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魔法少女ヒギリ×シルヴィア  作者: 鈍痛剣
Chapter3.ガラスの未来
8/13

『ガラスの未来』2

 捜査拠点のマンションまで帰ってきた相模は駐車を終えたきり、降りるでもなくひたすら瀬川の遺書と睨めっこをしていた。

 遺族の憤りの眼差しが手紙越しにうっすらと浮かぶようで、どうにも便箋を開く勇気が湧かない。いっそこのまま開くことなく破り捨ててしまえば、遺族ともども瀬川のことをきっぱり忘れてしまうことが出来ればどれほど良いだろう。

 現に異対部に属する多くの刑事たちは、瀬川のことを“クル・ヌ・ギアと内通していた悪徳刑事”と罵り憚らない。それに同調してしまえば、少なくとも気が楽になるのは間違いない。

 それでも相模は遺書を破ることができなかった。やはり瀬川がクル・ヌ・ギアに心まで売ってしまったとは思えないのだ。

 瀬川は最期の最後に己の罪を自白した。正しい先輩でいられなかったと、懺悔すらしていた。そんな彼が、真に根っからの悪党だったと言えようか。

 きっと彼にはやり残した何かがあったはず。そこには何らかの崇高な理想があったはず。

 終ぞ叶えられることのなかった瀬川の理想を、継ぐことまでは出来ずとも、心に留めておくことくらいは出来る。

 ようやく決心を固めた相模が便箋を開こうとしたその時、間の悪いことに携帯電話に着信が入る。

 やはり格好がつかないな、と嘆息しながら通話に応えた相模は、スピーカー越しにピリピリと緊張した空気を感じ取って、只事ではないと察した。

『相模、手は空いてるか?』

「今ちょうど拠点に戻ったばかりです。なにか事件が?」

『美津島グループの発掘隊が“粛清者”の襲撃を受けたらしい。機動隊が投入されるくらいの荒事になってるそうだが、如何せん人手が足りなくてな!』

「俺も応援に向かいます! 場所は?」

「火立山の山中だ。詳細な位置情報は追ってGPSで送る」

「了解しました!」

 停止したばかりのエンジンを再び起動する。

 なし崩し的に遺書の件が先送りとなったことに、相模は内心でほっとしていた。心境はさながら執行猶予を得た罪人といったところか。

 どのみち既に覚悟はついているのだ、今だろうと後になろうと同じことだろう――――そう己に言い聞かせながら、相模は数時間ぶりの煙草を咥えた。



 マンションの駐車場に相模の車が停まったかと思いきや、数分とせずまた何処かへと走っていってしまった。今日の午前中は上司の葬式のために休む、と朝に相模が連絡していたが、まさか葬式を終えて戻ってきた途端に仕事が入ったのだろうか。だとすれば警察官とは呆れるほど多忙な職なのだな、とつくづく思う。

 ベランダの縁に身を預ける粟ヶ窪朱莉の昼下がりは、まったくもって気楽そのものだった。

 秋風がカーディガン越しに体温を掠め取るたび、熱々のミルクティーを少し口に含み、体を暖めなおす。ゆっくりと体温を整えていくこの緩やかな時間が、何とも言えず心地よい。

