第22話 それぞれの未来
天正九年(1581年)、十一月。
鳥取から安土へ戻った日の夜。
夕食を終えた俺は、新七さんに呼び止められた。
「玲央。少し話がある。」
「何ですか?」
新七さんはお春さんが台所へ下がったのを確かめ、俺を奥の部屋へ招いた。
向かい合って座ると、新七さんは口を開いた。
「鳥取で、羽柴様に申したことじゃ。」
「ああ、天下人になるって話ですか?」
「そうじゃ。あの時は肝を冷やしたぞ。上様がご健在なのに、羽柴様が天下人になるなどと。」
新七さんは苦笑した。
「いくらそなたでも、冗談が過ぎる。」
「冗談じゃありませんよ。」
新七さんの笑顔が消えた。
「……何?」
「秀吉様は、本当に天下人になります。」
「玲央。まことに申しておるのか。」
「はい。」
新七さんはしばらく俺を見つめていた。
「では、上様はどうなる。」
「前に話したとおりです。来年の六月二日、明智光秀に討たれます。」
「それは聞いておる。その後のことじゃ。」
俺は頷いた。
「光秀は信長様を討ちます。でも、天下は取れません。秀吉様が光秀を倒すんです。」
「羽柴様が、光秀殿を?」
「はい。山崎の戦いで勝ちます。そのあとも争いは続きますけど、最終的には秀吉様が天下を統一します。」
新七さんは腕を組んだ。
「……そこまで知っておったのか。」
「はい。」
「では、羽柴様にわしのことを頼んだのも、そのためか。」
「そうです。」
俺は身を乗り出した。
「秀吉様が天下人になるなら、その人に新七さんのことを覚えてもらうのが一番でしょう? しかも、約束までしてくれたんですよ。」
「働きに応じて取り立てる、という話じゃな。」
「はい。新七さんが手柄を立てれば、もっと出世できるかもしれません。大名にだってなれるかもしれない。」
「大名か。」
新七さんは笑わなかった。
「玲央。一つ聞く。」
「はい。」
「上様をお救いしたら、羽柴様はどうなる。」
「……分かりません。」
「天下人にはならぬのか。」
「ならないかもしれません。」
新七さんは俺を見据えた。
「つまり、そなたが羽柴様と交わした約束は、上様が討たれることを前提にしておるのじゃな。」
俺は言葉に詰まった。
考えていなかったわけじゃない。
むしろ、それを考えたからこそ、秀吉に頼んだんだ。
「……そうなります。」
「玲央。そなたは、上様が討たれた方がよいと思っておるのか。」
「違います!」
思わず声が大きくなった。
「信長様に死んでほしいなんて思ってません。でも、新七さんを歴史に残すには、どっちがいいのか考えたんです。」
「……。」
「信長様を助けたら、俺の知っている歴史は変わります。誰が天下を取るかも分からない。でも、歴史どおりなら秀吉様が天下人になる。新七さんをよろしくしてくれるって約束もある。」
新七さんは黙って聞いていた。
俺は続けた。
「俺は、新七さんを教科書に載せたいんです。そのためにできることは、何でもしたい。」
「玲央。」
新七さんの声が低くなった。
「わしは、上様をお救いするために動いておる。」
「分かってます。」
「羽柴様が天下人になると知っても、それは変わらぬ。」
「はい。」
「わしは上様の家臣じゃ。出世のために、主君が討たれるのを黙って見ておくことなどできぬ。」
俺は何も言えなかった。
新七さんは少し声を和らげた。
「そなたがわしのために考えてくれたことは、ありがたい。じゃが、上様のお命と引き換えにするつもりはない。」
「……はい。」
部屋が静かになった。
新七さんの言うことは正しい。
でも、俺の考えが全部間違っているとも思えなかった。
俺が知っている歴史では、秀吉が天下を統一する。
その未来には、確かな道筋がある。
一方、信長を救った先には何が待っているのか、俺にも分からない。
「新七さん。」
「何じゃ。」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「うむ。」
「もし信長様を助けられたとして、そのあと新七さんが出世できなかったら、どうします?」
新七さんは迷わなかった。
「それでも構わぬ。」
「……本当に?」
「上様がお命を落とされると知りながら、何もせずにおった方が、わしには耐えられぬ。」
