第1話 「後宮に売られた話」
薬というのは、扱い方次第で毒になる。
それを一番よく知っているのは、たぶん私だ。
なんせ、自分の顔をただれさせた本人なのだから。
朱霞――それが私の名前。十七歳。
職業、後宮の下女。
前の職業、令嬢。
ついでに言うと、自業自得で顔が半分焼けたように爛れている。
だが、それは全部計算の上だったので、とくに後悔はしていない。
ただ、まさか後宮に売られるとは思っていなかった。
それだけが誤算だった。
あの日のことを、私はたぶん死ぬまで忘れない。
午後の日差しが傾きかけた頃、私は薬袋を三つ抱えて、いつもの路地を歩いていた。
叔父の屋敷に間借りしながら、近所の薬屋の手伝いをして日銭を稼ぐ。それが私の生活だった。
仮面は、いつも通りつけていた。
白磁の、女の顔を象った仮面。
眉のあたりから顎の下まで、すっぽりと顔を覆う。
右の目の縁に沿って、細い金箔の梅の花が散っている。
左の頬のあたりには小さなひびが走っていて、そこだけ金継ぎみたいに修復した跡がある――これは私が自分で直したものだ。
この仮面は、私が自分で作った。
叔父の書庫にあった陶芸の本と、市場で買い集めた材料。
三ヶ月の試行錯誤の末に完成させた、私の秘密の傑作だ。
白磁の表面は滑らかで、どこか神秘的に見えるらしい。
通りで子供にじろじろ見られることがあるが、怖がられるより好奇心を持たれる方が、まだましだと思っている。
仮面の下の顔を見れば、どっちの反応も吹き飛んで、ただ悲鳴が上がるだろうけれど。
……まあ、いい。
それが目的だったんだから。
薬袋を抱えなおして、私は歩いた。
届け先はいつもの三軒。遠回りすれば夕方の混雑に巻き込まれる。
今日は近道をしよう――そう思ったのが運の尽きだった。
裏道に入って、路地を二つ折れたところで、私はふと足を止めた。
変なにおいがする。
……血、ではない。
薬品? いや、違う。もっと甘い。
腐った花みたいな――。
「そこ、止まれ」
低い男の声がして、反射的に振り返った瞬間、腕を掴まれた。
気づいたときには、私は四人の男に囲まれていた。
後から知ったことだが、あの路地は後宮の搬入口に繋がっていたらしい。
つまり、そういうことだ。
人売りの巣窟――とまでは言わないけれど、後宮の人員補充のために時々、「適齢の女」を確保するための網が張られる場所だったのだ。
私が踏み込んだのは、ちょうどその最中だった。
「仮面を外せ」
と言われたが、私は外さなかった。
外せないのではなく、外したくなかった。
この仮面は、私が自分の意志で作ったものだから。誰かに命令されて外すものじゃない。
「頑固な子だな」
男の一人が笑って言った。
「後宮に入れれば用は足りる」
そうして私は、薬袋三つを路地に落としたまま、後宮に売られた。
後宮というのは、想像していたよりずっと広い。
そして、想像していたよりずっと臭い。
正確には、さまざまなにおいが混ざり合っている。
花の香、食事の匂い、香炉の煙、汗、薬。
そしてかすかに――毒。
最後のひとつに、私の鼻が反応する。
これは職業病だと思う。
叔父に薬学を叩き込まれてから、私の鼻は勝手に「毒かもしれない成分」を探すようになった。
市場でも、路地でも、どこでも。
おかげで何度か命拾いしたこともあるし、何度かよけいなトラブルに巻き込まれたこともある。
今がまさに、後者の予感を漂わせていた。
「あんた、名前は?」
後宮の下女を束ねる老女――みんな「蘭奶奶」と呼んでいた――が、私を上から下まで眺めながら言った。
小柄で、白髪を綺麗に結い上げて、目つきだけが鋭い人だった。
「朱霞と申します」
「仮面は?」
「取れません」
私は答えた。嘘ではない。
仮面の下の顔を見せれば、後宮内が少し騒ぎになる。それは私も困る。
「顔に、病がありまして」
蘭奶奶は一瞬だけ眉を動かして、それから「ふん」と言った。
「まあいい。どうせ下女は顔じゃない。手が動けばそれでいい。あんたは薬師崩れと聞いたが?」
「少々、薬の知識があります」
「ならちょうどよかった。薬の管理と清掃を担当させる。ついてきな」
そうして私は、後宮に「配属」された。
最初の三日間は、とにかく観察することにした。
叔父がよく言っていた。
『知らない場所に入ったら、まず地図を作れ。目で見る地図と、においの地図を』
変な教えだけど、これは実際に役に立つ。においは嘘をつかない。
後宮の「においの地図」は、こういう感じだ。
東の棟:良い香水と上質な食事のにおい。寵愛を受けている妃嬪の区画。
西の棟:薬のにおいが強い。誰か体の弱い方がいるのだろう。
北の棟:なぜか、かすかに鉄のにおいがする。血、というより錆に近い。
南の棟:下女の区画。洗剤と汗と古い布のにおい。まあ、普通。
「霞、手が止まってる」
隣で薬棚を磨いていた同僚の下女――阿燕という、私と同じくらいの年齢の子――が、くすりと笑った。
「考え事? それとも、また何か嗅いでるの?」
「……嗅いでない」
「嘘。鼻がぴくってした」
見ていたのか。
阿燕は察しがよくて、底抜けに明るくて、不思議と仮面を気にしない子だった。