 暑くも寒くもなく、ちょうど良い具合に体温が整ってくると、徐々に瞼が重くなってくる。

 紗雪が帰ってきたら、一緒に昼寝をするのも良いかもしれない。そう思った矢先、居間に設置された転移陣を通して紗雪が現れる。

「あら、ベランダでティータイムだなんて朱莉にしては珍しいですわね」

「似合ってないかな? 優雅なアフタヌーンティーとかさ」

「優雅というよりアンニュイでしてよ」

「こうしてると眠くなってきちゃってさ。一緒に昼寝でもしない?」

「残念ながらそれは無理ですわよ」

「えー。なんでなんで?」

「きっと嫌でも眼が覚めてしまうと思いますの」

「あ、もしかしてさっき言ってたサプライズってやつ?」

「えぇ……。まぁ、立ち話も何ですから、座りながら話しましょう?」

 ソファに腰掛ける紗雪に続いて、朱莉も隣に腰掛ける。

 紗雪は片手に何かを隠し持っている様子だ。あれが誕生日のプレゼントだろうか。

「……正直なところ、朱莉に喜んでもらえるか少々不安ですの。渡したときに、朱莉がどう反応するのかまるで想像がつかなくて……」

「そんな変なもの買ってきたの?」

「変といえば変、かもしれませんわ」

 隣に座ってはじめて、朱莉は紗雪の手が震えていることに気づいた。可憐な微笑を浮かべて気丈に振舞っているものの、本心ではひどく緊張しているらしい。

 朱莉は知っている。勝負事には冷静で強気な紗雪だが、彼女の本心はいつも怯え竦んでいた。プレゼントを渡そうとしている今この瞬間も同じだ。

 きっと単なる誕生日の祝いではない、何か重大な言葉を吐露しようとしているのだろう。ならば、朱莉がすべきことは一つだ。

 震える紗雪の手をそっと握り、朱莉は精一杯の優しい笑みを向ける。

「あたしは既に嬉しいんだよ。紗雪があたしの為にプレゼントを用意してくれたから……この喜びはきっと誰にも打ち消せない。紗雪自身にも」

「……」

「だから、見せて?」

「……やっぱり敵わないですわね」

 半ば呆れすら覗かせる紗雪の苦笑。しかしその面持ちからは先ほどまでの緊張は消え失せている。

 大きな深呼吸の後にやっと差し出された紗雪の手には、立方体の小さなケースが握られていた。

「これって……」

 ケースがゆっくりと開かれ、中に秘められたプレゼントの姿が露になる。中身は果たして一対の指輪であった。

 シルバーの輪の頂点にダイヤともガラスともつかない綺麗な宝石をあしらった、シンプルなリングだ。

 この喜びは打ち消せないと豪語した朱莉も、これには目を疑う。いくらメディアに疎く世間知らずな一面を持つ彼女でも、目の前にあるそれが一般的に意味することを知らないわけがない。

 これがいわゆる“婚約指輪”であり、プロポーズの際のプレゼントとして贈られるものである、ということを。

「朱莉も知っているでしょう? エンゲージリングですわ」

「こ、婚約指輪!?」

「ふふ、驚いてますわね」

「そりゃびっくりするよ! っていうか、どういうこと!?」

「知っての通りわたくしは朱莉を愛していますの。だから婚約指輪を贈る――当然でなくて?」

「でも婚約届とか書かなきゃいけないんだろ? 結婚できる年齢っていつからだっけ。っていうか女子どうしの婚姻届って、役所で受け取ってくれるかな……」

「…………くふふっ」

 本気で悩み始める朱莉の顔をまじまじと見つめ、紗雪は遂に堪えきれず吹き出してしまう。朱莉の言葉がよほど面白かったらしく、普段の上品な所作も忘れて紗雪はしばらく笑い続けた。

「な、なにさ」

「いえ……まさか本当に額面通り受け取るとは、想定外でしたわ」

「もしかしてあたし、からかわれてる?」

「そんな事ないですわ。ただ、朱莉のそういう素直な所が可笑しくて、とっても愛おしくて…………。ねぇ、朱莉。なにも手続きをするだけが、婚約届に名を記すだけが永遠の愛とは限りませんわ。これは大好きな貴女と永遠に結ばれていたいという、わたくしの気持ちの象徴ですの」

「……そっか」

「受け取って貰えますか?」

「当然、喜んで」

 リングのうち一つを自らの指にはめ、もう一つを紗雪の指にはめてやる。

 シルバーと宝石に彩られた紗雪の指が、もともとの美白と相まって目も眩むほど美しい輝きを放つ。

 一方、朱莉のすこし日焼けした柔らかな指を掴むリングには、紗雪のそれとはまた違った趣の美しさが見られる。

 紗雪のリングのサイズはピッタリなのに対して、朱莉のリングは少々だが緩い。サプライズに拘るあまり、朱莉の指のサイズを調べることまでは出来なかったのだろう。それすらも朱莉にとっては微笑ましく思えた。

「あら、些か大きすぎるようですわね……魔術でどうにかしましょう」

「いやいい。あたしを驚かす為に準備しててくれたんだな、って感じがするから」

「そうですか?」

「それにあたしも、このリングがピッタリになるくらい大きく強くなって紗雪を守らなきゃ……なんて思っちゃったり」

「朱莉! そういう口説き文句は、今日はわたくしが言う番でしてよ!」

「いいじゃん。今日は一日中、お互いに口説きあってみるのも悪くないかもよ?」



 発端は、シルヴィアと住むルームの棚という棚にびっしりと詰め込まれたインスタント食品を発見したことにある。それまでも薄々と感付いていたことだが、確信はより深まった。

 シルヴィアは信じられないほど生活力が低い。とりわけ料理にはひどく無頓着だ。

 思えばシルヴィアと一緒に暮らしている中で、彼女自身が料理を作る姿は一度も見たことがなかった。本部では食堂のメニュー、外ではゼリー飲料、泊り込みではインスタント食品と、とにかく手間のかからない食品ばかり選んでいる。仮に食堂が使えなくでもなった場合には、朝昼夕すべてをインスタント食品で済ませてしまうことだろう。

