エピソード6
曇天の下を一羽のカラスが横切っていった。低いところを飛行しているのか、いやに大きく見えたそれは、俺の頭上で何かを教えるみたいに大きく鳴きながら去っていった。
家に帰ると、リビングに鞄を放置して適当にテレビを点けた。自分の部屋に一人でいると、何となく凜奈に酷いことを言ったあの時を思い出してしまい嫌なのだ。ぼんやりとテレビ番組を眺める。凜奈はもう帰宅しているのだろうか。そういえば今日あいつの両親は家に帰らないんだったな。今朝母さんがそんなことを言っていたような気がする。凜奈は一人で夕食の支度をしているのだろうか。
気が付くと何故か凜奈のことばかり考えている。思わず一人頭を振る。ばかばかしい。
陸山は確かに良い奴で、俺ともずっと絡んできた友人だが、凜奈と俺の関係に関しては何も知らない。奴の言うことを真に受けるつもりもない。
テレビを消してしまうと、小さく息を吐いて鞄を引っ提げた。いくら自室に行くのに気が重くても、宿題はしなければならない。
自室に入ると、机の上に小さなボードが置いてあった。地域回覧板だ。思わず舌打ちがでる。八武崎家のように帰って来ないわけではないが、俺の母さんも今日は仕事で遅い。今日のうちに俺が回覧板を隣に回しておけということだ。八武崎家に。何てタイミングだ。
靴を履いて玄関を出る。すると、外ではいつの間にか雨が降り出していた。傘を差し回覧板が濡れないように徒歩10秒。回覧板は八武崎家のポストには入らず、仕方なく玄関先に置いておこうかとも思ったのだが、いくら軒下とは言え雨の中外に置いておくのもまずいだろう。この天気を本当に恨む。
まだインターホンを押して凜奈と面会する心の準備ができていなかったので、俺は仕方なくこっそり八武崎家のドアを開けた。ドアはあっさり開いたので凜奈はもう帰っているのだ。音で気が付かれないようにこっそり開き、玄関口に回覧板だけ置いていくつもりだった。が、そっと回覧板を置いた時俺は見てしまった。凜奈が使ってる何足かの靴の他に、学校指定の男子用シューズが混ざっていた。
思わず血の気が引く。俺も凜奈も一人っ子で、勿論兄弟はいない。となるとこれは。思わず唇を噛みしめる。いや、奴らは付き合っているんだ。それぐらい普通のことなんだろう。そう思っても、何故か胸の奥にナイフを突き立てられたような痛みが湧いた。その傷が出血してるみたいに、じくじくと胸が痛み始める。くそ!
咄嗟に玄関から外に出る。どうしようかと迷ったのも一瞬のこと。俺は八武崎家のインターホンを押した。それまでの気まずさなんかすっかり忘れて、俺は自分が何をしたいのかも分からず衝動のままに動いた。すぐにもう一回押す。しかし、凜奈はいつまで経っても出ない。どういうことだ??
玄関は空いていた。凜奈の靴もあり、他の奴の靴もある。確かに居るんじゃないのか?
小さい頃そうしていたように、俺は玄関を開けて直接凜奈を呼んだ。あの頃はインターホンを押すと言う習慣がなく、いきなり扉を開けて凜奈を呼んでいた。
「りんな、いるんだろう!?」
半ば怒鳴るようにしても、家の中からは返事がなかった。2階の自室に居たとしても、インターホンも俺の声も聞こえてるはずだ。それでも、返答はなかった。
「りんな!!」
どうしてそうしてるかも分からずに、大声をあげた。頼むから、出てきてくれよ。泣きたいような気持ちが混じる。俺は凜奈を避けていた。だから、凜奈も俺を嫌って避けはじめたのだろうか?
唇を強く噛んで、決断する。元々自分の家より見慣れてる家だ。俺は靴を脱いで勝手にあがった。リビング、ダイニング、そしてキッチンと回る。台所では切りかけのキャベツが包丁と共に放置されていた。コンロには水を湛えた鍋がセットされている。
リビングから2階に上がる。俺の家と構造は似ており、突き当りのすぐに凜奈の部屋がある。ドアの前でノックをしてみても、返事はない。
中からくぐもった音が漏れる。確かに人はいる。そう確信すると同時に、また胸に鋭い痛みがはしった。どういうつもりだ?
「りんな? いるんだろう、入るぞ?」
後になって思い返してみても、ここで俺はドアを開くべきではなかった。冷静に考えてみれば無礼極まりない。俺はもう中学生なのだから、こんな非常識なことをするべきではなかったのだ。俺はただその一点だけを悔いている。その一点だけを、悔いている。
ドアを開けて最初に目に飛び込んできた光景は、凜奈のベッドで抱き合っている男女だった。寝そべった女の上に男が乗っていて、上から女の顔に顔を被せていた。ここからだと男の後頭部が下の女の顔を覆っている様子しか見えない。二人とも制服姿だった。
ああ、と得心する。俺はこの現実からずっと目を背けてきたのだ。勝ち目のない戦いに一縷の望みをかけている、と言われた。まさにその通りだ。そんな望みを持つことができたのは、単に俺が現実から目を背けていたからだった。当然想定されるべきこの光景から。
ゆっくりとドアを閉める。誰かが俺の名前を呼んだような気がしたが、それは遠い街角で呼ばれた他人の名で、あるいは深い井戸の底からきこえてくる価値のない叫び声で、俺にとってはもはや関係のないものだった。
今日のこの日、俺の初恋は終わったのだ。