第一話
「なんで……なんで終わっちゃうんだよぉ……」
現在時刻、午前0時14分。
そんなことなどお構いなしに、俺は込み上げてくる寂しさを、涙と一緒に吐き出した。
もちろん、誰かが聞いてくれるわけでもない。それでも、声に出さずにはいられなかった。
5月18日――いや、もう日付が変わったから19日か。
ついに、俺が一年以上追い続けてきたWeb小説『私はまた、ボクになって君に会う』が完結してしまったのだ。
作者さんも「もうすぐ完結する」と言っていた。だから、覚悟はできていたはずだった。
それなのに、いざその日を迎えてみると、どうしても受け入れられなかった。
一日の終わりにこの作品を読んで、登場人物の女の子たちに会いに行く。
それが、俺にとって何より大切な時間だった。
もう、あの子たちに会いに行くことはできない。
そう思った途端、涙が止まらなくなった。
どれだけ泣いても、胸の奥にぽっかりと空いてしまった穴は埋まらない。
――俺は大学一年生だ。
受験勉強に追われていた日々も、慣れない大学生活に戸惑っていた頃も、ずっとこの小説に支えられてきた。
何より、一日の終わりにこの作品を読む時間は、すっかり俺の生活の一部になっていたのだ。
食事をしたり、眠ったりするのと同じように。
そんな大切な作品を最後まで書き上げてくれた作者さんに、どうしても感謝を伝えたかった。
気づけば俺は、嗚咽を漏らし、涙を流しながら感想を書いていた。
翌日には予定があるというのに、筆が止まらない。
結局、感想を書き終えたのは朝の4時を過ぎた頃だった。
……まあ、言わなくても分かると思うが、翌朝起きたときには目がとんでもなく腫れていた。
しかも、その日は仲良くなりたいと思っていた女の子と会う予定があったのだ。
なんでよりによって、こんな日に限って……!
とはいえ、自分が納得できる感想を書き上げられたので、後悔はしていない。
むしろ、大満足である。
そんな出来事があってから三日ほど、俺の涙腺はすっかり緩みきっていた。
今なら俳優になっても、感動シーンくらい完璧に演じられるのではないだろうか。
そんなくだらないことを考えながら、時には一人で泣き、時には友達に話を聞いてもらった。
そうして俺は、少しずつ立ち直っていった。
そして、ある日。
俺はとんでもないことを思いついてしまったのだ。
「そうだ、女装しようぉ!!」
――ちょっと待ってくれ。
俺は正気だ。
ちゃんと立ち直っているぞ。
そもそも、俺がここまで夢中になった『ボク君』は、ある女の子が、好きな女の子に会うために男装するところから物語が始まる。
そう。
百合小説なのだ!
主人公の雪が、想いを寄せる桜に男の子のふりをして会いに行く。
ああ、思い出しただけで涙が……。
性別という壁が二人を引き裂こうとしても。
何度、そばにいることを諦めようとしても。
不器用ながらに相手を想い、少しずつ手を伸ばしていく。
そんな二人の姿に、俺は心を奪われた。
「性別とか関係なく、雪が雪だったから好きになったの」
桜が雪に告げたこの言葉も、俺の大好きなセリフの一つだ。
そして、そんな素敵な告白を経て、二人はついに結ばれた。
……本当に、よかった。
本当によかったのだ。
だけど――もう、この二人の物語の続きを読むことはできない。
その事実が、どうしても寂しかった。
……そこで、俺は考えた。
「そうだ、女装しようぉ!!」
大事なことなので二回言った。
雪がどんな気持ちで桜に会いに行ったのか。
それが、ずっと気になっていたのだ。
もちろん、小説の中でも雪の気持ちは丁寧に描かれている。
それでも、自分の性別を偽り、好きな人に会うために街を歩くというのは、いったいどんな感覚なのだろう。
雪は何を思い、何を感じていたのだろう。
文章を読むだけでは、どうしても想像しきれない部分があった。
もう、俺は二人の物語の続きを追うことはできない。
けれど、雪の気持ちを知るために、自分にもできることがある。
それが、女装なのだ!
……いや、我ながら突拍子もない発想だとは思う。
でも、一度そうと決めたら、やってみずにはいられなかった。
そうと決まれば、行動あるのみ!