「そんなわけなので、今日はシルヴィアちゃんとお料理しちゃいます!」

「…………決定事項?」

「うん。今日はやるって決めたからね!」

「……そう」

 シルヴィアの表情がほんの微かに歪む。おそらく内心では面倒がっているのかもしれないが、今回ばかりは緋桐も譲るつもりはない。

 手始めに緋桐は購買で買い付けた食材をざっとキッチンに並べる。白飯、豚肉、ネギ、卵、なると――――オーソドックスな炒飯の材料だ。

「炒飯なら料理初心者のシルヴィアちゃんでも簡単に作れるから! ね、一緒にしよ?」

「…………わかった」

 渋々ながらの承諾を確認すると、緋桐は嬉々としてシルヴィアにエプロンを着せはじめる。

 これといって仕事の予定のない今日のシルヴィアは、タンクトップにジーンズと至って質素な出で立ち。いつもどおり暗い色で揃えられた彼女の衣装は、緋桐の想定とピタリと合致する。

 シルヴィアが着せられたのは、黒とマゼンタのチェック柄のエプロン。所々にフリルをあしらったデザインがゴシック&ロリータの趣を匂わせる、実用性よりもファッション性を重視したものだ。

 基調となる黒色でシルヴィアのクールな印象を押さえつつ、ピンクの差し色が幼さと可愛らしさを強調して、ロリータの理想系とも言える様を成している。

 元より人形と見紛うほどの美貌をもつシルヴィアなのだから、これが似合わないはずがない。結果として緋桐の目論見は大成功と言えた。

「わぁ、想像以上に似合ってる! すっごい可愛い!」

「……これは…………?」

「ゴスロリ風のエプロン。購買で取り寄せてもらったの。絶対シルヴィアちゃんに似合うって思ったんだ!」

「ゴスロリ…………」

 面持ちに若干の戸惑いの色を浮かべているものの、シルヴィアはどこか満更でもなさそうな様子だ。緋桐が絶賛とともに“可愛い”と言い放つたびに少しずつ赤らむ頬が、言い逃れし得ぬ証左だろう。

 緋桐はひとしきり褒めちぎったあと、名残惜しい気持ちを抑え、あらためて料理に取り掛かりはじめる。

 まずは食材を刻むところからだ。



 ――十数分後、緋桐は調理を終えた段階に至ってようやく、失念していたある事実を思い出した。

 緋桐は料理がすこぶる下手であった。

 一口に下手と言えど、料理の失敗には無限のパターンが存在するが、緋桐の場合はその中でも最も典型的な“ドジ”または“不運”によるもの。

 更に言えば、ドジにも上から下まで様々なレベルがある。ドジをする女性というものは往々にして愛すべき存在とされるものの、やはり度を越してしまえば笑えない。悲しいことに、緋桐のドジは笑えないレベルであった。

「シルヴィアちゃん」

「……?」

「これは……炒飯ではありません」

「…………??」

 そもそも食材の時点からして何もかも間違っていた。

 白米と思われていたものは向日葵の種で、豚肉と思われていたものは熊肉で、鶏卵と思われていたものはスッポンの卵で、ネギと思われていたものは得体の知れぬ山菜で、なるとと思われていたものは金太郎飴だった。

 これだけの珍味という珍味が、一体どのような巡り合わせを経て緋桐のもとに届いたのかは全くもって謎である。しかし、あの質素極まりないはずの食材群がそれぞれ全く違う珍味と入れ替わり出荷され、イシュタルの購買へ辿り着き、そして緋桐の元で一堂に会したのは、天文学的確率からなる奇跡的なまでの不運であった。

 “なんだか臭いがおかしい”と思ったころにはとうに手遅れであり、それからものの数分としない間に、珍味に珍味をかけあわせたオンリーワンの暗黒物体が望まれぬ誕生を果たしてしまった。

 思えばそもそもスッポンの卵と鶏卵を間違えるなど、どうあってもあり得ない。だが、それを成しうる業こそ緋桐の“笑えないドジ”の真髄なのだろう。

「ごめんねシルヴィアちゃん……。私は料理が下手だった!」

「…………??」

 シルヴィアの眼差しが、何を言っているんだ、と言わんばかりに突き刺さる。それもそうだろう、彼女からすれば「料理をする」と無理やり付き合わされた挙句、最後に「料理はできません」と告白されたのだ。意味不明である。

 怪訝の色を宿す視線はやがて暗黒物体へと戻り、ほどなくしてその色を“無”に変える。臨戦時に見せる、あの獰猛にして冷酷な捕食者の眼だ。

「し、シルヴィアちゃん? 一体何を……」

 緋桐が言い終わるより先にシルヴィアは暗黒物体をつまみ取り、おもむろに口へと運んでしまう。

 突然のことに唖然とする緋桐をよそにバリボリと響く炒飯にあるまじき咀嚼音。しかしシルヴィアはあくまで表情を崩すことなく“それ”を嚥下し、涼しげに呟いてみせた。

「……食べれる………………ヒギリの炒飯」

「シルヴィアちゃん……!」

「…………………………ウッ……オゥェ」

「シルヴィアちゃん!!?」



 掘っ立ての看板とGPSの誘導を頼りに火立山の林道を走り抜けた末に現れたのは、地下へと続く巨大な洞窟だった。

 洞窟の入り口は今なお警官隊が出入りし、負傷した研究者たちを運び出している。奥から聞こえる激しい銃撃音から察するに、事態は芳しくなさそうだ。

 発掘隊のテントそばに車を停めた相模は慌てて異対部本部に連絡を取る。

「こちら相模、現場に到着しました」

『よし、今しがた急いでイシュタルに契約を取りつけた。携帯転移陣のナンバーを準備してくれ!』

「了解!」

 車を降りた相模はトランクを開き、半畳ほどはあるプレートを一枚取り出す。プレートには少々アレンジの施された転移陣が描きこまれている。このプレートこそが携帯転移陣だ。

