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15/15

15_追放

 追放



 学校の外でも、やることは変わらず、組の仕事をした。通りでの揉め事は、月に何度かあった。


 最初は、初夏だった。屋台の前で、酔った男が三人。支那人だと分かって、絡んできた。辮はもうないので、言葉で分かったのである。


 カイは、いつもどおりにした。路地の口まで下がって、そこへ引き込んだ。正面が狭くなるので、一人ずつになる。狭いところで通るのは、まっすぐ出す動きだけである。


 三人とも倒れた。人が集まった。警官が来た。


 カイは、笑って話した。何があったかを、順に説明した。何時ごろにどこにいて、誰が何を言って、どちらが先に手を出したか。屋台の親父にも訊いてくれ、と言った。それから、倒れている男にも喋らせた。


 言い分は、途中まで合っていた。合わないところが二つあって、カイはそこを言わなかった。どちらも、こちらが有利になるところである。言えば揉める。揉めれば、時間がかかる。


 落としどころは、その場で作った。屋台の器が二つ割れている。それは自分が払う。男たちは、こちらに手を出したことになっているが、酔っていたのだから、そこは問わない。互いに、なかったことにする。


 警官が、少し黙った。それで、済んだ。


 埠頭でやっていたことと、同じだった。三方に別々の言葉で説明して、順番を組み替えて、置き賃を割る。あれと変わらない。


 器の代金は、翌日払いに行った。行かなくてもよかった。誰も来いとは言っていない。


 行った。


 屋台の親父が、驚いた顔をした。それから、飯を出された。



 その警官とは、そのあと何度か会った。二度目は、別の揉め事だった。三度目は、揉め事ではなく、国を訊かれた。


 四度目に、名前を訊かれた。答えた。相手も名乗った。


 カイは、覚えた。もう、日本人の長い名前も入る。


 聞いただけでは人の名前は入らない男である。カシラが三度言っても、客の名は入らなかった。入るのは、会った相手だけだった。


 その警官は、子供が三人いた。上の子が体を悪くしていて、薬代がかかると言った。どこの生まれかを訊いた。いつからこの町にいるかを訊いた。前は何をしていたかを訊いた。訊かれた方が、面白がって長く喋った。



 秋の初めに、相手を間違えた。


 その飯屋には、夏から通っていた。安くて、量が多い。学校から町へ出る道にある。


 給仕の女が、カイの卓にだけ長くいた。注文を訊いて、持ってきて、それから器を置き直した。置き直す必要はなかった。ほかの卓では置いたら戻っていくので、カイはそれに気づいていた。


 飯が、ほかの客より多かった。カイは、それも数えていた。三度続いたので、通っている客への店のやり方なのだと思った。常連を作るには、そのほうが安くつく。上海の飯屋でも、同じことをしていた。


 女が、いつも何時ごろ来るのかと訊いた。訊きながら、首を少し傾けて、盆で口元を隠して笑った。カイは答えた。それから、飯の盛りの話をした。上海では、この値でこの盛りは出ない。この店は正直だ、と言った。ついでに、この店は給仕もみんな器量がいいが、あんたがいちばんきれいだ、と言った。女は盆で顔を半分隠して、しばらく出てこなかった。次の日から、その時刻に卓が空いていた。


 奥の卓の男たちが、カイを見て何か言い合って、笑った。カイは、飯を食べていた。


 奥の卓で飲んでいた男が、急に立って、卓を蹴った。器が土間に落ちて割れた。男は大声で何か言いながら、隣の卓も蹴った。ほかの客は、先に戸口へ逃げた。給仕の女が一人、盆を抱えたまま壁際で動けなくなっていた。男は、そちらへ歩いた。


 カイは、立った。


 女と男のあいだに入った。男は、カイの顔を見てさらに声を張り上げ、右の腕を大きく横へ振った。拳も固めていない、酔った者の振り方である。店の中は卓が詰まっていて、横に振れば卓に当たる。男の肘が、隣の卓の縁を打った。腕が、そこで止まった。