俺は新七さんを見つめた。
この人は、本気なんだ。
歴史に名を残すことよりも、信長を救うことの方が大切なんだ。
「玲央。わしからも聞こう。」
「はい。」
「そなたが知る歴史には、わしの名は残っておらぬのじゃな。」
「……はい。」
「ならば、上様をお救いしたらどうじゃ。」
「え?」
「本来討たれるはずの上様を、わしがお守りする。それほどの働きなら、歴史に残るのではないか。」
俺は思わず顔を上げた。
確かに。
本能寺の変を防いだ武将。
そんな人物がいれば、歴史に名前が残る可能性はある。
「……それは、そうですけど。」
「ならば、わしはその道を選ぶ。」
新七さんは静かに言った。
「玲央。そなたはそなたの考えで動けばよい。じゃが、わしが何を守ろうとしておるのか、それだけは忘れんでくれ。」
俺は頷いた。
「分かりました。」
ただ、一つだけ気になることがあった。
本能寺の変を防いだとしても、その功績が新七さんのものになるとは限らない。
信長を救うことと、新七さんを教科書に載せること。
二つを両立させるには、まだ考えなければならないことがある。
その夜、俺たちはそれ以上、秀吉の話をしなかった。
***
翌朝。
屋敷に信長からの使者が訪れた。
「久世新七殿。上様がお呼びにございます。」
「承知した。」
新七さんが立ち上がると、使者は続けた。
「玲央殿もご一緒にとの仰せです。」
「やっぱりか……。」
鳥取城は、俺が予言したとおり十月に落ちた。
秀吉も信長に報告すると言っていた。
呼ばれることは覚悟していた。
「玲央。参るぞ。」
「はい。」
俺たちは安土城へ向かった。
***
広間には信長と丹羽長秀がいた。
「久世新七、ただいま戻りました。」
新七さんが頭を下げ、俺もそれに続いた。
「うむ。面を上げよ。」
信長は新七さんに目を向けた。
「羽柴から報告が届いておる。鳥取ではよく働いたそうじゃな。」
「はっ。」
「毛利方の兵が谷道を抜けようとした際、五十人を率いてこれを防いだと聞いた。」
「敵が進めば、羽柴様の陣に危険が及ぶと考えました。」
「そこで自ら兵を配置したか。」
「はい。」
信長は長秀に尋ねた。
「長秀。そなたはどう見る。」
「羽柴殿からの報告にも、新七の判断が敵の進軍を防いだとございます。五十人を率いる器量は示したかと。」
信長は頷いた。
「新七。以前のそなたなら、命じられた役目を果たすだけで精一杯であったろう。」
「はい。」
「じゃが、鳥取では自ら考えて動いた。そこがよい。」
新七さんは深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます。」
「今後は、わしの近習として仕えよ。」
新七さんが顔を上げた。
「近習にございますか。」
「そうじゃ。わしのそばで働け。」
「ありがたき幸せにございます!」
信長はさらに続けた。
「三十人をそなたに預ける。今後はその者たちを率いて役目に当たれ。」
「三十人も、でございますか。」
「鳥取では五十人をよく率いた。三十人ならば任せられよう。」
「必ずや、ご期待に応えてみせます!」
信長は長秀に向き直った。
「兵の人選はそなたに任せる。鳥取で新七に従った者を中心に選べ。」
「承知いたしました。」
俺は隣で、新七さんの横顔を見た。
近習。
それに三十人の部下。
信長のそばで働く機会が増えるだけでなく、自分の判断で兵を動かす立場にもなった。
出世という意味では、確かな前進だった。
そして、もう一つ。
信長のそばにいられるなら、本能寺の変を防ぐためにも動きやすくなる。
新七さんにとっては、そちらの方が大きいのかもしれなかった。
***
「さて、玲央。」
信長の視線が俺に移った。
「はい。」
「鳥取城が落ちたのは十月二十五日じゃ。そなたの申したとおりになった。」
「はい。」
「佐久間信盛の件に続き、二度目じゃな。」
信長は俺を見据えた。
「どうして分かった。」
来た。
一番聞かれたくなかった質問だ。
「……知っていたからです。」
「それでは答えにならぬ。」
「すみません。」
「羽柴からも、そなたのことを聞いておる。」
俺は顔を上げた。
秀吉様から?