 定位置として決められた場所に一定期間展開され続けている通常の転移陣とは違い、携帯転移陣は持ち運びすることができる代わりに一回のみしか発動できない、言わば即席版である。これは異対部に所属する刑事は必ず常備している緊急用のマジックアイテムであり、悪用を避けるために異対部のみにしか生産されず、異対部本部からの承認がなければ利用もできない。

「転移陣のコードはJN-2477P6519。お願いします」

『了解した。今向かわせる!』

 無線通信を切ってしばらくすると、携帯転移陣に光の粒子が収束し始め、やがて人の形を取り具現化した。

 黒く艶めくツインテールに、特別ハッキリしているわけではないが悪くない程度の目鼻立ち。5人組アイドルグループの一番地味なポジションが似合いそうな少女。

 ――――転移によって現れたのは加藤みらだった。

「イシュタル所属魔法少女の加藤みらでーす。よろしく」

「俺は相模。いま襲撃を受けた被害者たちを運び出している真っ最中だ。ある程度人数が纏まったら転移陣で一気に送る予定なんだが、如何せん戦闘が激しくて難航しているらしい」

「はいはい、要は警官隊と被害者が離脱するまで犯人の相手をしてやれっちゅー訳ね」

「相手は粛清者だ。油断するなよ」

「まぁ、最善は尽くすから」

 切迫した事態とは裏腹に消極的な口調で返すみらに、相模もさすがに不安を覚える。しかし彼女の周囲を観察する眼はシルヴィアにも似て鋭く、それに気付いてからは単に天邪鬼な性格なだけかもしれないと思った。

 ある程度の状況を分析し終えると、みらはすかさず洞窟に飛び込んでいく。追って相模も洞窟へ突入した。



 倒れ伏す研究者たちとそれを担ぎ出す警官たち。彼らの間を縫うように颯爽と駆け抜けていくと、盾越しに敵を威嚇する機動隊の姿が奥に見える。

 機動隊が威嚇する相手は、漆黒の法衣に身を包む長身の男。190センチほどの身長にがっしりとした体格から重々しい覇気を放つ、まるで仁王像のような男だ。

 一筋縄では行けそうにない敵を前に、みらは早くも肩を落とす。

 男の佇まいは武人のそれだ。

 澄んだ川面のように淀みなく、自然体な構え。その一方で瞳に宿る殺意は海底のように昏く、近づく者すべてを呑み込まんとする深淵をたたえている。

 たった一目でこれほど“敵に回してはならない”と思わせる武人はそういない。

 男はアッシュグレーの長髪の隙間からみらの姿を見咎めると、ぞっとするほど低い声で語りかけてきた。

「貴様……魔女か」

「そーいうお前は粛清者?」

「いかにも」

「……粛清者って、魔術師とか無制限能力者とか、なんか異能を殺したがってる訳っしょ。ただ発掘してるだけの連中を襲うっちゅーのは、おかしくね?」

「貴様ら道化にはただの発掘現場にも見えよう……語るだけ詮無きことだ」

「はぁ……。その勿体ぶった喋り方、ガラ悪いっつの」

「……フン」

 冷ややかな視線が交差する。口先では挑発しあう形を取りつつも、既に二人の意識は互いの戦力分析に向いていた。

 男が着ている法衣は、全身の所々に不自然な膨らみがある。どれもサイズとしてはかなり小さく、ナイフほどの長さにすら満たない。

 武具であるかどうかは判別しかねるが、仮にそうであったとして、少なくとも接近戦において積極的に使うものでは無かろう。考えられるものとしては、投擲に特化したクナイだろうか。

 敵が投擲を得意とするのであれば、迂闊に間合いを開くことは危険だ。予備動作の確認から最少のスパンで阻止できる距離を保つ必要がある。

 分析を終えたみらは、男の背中側へ回りこむように走り、間合いを詰める最中で変身魔法を発動する。

 みらの身体が淡い光に包まれ、然る後に粒子を散らしながら変身を完了する。青地に黄のラインが走る、西洋祭服風の魔法衣。知る者ぞ知る、イシュタルの魔法衣だ。

「起動《アウェイクン》……!」

「青い衣…………アナトの飼い犬か」

 分析を終えたらしい男はさっと腰を落とし、走るみらを視線で追う。やがて目標を定めたかと思うと、一刹那の溜めの後、男の姿はその場から“消失”した。

 一瞬でその場から消え去る方法として、みらはとっさに転移魔術を思い浮かべた。だが、すぐさま考えを改める。

 少なくとも彼ら“粛清者”が魔術を行使することはあり得ない。

 ――――粛清者とは、いわゆる反異能派の代表格だ。彼らにとって魔術とは、邪教にも等しい忌むべき業。まずもって転移魔術の可能性はあり得ない。

(いや……これっ……!?)