 止まったところへ、右の拳をまっすぐ出した。


 握りは縦にした。親指が上に来る握りで、刀の柄を握ったときと同じ形である。肩から先は振らない。腰を半歩前へ送って、送った分だけ拳が前へ出る。上海の路地で柳葉刀を突いたのと、同じ線だった。刃の代わりに、親指の先と人差指の関節の骨が、男のみぞおちに入った。


 男の息が、口から全部出た。声にはならなかった。前へ折れてきた頭を、カイは左の掌で受けて、横へ流した。倒れる先に卓の角があった。そこへ頭を打たせれば、死ぬこともある。死なれると、話がつかない。


 男は、卓と卓のあいだに倒れた。腹を抱えて、口を開けたまま、息が戻ってくるのを待っていた。女は、まだ盆を抱えていた。


 倒してから、分かった。


 極道の連中がどこにいるかは、見れば分かる。上海で見てきた顔である。国が違っても、立ち方が同じだった。歩き方も、人の避け方も、後ろに何人ついているかの見せ方も。だが、酔っていて、一人だった。だから、間違えた。


 カイは、その足で行った。どこにいるかは、知っていた。町を歩いていれば分かる。看板は出ていないが、出ていない家というのが、そういう家である。


 戸を叩いた。



 出てきた若い者が、こちらを見た。カイは、名乗った。それから、口上を切った。


 九歳の晩、家が空になったあとで、カシラが戸口に立って、路地じゅうに聞こえる声で言った。夜分に騒がせたこと。近所を騒がせたこと。家の中を荒らしたのはこちらではないこと。あとの始末はすべて白龍組で持つこと。そう言って、一度、深く頭を下げた。


 形は、まるで違った。言葉が違う。順序が違う。名乗り方も、下げ方も違う。途中で、若い者が笑い出した。


 それでも、やろうとしていることは伝わった。


 奥から、年寄りが出てきた。鴨居をくぐるとき、頭を横に倒した。肩が横に張っていて、廊下の幅が急に狭くなった。腹が出ているのに、足の運びが静かだった。


 絹ではなかった。木綿の着物である。手が大きく、指の関節が壊れていた。耳は、両方とも潰れていた。カイは、その手を見た。


 オヤッサンと、同じ手だった。


「もう一遍、言うてみい」


 カイは、もう一度言った。半分ほど言ったところで、年寄りが手を上げて止めた。それから、上がれと言った。


 茶が出た。訊かれたのは、上海のことだった。どこの組か。何をやっているか。頭は誰か。何人おるか。


 カイは、答えた。答えていいところまでを答えて、そこから先は答えなかった。年寄りは、答えなかったところを訊き直さなかった。



 盃の話になった。こちらにも、あるのだという。酒を注いで、塩と、魚の身を少し落とす。上が先に口をつけて、それを下が受ける。


 上海では、水を張って、酒を注いで、塩を落とした。魚は入れなかった。


 口上の中身も、似ていた。誰の下につき、誰を立て、何をしないか。義理を欠かないこと。人の女に手を出さないこと。組の金に手をつけないこと。堅気に迷惑をかけないこと。上を飛び越さないこと。順序まで、ほとんど同じである。


 カイは、それが面白かった。国が違う。言葉が違う。海を隔てている。それなのに、同じ形をしている。荷車と、鉄の船が、同じ勘定で動いていたのと同じだった。


 その晩、詫びは受け取られなかった。うちの若いのが、酔って先に手を出した。そちらに詫びる筋はない、と年寄りが言った。むしろ、こっちが悪い、と言った。


 それでも、カイは頭を下げた。下げたのは、下げるのが只だからである。


 埠頭で、カシラが言っていた。役人に逆らうな。逆らうくらいなら先に頭を下げろ。頭を下げるのは只だ。


 年寄りが、笑った。それから、また来いと言った。


 通うようになった。月に二度か三度である。用があって行くのではない。行けば茶が出て、話をして、帰る。


 訊けば、たいてい答えた。この町のどこに誰がいるか。どの店がどこに納めているか。どの筋を通せば話が早いか。誰と誰が仲が悪いか。上海と、同じ構造だった。名前が違うだけである。