最初の日に「その仮面、綺麗だね」と言って以来、素顔について一度も聞いてこない。
それだけで、私は彼女のことをわりと好きになった。
「……北の棟、錆のにおいがしない?」
私が言うと、阿燕は薬棚を磨く手を止めて、少し顔を曇らせた。
「……そういえば、今朝からあっちの棟、人の出入りが多い気がした」
「何かあったの?」
「わかんない。でも」
阿燕は声をひそめた。
「昨夜、北の棟の妃嬪様が、急に倒れたって聞いた」
私の鼻が、もう一度ぴくりと動いた。
――錆のにおい。血に近い、鉄の香り。
叔父の声が頭の中でよみがえる。
『特定の毒は、血液の変色を引き起こす。そのとき空気中に漏れ出る成分は……』
「霞?」
阿燕が、私を不思議そうに見ている。
私は薬棚から手を離して、北の棟の方向を見た。
関わりたくない、という気持ちは本物だ。
面倒事は嫌いだ。目立ちたくない。仮面を外させられそうな状況も困る。
でも――。
あのにおいは、私が知っている毒のにおいに、少し似ている。
そして、もし誰かが故意にそれを使ったのだとしたら。
「……ちょっとだけ、確認しに行く」
私は呟いた。
阿燕が「え、待って、私も行く」と後ろからついてきた。
北の棟の廊下に差し掛かったとき、人だかりが目に入った。
侍女が数人、慌てた様子で立ち話をしている。
その向こうに、半開きの部屋の扉。
私はそっと近づいて――部屋の中のにおいを、深く吸い込んだ。
甘い。
腐った花の甘さ。あの路地で嗅いだものと、同じ。
頭の中で、知識が動き出す。
甘く、わずかに鉄を含む。粘膜刺激がある。残留時間が短い。
これは――。
「何者だ」
低い声が、頭上から降ってきた。
私は顔を上げた。
廊下の奥から歩いてくる人物は、背が高かった。
すらりとした、男ともつかない中性的な輪郭。
艶のある黒髪を高く結い、白い官服を着ている。
年齢は私より少し上くらいだろうか。
顔が、恐ろしく整っていた。
でも目が、冷たい。水面みたいに、なにも映さない目をしている。
宦官長・藍宸。
後から阿燕に教えてもらった、後宮の内側を管理する、実質的な権力者の一人だ。
そのとき私が知っていたのは、ただ「えらい人だ」という感覚だけだったけれど。
それでも本能的に、この人の前では嘘をつかない方がいいと思った。
「……においを、嗅いでいました」
私は正直に答えた。
「においを」
「はい。この部屋から、特定の成分が検出されます。薬品由来の――おそらく、自然に発生するものではありません」
男が、細い目を少しだけ細めた。
「お前、下女にしては変わったことを言う」
「下女ですが、薬の心得が多少あります」
「名は?」
「……朱霞と申します」
男は私の顔――仮面を、じっと見た。
何を考えているのか、全然わからない。
でも不思議と、恐怖というよりは観察されている感覚があった。虫眼鏡で見られているような。
「その仮面」と彼は言った。「白磁に金の梅。自作か?」
「……はい」
「なかなかの出来だ」
褒めているのか、馬鹿にしているのか、判断できない声だった。
彼は少し間を置いてから、ゆっくりと言った。
「――下女。その仮面の下に、何を隠している?」
私は、答えなかった。
答えるべきことではない、と思ったから。
でも男は、それ以上聞いてこなかった。
ただ少しだけ、口の端が上がった。
人を試しているみたいな、面白がっているみたいな笑み。
「部屋の中を、見てみろ」
それだけ言って、彼は扉を開いた。
私は一瞬だけためらって――そして、足を踏み入れた。
部屋の中は、一見きれいだった。
でも私の鼻は、嘘をつかない。
寝台の近く。床に近い空気。枕のあたり。
甘い毒の残り香が、薄く、でも確かに漂っている。
そして――寝台の脇に置かれた茶杯。
その縁に、ほんのわずかな油膜。
私はしゃがんで、杯に鼻を近づけた。
吸い込んだ瞬間、頭の中で答えが出た。
「……蔓花蛍の抽出液です」
「何?」
「毒草の一種の成分です。そのまま飲めば死に至りますが、これは薄められている――おそらく少量を継続的に……」
私は立ち上がった。
「時間をかけて、体を弱らせる目的で使われた可能性があります」
藍宸は、無表情のまま私を見ていた。
「確信があるか?」
「九割方は」
「残りの一割は?」
「私が間違っている可能性です」
私は正直に言った。
「でも、確かめる方法があります。倒れた妃嬪様の血の色と、白目の部分を確認させていただければ」
しばらく、沈黙があった。
廊下から阿燕の小声が聞こえた。「霞……すごい……」
やがて藍宸が、ため息とも笑いともとれない息をついた。
「面白いな、お前」
褒め言葉かどうか、やっぱりわからない。
「下女ひとりに後宮の謎解きをさせるのも妙な話だが……」
彼は私の顔――仮面――をもう一度見た。
「まあ、いい。続けろ」
こうして私は、後宮に売られた十七歳の下女として、なし崩し的に「謎解き」を始めることになった。
望んだわけじゃない。
仮面で顔を隠して、静かに生きていくつもりだった。
でも、毒のにおいを嗅いでしまったら――もう、知らないふりはできない。
それが、私の悪い癖だ。