 沸き上がる厭な予感に従い、みらは走る足を止めた。するとその直後、片頬をミサイルが通り過ぎたかのような烈風が掠める。――気がついた時には、空に掌底を突き出している男が真隣に“既にいた”。

 ゆらりと首を回し、男がこちらに振り向く。

「…………っ!」

 みらの背筋に冷たいものが駆け抜ける。

 首を回す、ただそれだけの何ということも無い動作が、おそろしいほど不気味であった。焦れったいほど緩慢なのに、そのモーションが何故か視認できない。みらの眼に映ったのはただ“こちらを向いた”という結果のみ。

(こいつ、マトモじゃない!)

 あわてて飛び退きながら、みらは片手にマジカライズステッキを召喚する。ステッキは即座にグレネードランチャーを模り、殺意の思念を弾体と変えて二発撃ち出した。

 ほんの2メートルにも満たない射程から放たれたグレネードを、男はステップを踏み易々と回避してみせる。その間にもみらは退避を続け、二人の間合いは5メートルほども開く。

 気休めとは言え、ひとまず追撃を避けることには成功した。しかし、いつまたあの瞬間移動でもって間合いを詰めてくるか分からない。

 警戒はそのままに、再び男の周りを回るように走り始めた。今度はグレネードを撃ちながら走ることで、男が“溜め”の構えを取る暇を与えない。

 周回しつつの射撃と、最小の歩幅による回避。戦況は完全に停滞したかに思われた。

 しかしそうした状況が十数秒ほども続くと、いよいよ相手もグレネードが発射される間隔を覚えてくる。男はついに“溜め”の構えのまま回避するようになり、それから一刹那の後にふたたび姿を消した。

(来る……!)

 次弾が発射されると同時に、放たれたグレネードを避けるように身を反らした男がみらの眼前に“現れた”。やはり男の動きは視認できず、気がつけばすでに拳は眼と鼻の先。この絶体絶命の状況を前にしながら、しかしみらは些かも取り乱さない。それどころか魔法を最大出力で発動してみせる。すると拳は命中する直前で止まり、たちまち引き下がってしまう。

 飛び退く男の視線は、たった今みらが放ったグレネードに釘付けになっていた。

 グレネードはみら自身の足元に向けて撃たれている。敵もろとも自爆することを覚悟の上で放たれた、かのように見えるその擲弾。

 しかし男の予想に反して、グレネードは起爆しなかった。土の上にただ転がるのみで、物音ひとつ立てない。

「まさか……」

 男は何かを悟り、急いで周囲に目を向ける。彼の周りには、同様に起爆しなかったグレネードが無数に転がっている。

 マジカライズウェポンから撃ち出されたグレネードは、そもそもすべて起爆されていなかったのだ。

 爆音の一つも無かったといのに、なぜ不自然に思わなかったのか。なぜこんな単純なことに気が向かなかったのか。

 男が得心し目を上げた頃には時既に遅し。その場にみらの姿はもうなく、洞窟の入口のほうから嘲るような声が響いてくる。

「研究員は全員救出させてもらったし、もう用はないっつうか……。みらくるくるりんまた来週~☆」

「まやかしたな……魔女め!!」

 みらの声に続いて、指を鳴らす音が響く。その直後、男のまわりに転がる全てのグレネードが一斉に爆裂し、たちまち洞窟を崩落せしめた。



 みらと粛清者が戦っている間にもひそかに救出作業を続けていた相模は、ようやく全ての要救助者を運び出したことを確認する。

 車のトランクから取り出した新たな携帯転移陣をテント内に展開し、ふたたび無線を手に取る。

「こちら相模。要救助者はすべて避難完了しました。コードはJN-5338K4127。承認お願いします」

『了解、すぐに転移をはじめる。よくやった!』

「いえ。魔法少女の力がなければ、数人救えたかどうかも……それにまだ交戦中のようです」

 今なお洞窟内で戦闘を続けているみらを思い、相模は数分前のことを回想する。

 洞窟に突入した時、みらの念話が相模の脳内に送られてきた。作戦の伝達を敵に盗み聞きさせない為だ。

(みらが敵の注意を引き付けておくから、その間は救出だけに専念して。最悪、洞窟ごと潰すかもだから、とにかく迅速に)

(注意を引き付けるって……簡単に言うが、できるのか?)

