その上、少しずつ成長させることができた一族こそが、国内でも最高峰の領地を誇る公爵家たちなのだ。
――何を考えているのよ。
――魔力が回復するなら常に健康状態を保つのって、資源の無駄遣いじゃないかなって。
茜は可能な限り毎日魔力を魔石に移して保存しようと考えた。
一般的に考えて保有魔力には上限がある。しかし回復量に今のところ上限があるとの情報はない。
つまり残量百パーセントになる前に、魔力を別の場所に移すか、使用しなければ、もったいないのだ。
――魔力を提供するのなら、もしかしたら魔石を分けてくれるかもしれないでしょ?
――それは……そうかもしれないけれど。
ただし、もしも回復量に上限があった場合が問題である。徒に魔力を出して、今後回復が見込めないなんて事になったら、目も当てられない。
魔法書には上限はないと断言されているが、茜は念のため後ほどミリアシルにも聞く必要があると提案した。それまではとにかく魔力を消費する作業に入る。
魔法を日常的に使うと回復速度や強い魔力の上限が増えるらしい。
魔法を使うということは神に魔力を捧げるということ。敬虔な信徒ほど多くの魔力を与えられ、そしてより多くの魔力を神に奏上するシステムは、さながら魔力の変換器だ。
――どうしたら効率良く魔力を放出できるのかな。
「メリッサ。魔力を流す練習がしたいのだけれど、先日の奉還の儀のように、ついでに領地のお役に立てるような方法はないかしら」
「魔力操作の練習ですか」
メリッサがいくつかの候補を挙げるが、あまり領地の役に立つとは思えなかった。一番良いのは聖泉に行くことなのだが、その場所は、ミリアシル本人がいなければ入ることができない特殊な空間である。
仕方がないと諦めかけたその矢先、レオノーラが一つの案を出した。
「聖堂は如何ですか?」
「聖堂?」
メリッサとセリアが首をかしげる。二人も聞いたことのない施設を知っていたレオノーラは自慢気に解説を始めた。
聖堂とは大昔、まだ聖泉が開発される前に、奉還の儀で使用されていた部屋のことらしい。
当時は貴族が一堂に会し魔力を奏上するのではなく、日にちを決められていて、家ごとに儀式を行っていた。
しかし、城を常時開放することの危険性や、警備の予算を考えても、全貴族が同じ場で儀式をした方が良いということになった。
そして建設されたのが大規模聖泉であり、会議室程度の広さしかない聖堂は本来の用途では使われなくなった。
「よく存じていましたね」
「祖父が昔仰っていたのです」
しかしここで問題が生じる。
聖堂の存在を知っていたレオノーラも、聖堂の場所を知らなかった。聖堂を使わなくなってから数百年も経つと言われ、城の住人であるアーシェも、存在すら知らなかったのだ。もしかしたら既に解体されているかもしれない。
「セリアも知らなかったのよね」
「申し訳ございません」
ちょうどそのとき六の鐘が鳴った。
六の鐘は退勤の鐘である。つまりはミリアシルが中央から帰ってくる時間だ。
――お父様に先にお伺いするか、お食事中にお尋ねするのが良いか。
――そんな真剣に悩むことじゃないと思うけど。
悩む時間がもったいないと茜は頁をめくる。
茜にはまだまだ知識が足りない。情報がなければ何もできないし、不安定な未来に対して対策もできない。
――貴女って心配性、というより臆病よね。
――そうだね。分からないと不安なんだよ。
特にこの世界には魔法というものが存在し、茜の知っている法則とは違う理で動く世界だ。いくら対策しても、しすぎると言うことはないだろう。