 カイは、全部覚えた。


 会った相手は、入る。



 そのうち、頼まれるようになった。この町には、支那から来て働いている者が何人かいた。飯屋の下働きと、荷揚げと、行商である。言葉が通らないので、揉めると話にならない。揉めたときに、カイが呼ばれるようになった。


 両方に喋らせて、順番を組み替えて、落としどころを作る。埠頭と同じである。


 冬が来るまでに、この町のどのあたりに誰がいるかを、全部把握した。


 訴えは出ない。相手も名乗り出ない。詫びを求めてくる者もいない。噂だけが、学校に入る。


 カイにしてみれば、仕事だった。



 上海の埠頭で言われていた。誰の下につき、誰を立て、何をしないか。人に迷惑をかけるな。喧嘩をするな。どうしてもやるなら、知っている相手とだけにしろ。役人に逆らうな。逆らうくらいなら先に頭を下げろ。


 あのとき並べ替えて、これは仕事だと理解した。組を出るのではなく、遠くへ出張るのだった。


 カシラは、二年かけて付け届けを積み上げる。積み上げたところで人が替わって、また一からやり直す。聞いただけでは名前が入らないので、カイはそれを覚えられなかった。


 こちらでは、自分で会っている。会えば、入った。



 冬の初めに、カシラへ手紙を書いた。誰に世話になったか書いて寄越せ、と出がけに言われていた。書けません、と答えた。書けるようになってから書け、と返された。


 書けるようになった。


 名前を並べた。頭の二文字ではなく、全部書いた。何をしている人かを書いた。どういう縁でそうなったかを書いた。日付を入れ、もらった金額を書いた。


 並んでいるだけの紙である。文にはならなかった。作文なら引用でどうにかなるが、これは引くものがない。それでも、書いた。


 返事は、来なかった。



 春に、試験がある。一年の課程が終わって、そこで上の学校へ分かれる。行き先は試験で決まるが、受けるのは全員である。同じ日に受けて、同じ日に結果が出る。行き先が分かれる者もあれば、同じところへ行く者もある。


 カイは、そのつもりでいた。



 呼ばれたのは、まだ春には遠い、十二月だった。


 教員室である。立たされたまま、しばらく待たされた。教師が三人いて、そのうち一人が机の上のものを揃えていた。壁際に、体術の教官が立っていた。


 束が、置いてあった。


 厚かった。紙を重ねて、紐で括ってある。端が揃っていないので、一枚ずつ足していったものだと分かった。


 教師が、上から何枚かをめくって、こちらへ向けた。それから、閉じた。


 一枚ずつ増えたのである。警察から人が来た日に、一枚。役所から問い合わせがあった日に、一枚。学校が出向いた日に、一枚。揉め事が一つあれば、紙は三枚になる。そこへ、支那人の揉め事に呼ばれて出向いた先の話が加わる。どこかから何か言ってくるたびに、そのつど誰かが書いた。


 苦情ではなかった。見えた何枚かには、罰してくれとは書いていない。あの学生がこういうことをした、という事実が書いてあるだけである。中には、よく話が分かる学生だと書いてあるものもあった。訴えは出ていない。相手も名乗り出ない。詫びを求めてくる者もいない。


 壁際の体術の教官は、窓のほうを向いていた。こちらを見ないようにしているように、カイには思えた。


 一枚ずつ読めば、どれも処分の理由にならなかった。


 束にすると、なった。



 教師が、束を持ち上げた。持ち上げて、机に落とした。音がした。


 もう、開かなかった。


 カイは、読めた。


 九歳のときは、一字も読めなかった。春に来たときも、半分しか読めなかった。いまは、読める。日本語も、春から冬までやった。


 それ以上は、読ませてもらえなかった。


 あの中に、自分の名前が何十も書いてある。


 順に、成績を読み上げられた。どれも上位だった。行進のことは、言われなかった。もう直っている。


 処分にはしない、と言われた。


 できないのだった。学校に迷惑がかかったという事実が、どこにも残っていない。残っていないものは、書けない。


 書けば、増える。


 処分にすれば、そのための紙を作らねばならない。作れば、束にもう一枚足される。監督が行き届いていなかったことが、紙の上に残る。残ったものは、綴じられる。綴じられたものは、置かれたままになる。