(あー、そこは問題ないって。みらは注意を引き付けるためにいるから)

(はぁ?)

 謎の根拠を言い切るなり、みらはさっさと念話を切って粛清者と戦い始めた。結果的に彼女の言葉に従ったことで、敵の妨害を受けることなく要救助者たちを救い出せたのだが、あの言葉の意味は未だによくわからない。

 そうこうしている間に助けた出した人達が転移陣の光に包まれ、消えていく。

 機動隊員たちはひとまずの任務成功に胸を撫で下ろし、残った警官・魔法少女の全員を転送するための携帯転移陣の準備に取り掛かる。しかし相模の心中は相変わらず穏やかでいられない。

 助け出した者達の多くは傷を負わされ、一様に苦悶の表情を浮かべていた。命を失った者も何人かいる。

 もしあと少しだけ早く辿りつけたなら。そもそもこの事件を未然に防げていたなら。――やるせない想いばかりが胸にこみ上げてくる。

 それにこうしている今も、彼の代わりに年端もいかない少女が強敵と死闘を繰り広げている。相模はといえば、あっという間に人気のなくなったテントの下、加勢すらせず待っていることしか出来ない。

 今更どうにもならない事とはいえ、これが自責せずにいられるだろうか。

 肩を落とす相模の後ろで、激しい爆発音が轟く。振り返ってみると、崩落する洞窟を背に悠然と向かってくるみらの姿があった。

「まさか本当に発掘現場を潰してしまうとはな……」

「そう言ったって、あんなヤバい奴を退治できるなんてね、上手くいったのが不思議ってくらいだよ」

「あぁ、感謝してる。しかし……一体何をしたんだ?」

「みらの魔法。……メンドいから説明はしょるけど、ま、一定範囲内にいる人の注目を一点に引きつける能力……ってやつで」

「…………なるほど。なんとなくわかった気はする」

 つまるところ、みらの魔法とは敵の注目対象を自在に決定できる能力なのだ。

 初めは彼女自身、またはグレネードランチャーの銃口と発射間隔。間合いを詰められた際にはグレネード。それぞれに敵の注目が集中している間は、他の事柄に注意が向き辛い。加えてそれらに意識が集中しやすい戦況を自然に演出することで、敵に疑問すら抱かせず救出作業を並行してできるし、みら自身も離脱しやすい。

 まさに救出戦のためにあるような能力だ。

「ま、注目を集めるのはアイドルの専売特許だしね」

 相模は彼女の言う“アイドル”の意味がよくわからず、首を傾げた。一方のみらは、機動隊たちに向かって営業スマイルともしたり顔ともつかぬ微妙な笑顔を振りまく。自覚があるのかは分からないが、どちらにせよ疲労と達成感が滲んでいることだけは間違いない。

 そんなみらの笑顔は直後、真っ赤な鮮血に染まった。

「…………なっ……!?」

「クソッ……急所を外したか」

 不意に右胸を貫かれたみらは言葉を発することもなくその場に倒れる。凶器は人差し指ほどの長さの小さなクナイ。

 飛んできた方向を見れば、粛清者の男が入口を塞ぐ岩を叩き割り、洞窟の外に出てきていた。彼も相当な深手を負っている様子であり、黒い法衣の所々から血を滴らせている。

「なるほど、意識操作の魔法とはな…………この我をあざむき、手傷まで負わせるとは……どこまでも忌々しき魔女め……!!」

 粛清者は害虫をとり逃がしでもしたように、苛立たしげな視線をみらに注ぐ。その有様が、相模にはとても解せなかった。

 一体どんな大義名分があれば、こんな所業が赦されるというのか。不可解に思う気持ちは徐々に膨らみ、熱量を増し、止め処ない憤りへと変わっていく。

「お前……よくもやってくれたなぁぁ!!」

 気がつけば相模は我を忘れ、粛清者に向けて拳銃を引き抜いていた。トリガーを引く指に迷いはない。

 無我夢中に放たれた銃弾は、しかし命中することなく空を切る。満身創痍となっても尚、粛清者の回避動作はその精度を失っていなかった。

 少し遅れて機動隊員たちも銃を構え、粛清者を囲むように射撃を開始する。

 いかに手練と言えども満身創痍の傷を負い、開けた場所で囲まれては回避はできまい。こればかりは不利と見たのか、粛清者はすぐさま溜めの構えを取った。然る後に瞬間移動の如く加速する。

 気がついた時には、相模は粛清者の手で羽交い絞めにされていた。

「動くな、貴様ら。この刑事の命が惜しいのならば、引き金を引かぬことだ……」

 なんとか逃れようともがく相模の抵抗も虚しく、粛清者の腕はびくとも動かない。否、動いていないのは相模ほうだ。間接の可動域を的確にすべて封じられているものだから、抵抗したくとも全く力が入らないのだ。

