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エピソード26

「逆向性全健忘……?」

 恵さんの言葉の意味が呑み込めず、俺はただオウム返しすることしかできなかった。

 凜奈の病室から出て、4階の共有スペースまで来たとき、恵さんつまり凜奈の母さんはようやく事情を説明してくれた。共有スペースには誰もおらず、設置されているテレビも沈黙を守っている。

「なんだよそれ……」

「ある地点から以前の記憶が全部抜け落ちてしまう記憶障害よ。要するに記憶喪失ね」

 俺の母さんが代わりに解説を入れたが、俺が聞きたいのは勿論そういうことではなかった。二人の母さんが言う言葉の意味を、俺は理解することすら怖かった。

「お医者さんが言うには、健忘のうちでも個人的な出来事や人間関係だけを忘れるものらしいの。だから、社会生活を営む上で必要な知識は抜け落ちてないみたい。不幸中の幸いね……」


 それは恐らく、この場にいる誰にとっても何の慰めにもならなかった。

 恵さんは続ける。

「多分、下校途中階段を踏み外して頭を打ったことによる外傷性記憶障害の可能性が高いってお医者さんは言ってたけど……」

「けど? なに、恵?」

 母さんに促され、恵さんは躊躇いがちに言った。

「検査してもらったところによると、記憶障害が引き起こされるほど大きな損傷かどうかは疑問が残るって。つまり……」

「はっきりした原因は不明ってことね……」

 母さんがそう言って閉めた。が、俺にとってはもうどうでもいいことだった。


 そもそも俺があの時バカみたいな意地を張って凜奈を拒絶しなければ、凜奈は熱中症の名残りを抱えたまま独りで下校することはなかったのだ。そして、その結果脳に障害を負うことも。

 そう認識が追い付いた瞬間、突然手と足が勝手に震え出して、視界が揺らいだ。

「優太朗!?」

「ゆうちゃん!?」

 一瞬地震でも起きたのかと思ったが違ったらしい。どうやら俺の足から力が抜けてその場にへたれ込んでしまったようである。全身に力が入らなくて、最高に気持ち悪かった。

 さきほどの病室内でのやりとりが、脳裏にフラッシュバックする。



「あなた、誰?」

 凜奈から思いも寄らぬ言葉を向けられ硬直していると、その間に凜奈に向かって恵さんが説明をくれた。その口調は必要以上に優しげで、まるで幼子に対するもののようであった。

「凜奈、優太朗くんはあなたの昔からのお友達なのよ。ずうっと小さい頃から一緒に遊んできた、お友達よ」

『友達』と言う言葉が胸に小さな痛みを生む。それは凜奈に対して異性でなく『友達』であったことの痛みなのか、それとも友達に対して酷いことをしてしまったことに対する自責の痛みなのか、俺には分からない。多分、両方だろう。

 凜奈は、これまで見たこともなかった緊張した面持ちを俺に見せ、そのまま頭を下げた。ベッドで上半身を起こしたままの姿勢で、首だけで謝罪する。

「ごめんなさい。私、あなたのことを忘れてしまっているらしくて……」

 何かの冗談かと思った。こんな他人行儀な凜奈はこれまで一度だって見たことがなかった。彼女はいつだって厚かましくて、まるで姉貴の様な面をして俺を引きずり回していたのだ。

 それなのに…………

 『変な冗談はやめろ、今までのことを怒ってるならそう言ってくれ』そう口を開こうとしたところ、その気配を感じ取ってか、母さんが俺の肩に手を当てた。

「外で話そう」



 病室内でのことを思い出し、俺は共有スペースの床にへたり込んだまま嘔吐えずいた。ただ空っぽの、体内で生まれた悲しみを吐き出そうとするかのような嘔吐きだった。俺が凜奈を殺したも同然だった。正真正銘、取り返しのつかないことになってしまったのだ。

 悲しくて泣きたくても、俺にはその資格すらないように思われた。


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