 成績の紙なら、一枚で済む。


 繰り上げになった。春を待たない。年が明けたら、上へ行け、と言われた。成績が足りているので、待つ必要がない。そういう言い方だった。


 場所は、この町ではなかった。


 カイは、訊かなかった。なぜ自分なのか。なぜ急なのか。誰が決めたのか。訊けば答えは返ってくる。返ってくる答えは、たぶん一つである。


 母が連れて行かれた晩と、同じだった。家の戸口で、カシラは詫びを並べたが、なぜとは言わなかった。カイも、訊かなかった。


 寮に戻ると、話はもう回っていた。


 トキが騒いだ。すごいじゃないか、と言った。春を待たずに上へ行くやつは滅多にいない、と言った。ヤナが笑った。ゴウが頷いた。カイも、そうかと思った。


 トキが、そのあと少し黙った。


 春まで待てば、五人で受けていた。行き先は分かれたかもしれない。分かれたとしても、同じ日に受けて、同じ日に結果を聞いて、一緒に出るはずだった。誰も、そこは言わなかった。



 夜になって、リンが言った。


「あんた、追い出されたんだよ」


 カイは、返事をしなかった。リンは、それ以上言わなかった。言って、寝床に入って、それきりだった。


 カイは、しばらく起きていた。束のことを、考えていた。


 あれは残る。役所の紙と同じである。書いた者はいずれいなくなるが、書かれたものは綴じられて、置かれたままになる。下のほうに何と書かれていたのかは、見ていない。


 読めるようになったのに、読ませてはもらえなかった。



 荷を作ったのは、正月の前だった。着るものと、書いたものと、盃と、母の銅鏡。筆が一本。穂先の割れた、いちばん安いものである。船で使ったのを、そのまま持っていた。鉛筆が三本。ヤナが削ってくれた。


 トキが、駅まで来た。ヤナも、ゴウも、リンも来た。


 ソウは、来なかった。


 町の女たちも来ていた。飯屋の給仕の女がいて、その隣に、湯屋の番台の娘と、角の煙草屋の娘と、ほかに三人いた。誰が声をかけたのでもなく、並んでいた。六人とも、カイと夜を過ごしたことのある女だった。


 汽車が見えてくると、列が崩れた。飯屋の女が真っ先に来て、カイの外套の袖をつかんだ。連れて行ってくれ、と言った。向こうでも飯は炊ける、洗い物もできる、と言った。湯屋の娘は、何も言わずにカイの胸に顔を押しつけて泣いた。額を左右にこすりつけるので、外套の釦が、娘の額に赤い丸い跡をつけた。煙草屋の娘は、切符をもう一枚買ってある、と言って懐から出して見せた。行き先は、カイと同じ駅だった。ほかの三人も、順に袖や帯をつかんで離さなかった。


 カイは、端から順に喋った。一人ずつ名前を呼んで、一人ずつ違う話をした。飯屋の女には、あの盛りはどこへ行っても出ないと言った。湯屋の娘には、額に釦の跡がついていると言った。煙草屋の娘には、帳場の算盤が一つ珠が欠けていると言った。どれも、ほんとうのことだった。連れて行くとは、誰にも言わなかった。


 女たちは、互いの顔を見なかった。


「なんで、修羅場にならないんだ」


 トキが、小声で言った。ヤナとリンが、顔を見合わせた。


 汽車が出るまで、トキが喋っていた。喋ることがなくなると、また最初から喋った。ヤナが止めなかった。


 カイは、笑って聞いていた。

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