 事ここに至って相模はようやく、この男の超越的な戦闘能力の一端を解する。

 尋常ならば不可能とされる挙動の数々。それはイシュタルの魔法少女たちなどでは比にならない程の極致に至った、武術の心得によって成される業だったのだ。

 彼は正真正銘、魔術や特殊能力の類に頼らず戦っている。彼が起こす摩訶不思議のすべては物理的なルールに従っていて、理詰めの手段によって体現されているものだ。

 こんな化物に敵うはずがない――。

 途方もない事実を思い知った相模は、ほどなく放たれた粛清者の手刀を受けて気絶した。



 相模刑事の拉致と加藤みらの負傷。この二つの情報は陽が落ちたころには既にイシュタル本部に広まり、多くの魔法少女たちを動揺させた。無論、緋桐とシルヴィアもその例外ではない。

 みらは右胸を貫かれ、急所こそ外しているものの出血がひどく、かなり危険な容態にあるという。

 夕食のために食堂まで降りてきた緋桐だったが、その報せを受けた後はどんな好物もまともに喉を通らなかった。

 一方シルヴィアは箸を止めることはなく、横目で緋桐に問いかける。

「ヒギリ、加藤みらと……知り合い?」

「……今日知り合ったばっかりだった」

「……そう」

「明日から退屈かもしれないけど、本部を守るのも大事な役割だって励ましてもらったの。話しやすいように気を遣ってくれて、変わってるけど懐の深い女の子だな、って思った。……殺されていいような子じゃない」

「粛清者は異能力者を忌み嫌い、滅ぼすことを理念として掲げている。魔法少女というだけで、命を奪う理由には十分」

「そんなのおかしいよ…………一人の女の子をいい大人が本気で殺そうとするなんて」

「裏社会に身を落とした以上、これは避けようがない。イシュタルの魔法少女はむしろ手厚く守られいる部類」

「夢も居場所も交友関係も奪われてきた子が、そのうえ命まで奪われていい道理があるの?」

「道理も何もない。どうすることもできない」

「ならせめて、もう少し依頼が来るのが早かったら…………私も加勢して敵をやっつけられたかもしれないのに」

 異対部から依頼が来たのは、まさに緋桐とみらが別れた直後だったらしい。急を要することと人手不足が相まってみら一人が事件に当たることとなったのだが、もし緋桐がみらと別れずその場に留まっていたなら、彼女が重傷を負うことも無かったのだろうか。

 緋桐が碌に食えたものじゃない料理を作っている間、みらは現場で血を流していた。そう思うと、無力感とも罪悪感ともつかない暗い重圧が胸に広がり、緋桐の表情をいっそう曇らせる。

 対してシルヴィアは冷然たる語調はそのままに、わずかに眉根を寄せて言い返してきた。

「…………事態の把握が困難なうえ、急を要する状況だったと聞いている。異能犯罪対策部としても、二人分もの依頼費はすぐには出せなかったはず。それに敵は相当な手練れ。どのみちヒギリに出来ることは何もなかった」

「っ……!」

 こちらの考えを見透かしたように言い捨てるシルヴィアの声音は、いつになく素っ気無い。

 珍しく棘のある言葉を向けられたことで動転した緋桐は、それが気負わないように諭してくれているのか、それとも自意識過剰だと咎めているのかよく分からなかった。だが続くシルヴィアの言葉は、非情にもその真意を突きつけてくる。

「高千穂ゆずが拉致されて以降、ヒギリはどこか浮き足立っている。…………料理をすると言い出したのも、手持ち無沙汰を紛らせたいだけに見える。事実、万全の集中力があったならあり得ないような失敗が目立った。……過ぎたことを悩み続けても、自らの目を曇らせるだけ」

「それはそうかもしれないけど…………どうしてそう冷静でいられるの? 仲間が一人、瀕死の状態になってるのに」

「しばらく本部から動けない事に変わりはない。詮無い憤りを募らせてていても、何も出来ない。なら次の有事に備えるほうが有意義」

「どうして急にそんなこと言うの? わけわかんないんだけど。仲間のことを心配するのはそんなに悪いこと?」

「悪いとは言わない。ただ、ヒギリは焦燥感のために目先のことを疎かにしようとしている。それを指摘している」

「そう言うシルヴィアちゃんこそ、さっきから変じゃない? ずいぶん無駄に棘のある言い方をするけど、それこそ冷静じゃないんじゃないの?」

「………………とにかくヒギリは落ち着くべき。そんな事は考えるべきでない」

「私の考える事をどうしてシルヴィアちゃんから決められなきゃいけないわけ? 疑問を抱くことすら許されないっていうの? シルヴィアちゃん、どうかしてるよ……」

 堪えかねた緋桐はとうとう席を立ち、終ぞ夕食に手をつけることなく食堂を後にした。

 正直なところ、シルヴィアから指摘された事はあらかた図星だ。次に何かあった時のために備えろ、という文句にも一理あると思える。しかし受け入れることはどうしてもできない。