まさか、天下人の話まで伝えたんじゃないだろうな。
信長は続けた。
「羽柴も、そなたが何者なのか知りたがっておったそうじゃ。」
俺は内心で胸をなで下ろした。
「わしも同じじゃ。そなたは何を知っておる。」
「全部を知っているわけではありません。」
「ならば、知っておることを申せ。」
俺は黙った。
昨日、新七さんと話したばかりだ。
秀吉が天下人になること。
その前に信長が明智光秀に討たれること。
ここで話せば、信長はどう動くだろう。
明智光秀を処罰するかもしれない。
それで本能寺の変が防げるなら、話した方がいいのかもしれない。
だが、俺には光秀がなぜ裏切るのか分からない。
信長が俺の言葉を信じる保証もなかった。
「玲央。」
信長に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「そなた、何か隠しておるな。」
「……はい。」
長秀が俺を見た。
新七さんも動かなかった。
信長は意外にも怒らなかった。
「隠しておることまで、今ここで吐けとは申さぬ。」
「……。」
「じゃが、わしに関わることならば、いずれは話してもらうぞ。」
「はい。」
信長は新七さんに向き直った。
「新七。そなたは玲央を信じておるのじゃな。」
「はい。」
「ならば、そなたが見極めよ。玲央の言葉を、いつ、どう役立てるべきか。」
「承知いたしました。」
俺は新七さんを見た。
信長は、俺たち二人に判断を任せた。
それは信頼なのか。
それとも、試されているのか。
まだ分からなかった。
***
広間を出ると、長秀が新七さんに声をかけた。
「新七。明日、わしのところへ参れ。三十人の人選を進める。」
「はい。」
「鳥取で従った者たちも、そなたのもとで働くと聞けば喜ぶであろう。」
新七さんは頭を下げた。
「ありがとうございます。」
長秀が立ち去ると、俺は新七さんに駆け寄った。
「新七さん! 近習ですよ! それに三十人!」
「うむ。」
「もっと喜んでくださいよ。」
新七さんは笑った。
「嬉しいに決まっておろう。」
「だったら、もっと顔に出してください。」
「そなたがわしの分まで喜んでおるではないか。」
俺は笑った。
昨日は意見がぶつかった。
それでも、新七さんが出世したことは素直に嬉しかった。
***
屋敷へ戻ると、お春さんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。上様のお呼びとは、何事でしたか。」
新七さんは笑顔を見せた。
「近習を命じられた。」
「まあ! 近習にございますか!」
「うむ。それに、三十人を預けていただくことになった。」
お春さんは両手を合わせた。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます。」
俺が答えると、お春さんは笑った。
「玲央殿にお礼を申し上げたわけではありませんよ。」
「えっ、そうなんですか?」
「もう。この人のこととなると、玲央殿は自分のことのように喜ばれますね。」
「そりゃそうですよ!」
新七さんも笑った。
久しぶりに、三人で声を上げて笑った。
お春さんが祝いの膳を用意すると言い、台所へ向かった。
その背中を見送りながら、新七さんが小さく言った。
「玲央。」
「はい。」
「上様のおそばで働けるようになった。」
「そうですね。」
「これで、わしにもできることが増える。」
俺は頷いた。
新七さんは信長を救うために、ここまで来た。
俺は新七さんを歴史に残すために、ここまで来た。
二人の目的は、まだ完全には重なっていない。
でも、信長のすぐそばまで来たのは確かだ。
「新七さん。」
「何じゃ。」
「俺も、もう一回ちゃんと考えます。」
「何をじゃ。」
「信長様を助けて、新七さんを教科書に載せる方法です。」
新七さんは頷いた。
「頼むぞ、玲央。」
俺は笑って答えた。
「任せてください。」
天正十年六月二日まで、残りおよそ七か月。
その日を変えれば、俺の知っている未来は役に立たなくなるかもしれない。
それでも、新七さんは信長を救う道を選んだ。
俺はまだ、その先の歴史をどう作ればいいのか分からない。
ただ一つ、決めたことがある。
新七さんの名前だけは、絶対に歴史の教科書に載せる。