俺は休日に実家へ帰り、ある人物に相談することにした。
俺の強い味方――そう、妹である!
実は、俺の家族は、俺が百合好きの百合男子であることを知っている。
地元は田舎なので、百合作品を手に入れるのも一苦労だ。
おかげで、母親に自分の趣味を打ち明けざるを得なかったのである。
特に、好きな声優さんが主演を務める中古ドラマCDを買うとなれば……。
……いや、今はそんなことどうでもいい。
とにかく、妹に相談するのだ!
口ではあれこれ文句を言いながらも、なんだかんだで俺の話を聞いてくれる莉緒。
本当に、優しい妹に育ってくれたものだ。
……うっ、また涙腺が緩んできた。
「にいに……ついに頭どうにかなっちゃったのかぁ」
「莉緒!! 俺は正気だぞ! うー……俺の涙を返してくれ!」
「なにが『返してくれ』なのよ。私は私なりに、にいにのこと心配してるの」
……確かに、莉緒にはまだ詳しい事情を何も話していなかった。
いきなり「俺が女装するのを手伝ってくれ!」なんて言い出したのだ。
そりゃあ、心配もするだろう。
俺は莉緒に、ここに至るまでの経緯を一から説明した。
作品が完結してしまったこと。
雪の気持ちを知りたいと思ったこと。
そして、そのために自分で女装してみようと考えたこと。
すべてを聞き終えた莉緒は、少し考え込んでから口を開いた。
「なるほどね。そういうことなら、私の服やメイク道具とか、必要最低限のものは貸してあげる」
「本当か!?」
「本当は道具も一通りそろえたほうがいいと思うけど……にいには万年金欠だし。それはそれで心配だからね」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
反論できないのが、なおさら悔しい。
「でも、そのあとはにいにが一人で準備しなきゃ」
「え」
思わず、間の抜けた声が出た。
さすがは俺の妹。兄の懐事情をよく理解している。
……って、そうじゃない!
服やメイク道具を貸してもらえるのは、もちろんありがたい。
でも、俺が本当に教えてほしかったのは、その先だった。
メイクの仕方や女の子らしい所作、気をつけるべきこと。
そういったことを、ひと通り教えてもらうつもりで来たのだ。
俺が「え」以外の言葉を探しているうちに、莉緒は続けた。
「じゃあ、聞くけど。にいにが言う雪さんは、誰かに手伝ってもらってたの?」
「いや」
「誰かに相談に乗ってもらってたの?」
「……いや」
「だったら、にいにも自分一人の力で女装してみないと、にいにが知りたい雪さんの本当の気持ちは分からないんじゃないの?」
……その通りだった。
雪は、同性である桜に恋をしていることを誰にも打ち明けられず、その想いを一人で抱えていた。
そして、自分の性別を偽り、桜に会いに行ったのだ。
そんな雪の姿を見て、俺は何度も胸を締めつけられた。
誰にも言えない想いを抱えながら、それでも好きな人に会いたいと願う。
きっと、簡単なことではなかったはずだ。
それでも雪は、自分なりに考え、悩み、勇気を出して桜に会いに行った。
そんな不器用な雪だからこそ、桜も、そして俺も、愛おしく感じるのだろう。
……まさか、作品を読んでいる俺よりも先に、妹がそのことに気づいていたなんて。
さすが、俺の妹だ。
「莉緒」
「なに?」
「俺、一人でやってみせるぞ」
「うん」
「大切なことに気づかせてくれて、ありがとう」
俺はそう言って、改めて決意を固めた。
――ちなみに、莉緒も『ボク君』を読んでいた。
きっかけは、百合好きの兄に勧められたことだった。
最初は兄に付き合って読むつもりだったのかもしれない。
けれど、気づけば莉緒もすっかり『ボク君』の虜になっていた。
そして、兄と同じように、作品が完結したことで、その熱はむしろ高まっていたのである。
そんな莉緒だからこそ、兄の「雪さんの気持ちを知りたい」という言葉に、つい熱が入ってしまったのだろう。
こうして、妹は兄の背中を押した。
……押してしまった。
目の前で、やる気に満ちあふれている兄を見つめながら、莉緒はふと思う。
……あれ?
私、いったい何を応援してるんだろう。
しかし、時すでに遅し。
兄のやる気には、もう火がついてしまっていたのだった。