 シルヴィアの言葉がなぜか、こちらの思想を束縛しようとしているように聞えてならないのだ。

 憤りを通り越して、もはや脱力する他にない失望感。

 緋桐は寮へ戻る道すがら、無性に込み上げるやるせなさに肩を落とした。



「どちらの言い分もわかるけど、ああも頭ごなしに食ってかかるのでは……君らしくないね」

「…………」

 一連の口論を見届けると、アナトは緋桐に代わってシルヴィアの隣の席に腰掛けた。

 第三者の目から客観的に評されたことも手伝い、シルヴィアの思考はやっと冷静さを取り戻し始める。 落ち着いてくればくるほど、先ほどの自分の軽率さ、言葉の足らなさが浮き彫りになって痛ましい。

 事ここに至って初めて、この感情が焦燥であることを自覚した。

 クル・ヌ・ギアとの戦闘で緋桐が見せた剥き出しの殺意。シルヴィアの脳裏に焼きついて離れないその記憶が、緋桐の発する言葉に警鐘を鳴らすのだ。緋桐は力によって敵をねじ伏せることに疑問を感じなくなっている。その兆候がどうしようもなく恐ろしい。

 この社会そのものの在り方を懐疑し初めていることも懸念のひとつだ。開花しつつある彼女の凶暴性が、それこそ社会そのものに向いてしまったとしたら? ――――少々飛躍した懸念ではあるものの、杞憂と切り捨てることも決してできない。

 このままでは緋桐は――――。

「まぁ……キミの考えてることはわかる。厳しい物言いではあったけど、本当は緋桐のことが心配で心配でたまらない……違うかな?」

「…………否定はしない」

「だったらその気持ちを素直に言ってあげることだね、シルヴィア。キミはキミ自身が思っている以上に不器用だ。きちんと言葉にしなきゃ伝わらないことだってあるよ」

「善処する。………………本題はなに」

「知ってのとおり、みらが負傷したことで護衛が一人欠けたことになる。欠員を待機組から選抜するか、それとも本部に余力を残しておくか……ついさっきまで枝里と話し合いを重ねていた所だったんだが、最終的に護衛を優先することで決定した。そこで君に護衛組に参加して貰いたいと思ってね」

「……承諾する。出発時刻は」

「明日の午前4時からだね」

「……行程は」

「16回の転移術を経由して行くから、丸1日移動に使うことになるね。現地で1泊した後、次の日に会談が開かれる。会談が終了し次第、即帰路に着く。事務所ビルのある新妃谷(きさきたに)市に帰ってくるまでに3~4日程かかると思う」

 用心に用心を重ねた行程。その並々ならぬスケジュールの背景には、異能社会の緊迫した情勢が滲んで見えた。

 それもそうだろう。界隈では指折りの危険分子として知られるクル・ヌ・ギアが、新たな兵員を蓄えはじめている。しばらく鳴りを潜めていた粛清者も、つい数時間前に活動が確認されたばかりだ。どちらが先に行動を起こすにしろ、近々何かしらの事件が起こるであろうことは明白と言えよう。

 大規模な転移結界によって人界から隔離されているイシュタルの魔法少女たちはいまひとつその空気を実感できていないが、おそらく彼女らが想定している以上に情勢は一触即発の様相を呈している。尤も、イシュタルの代表者たるアナトが深刻そうな様子をおくびにも出さない事も、実感が沸かないことの遠因であるかもしれないが。

「シルヴィアはこの行程をどう捉える?」

「……アクシデントへの対策に大きく関心が裂かれている印象を持つ。しかし焦りも見られる」

「流石によくわかってるね。……ここだけの話、情勢は結構深刻なんだよね。かなり重要な会談になるけど、発案から時間も経ってるし悠長に構えてられない。なるべく柔軟に対応できる布陣を敷いておきたいんだ」

「道中での戦闘もあり得る……?」

「ないように願ってはいるけど、覚悟はしておかなきゃいけない。そういう遠征だ」

「心得ている」

「まぁ、キミには言うまでもなかったかもしれないね。すまないが、頼むよ」

 アナトはほっとしたように微笑を浮かべ、席を立つ。会話の最中に食事を終えたシルヴィアも同じく席を立った。

 一方はオフィスへ、一方は寮へ。それぞれ足を踏み出したすれ違いざまのその瞬間、聞こえるか聞こえないかというほどのごく小さな声でアナトはふいに囁いた。

「そうそう、君がやたらと緋桐を気にかける理由――――――まさか、ね」

 背筋が凍るような冷たい声。虚を突いて放たれたその言葉は、シルヴィアがいま最も聞きたくない相手から発せられたものだ。

 振り向くと、アナトは既に食堂の出口に立っている。こちらに視線を注ぐ彼の瞳はいつも通りつぶらで透明そのものだったが、この時ばかりは不思議と薄気味悪く感じられた。


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