1 絶望の目覚め
その目覚めは、脳を直接万力で締め付けられるような、鋭い吐き気と共にあった。
「……っ、あ…….ハッ、ハッ……」
ユージン=フォン=アストゥールが意識の混濁から這い上がった時、最初に感じたのは、身体の芯に残る奇妙な揺れの残響だった。まるで長い間、馬車に揺られ続けていたような感覚。
指先が触れるのは、アステリオンの地で使っていたゴワゴワした麻のシーツではない。指が沈み込むほど過剰に滑らかな絹の感触。そして鼻を突くのは、肺の奥までねっとりと纏わりつくような、高価で厭味な香料の匂いだ。
「な……なんだっ⁈……ここは……」
起き上がろうとした瞬間、グラッと激しい立ち眩みに襲われた。
記憶にあるのは、立ち上げたアステリオンの地での自宅で、アルベールやエレナと和やかに囲んだ慎ましい食卓だ。
建国の準備を整えて、事務長官ハンスとして最高位の地位(建国王)をモランと結託して、計画的にエドワードに押し付け、自分は表舞台からさっと退き、念願であった「養成所のしがない先生」の一人としてアルベール(義父)と自由気ままに生きる。たまに問題が起きたとしても、裏から手を回して頃合いを見計らいながら、エドワードに指示を送ればなんとかなるだろう……と高を括り、安易にも、その為の書類をモランと確認しながらきちん整え、サインを終えたはずだった。自分の望む未来に乾杯の盃を取った……。
(……えっ……?俺は、平民としてアルベールの養成所の先生になったんだよな?……それにしても……吐き気と頭痛が酷過ぎる……)
ユージンは一抹の不安を覚え、震える手で窓の重いカーテンをそっと引き開けた。
朝の光と共に目に飛び来んできたのは、見慣れた国境の山々……ではなくて、見慣れたあのロドニア王宮そのものだった。
「!!」
ユージンの思考が停止する。呆然と立ち尽くす。
(……は??ロドニア王宮……?何故⁈……どうして俺がこんな所に……?)
まだ微かに重い身体を引きずるように動かし、隣接する扉を開けた瞬間、ユージンは言葉を失った。
……例の見慣れた、黒檀の執務デスク巨大な机の上には、山のような手つかずの書類たちが積みあがっている。
書かなくても分かるだろう。執務室の隣には……三本爪の例の紋章が刻まれた扉。その向こうには檻の主レティシア王女の私室がある。
「……おやおや、ユージン様、ようやくお目覚めですか。さて……と、今日からまた貴殿の新しい職場での一歩が始まりますぞ。どうぞお掛け下さい」
モランは、例のごとく静かにワゴンを抱え、何食わぬ顔で、手早くお茶の用意を始めた。
「何が新しい職場だっ!!おいっモラン!説明しろっ!何だこれはっ!……俺は役目を終えて、養成所の先生になるためにサインしたはずだ!何故俺が、ロドニアの……さらに数倍の書類の山の前に立たされているんだ⁉」
ユージンにとっては、あの執着姫から逃れ、罰ゲームのような書類の山から脱出できたはずだった。
多少の紆余曲折はあったものの、望み通りの人生が待っていた……はずだったのだ。
怒りで捲し立てるユージンに、モランは平静を装っていた。
「まあまあ……ユージン様……落ち着いて下さい。……私は、五日前の夜にきっちりとご説明申し上げたではありませんか。まずは、お掛け下さい。もう一度説明しますゆえ」
「……五日前だって?」
「はい……貴殿をこうやって、ここまでお連れするのに、私めの相当な労力を使わせて頂きました。少しは褒めて頂いてもよろしいのでは……?」
(こんのクソジジイ……やりやがったな)
モランの口角が少し上がったのを、ユージンは見逃さなかったのだった。
さて、再び二人の鬼ごっこを始めましょうか。




