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『好き』だけじゃ、言えない。  作者: 花守一栞
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第七話

パンケーキを食べ終える頃には、すっかりお腹がいっぱいになっていた。


皿にはクリームやソースが少し残っている。最後のひと口までおいしかった。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさまでした」


会計を済ませて店を出ると、ひんやりした風が頬に当たった。


「今日はありがとうございました。パンケーキ、おいしかったです」


「いえ、こちらこそ」


そろそろ帰ろうと思ったとき、彼女が口を開いた。


「……ひとつ、聞いてもいいですか?」


「はい?」


「どうして、女装してるんですか?」


穏やかだった声が、少し硬くなった。


思いがけない質問に、俺は返事に詰まる。


その沈黙に気づいたのか、彼女ははっとしたように目を伏せた。


「……すみません。急に変なことを聞いてしまって。私もその小説を読んでいて、どうしても気になってしまったんです」


驚きはしたけれど、不快ではなかった。


「いえ……」


俺は一度、息を吸った。


「俺は……『ボク君』の雪の気持ちを知りたくて、女装しているんです」


口ではすらすらと言葉が出てくる。それなのに、体の震えも恥ずかしさも消えてくれない。俺はそれを押し込めるように、拳をぎゅっと握った。


「雪の気持ちを?」


彼女の声は落ち着いていたが、まだ少し硬さが残っていた。


「雪が男装していたとき、どんな気持ちだったのか……俺には、よく分からなかったんです」


握った手に、さらに少し力がこもる。


言葉を探しながら、続けた。


「真似と言えば、真似なのかもしれないけど……少しでも、雪の気持ちを知りたくて」


女装は、思っていた以上に大変だった。


体毛を処理して、慣れないメイクをして、ウィッグをつけ、女の子の服を着る。外を歩くだけでも落ち着かなかった。


画面の中で雪がしていたことを少しなぞっただけなのに、読むだけでは分からなかったことがいくつもあった。


話し終えると、彼女は驚いたように俺を見た。


「……そうだったんですね」


その声から、さっきまでの硬さが消えていた。


そして彼女はしばらく俺を見つめていた。


やがて、彼女の表情が和らいだ。


「すみません。少し驚いてしまって」


「え?」


「そんなふうに考えていたんだなって」


彼女は小さく笑った。


さっきまでの張り詰めた空気が、ようやくほどけた気がした。


「実際にやってみて、何か分かりましたか?」


「全部は、まだ。でも……少しだけ、分かった気がします」


「あのパンケーキの味のことですか?」


彼女はちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「……やっぱり大変でした。そんなの、やらなくても分かるけど……それが分かっただけでも、やってよかったって思います」


「そうですか」


彼女は頷いた。


「一度で全部分かるのは難しいですよね」


「……はい」


「だったら……」


彼女は少しだけ間を置いた。


「もしよかったら、もう一度ここに来ませんか?」


「もう一度?」


「今日みたいに、パンケーキを食べながらでもいいですし」


彼女は一度、俺の顔を見た。


「私も、聞いてみたいです。あなたから見た雪のこと」


「……行きたいです」


「そうですか」


彼女は、ほっとしたように笑った。


「あ、そういえば。まだ名前も聞いてなかったですね」


「確かに」


「私はレイカです」


「俺は……」


本名を言いかけて、止まる。


女装している今、湊と名乗るのは少し違う気がした。


「……ミナコって呼んでもらってもいいですか?」


「ミナコさん」


彼女は、確かめるようにその名前を口にした。


「はい」


「分かりました。じゃあ、また日曜日に。ミナコさん」


「はい。また!」


手を振って別れ、俺は駅へ向かって歩き出した。


ふと、視線を落とす。


さっきまで、あんなに強く握りしめていた手。もう力を入れる必要なんてないのに、指先にはまだ、あのときの感覚が残っている気がした。


女装のことは、莉緒にしか話していない。


――それなのに。


……なんだか、すごいことになってないか?


さっきまでの出来事が本当にあったことなのか、まだどこか実感が湧かなかった。


確かめるように、俺はさっき食べたパンケーキの味を思い返した。


甘くて、ふわふわで。


口の中ですぐに溶けてしまったあの味は、今でも思い出せるほど鮮明だった。


……うん。やっぱり、夢じゃないらしい。

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