01_櫃
初投稿です。
櫃
腕を掴まれた。痛いと言う間もなく、部屋の隅まで引かれていった。
櫃の蓋が開いた。
中には母の着物が畳んで入っている。冬に一度出す厚い上着が一番下で、その上に薄いものが順に重ねてある。母はそれを片手で押さえて、空いた方の手で子供の背中を押した。
入れ、とは言わなかった。押されたので入った。
膝を折って、背中を丸めて、着物の上に座った。
座ったところで、掌に何かを押しつけられた。硬くて、平たくて、冷たいものだった。見ようとしたが、その前に蓋が下りた。
「向阿秀!在不在?裡面有人,出來吧!【シァン・アスィさん、いらっしゃいますか? 居るのはわかってますよ、出てきてください】」
川上の言葉だった。ここ上海の者には通じない。
「ここから出るな」
上海の言葉で、短くそう言って、母は蓋を閉めた。
表の木戸が叩かれる。
「在裡面吧!我知道你在裡面!快點出來!【居るんだろ、中にいるのは分かっている、速く出てこい】」
説明はなかったが、説明が要るようなことでもなかった。庭が騒がしくなるのは、これが初めてではない。だいたい季節に一度か二度、この言葉を喋る決まった男たちがやってきて、母が出ていって、しばらく話をして帰っていく。そのあいだ、子供はこの櫃に入っていることになっていた。前のときも、その前のときも、母はしばらくして蓋を開け、出ておいで、と言った。そのあとで、いつもより早く寝かされた。
だから今日も、そうなるはずだった。
合わせ目から、細い光が一本だけ入ってきた。
子供はその光を見た。見るものが他になかった。光は白くて、埃が通るたびに一瞬だけ濁った。埃は上から落ちてくる。蓋の板の隙間に何十年ぶんも溜まっていたものが、閉めた拍子に少しずつ剥がれて落ちてくるのだった。
口を閉じた。吸うと咳が出る。咳が出れば音になる。
川上の言葉は母の生家のある地方の言葉である。幼い頃に母から少し習ったが、近頃は母も上海の言葉しか使わない。分かるのに、耳が慣れていなかった。
鼻で吸うと、着物の匂いがした。
樟脳の匂いと、汗の匂いと、洗い張りをしたあとの糊の匂いが、順番にやってくる。順番といっても本当は混ざっているのだが、鼻の方が勝手に一つずつ拾っていく。冬の上着の匂いが、いちばん強かった。
その匂いのせいで、路地のことを思い出した。
路地で喋っている女たちに笑って話しかけ、これは川上ではこう言うんだよ、と習った言葉を使うと、カイちゃんは小さいのに賢いねえ、と褒めてくれた。
外に出ると、路地の悪童どもが言うのだった。
お前の母ちゃん、きれいでいいなあ。
言い方が嫌だった。褒めているのか馬鹿にしているのか分からない言い方だった。分からないので、だいたい殴りかかることになった。勝ったことも負けたこともあった。
膝が痛くなってきた。
櫃は子供が入れる大きさではあったが、伸びるほどの大きさではなかった。膝を胸につけて、腕で抱えて、首を前に倒す。その形でしばらくいると、まず足首が痺れた。痺れは踵から上がってきて、脛の裏を通り、膝の裏で止まった。止まってから痛みに変わった。痛みに変わってからは、動かしたくてたまらなくなった。動かせば板が鳴る。
だから子供は、指だけを動かした。
右手には、押しつけられたものを握っていた。硬くて、平たくて、掌が汗ばむと縁が滑る。それを握り直しながら、左手の指を一本ずつ折って、また開いた。折るときは音がしないが、開くときに関節が小さく鳴る。それさえ大きく聞こえた。
自分の心臓の音が、耳の中で鳴っていた。
外の音と、心臓の音が混ざる。混ざると、外の音が遠くなる。遠くなるのが怖いので、息を止めて聞き耳を立てる。止めると、今度は心臓が速くなる。速くなると、また混ざる。
唾を飲み込んだ。喉の鳴る音が、部屋じゅうに響いたように思えた。
土間の方から、冷たい空気が入ってきていた。櫃の底の隙間を伝って、足の甲に当たる。戸が開いたままなのだった。だから庭の声も、こうして聞こえてくる。
男の声だった。
一人ではない。二人か、三人。低い声で、続けて何か言っている。上海の言葉ではない。子供が路地で聞いて育った言葉とは、音の上がり下がりからして違っている。その喋り方には覚えがあった。前に来たときも、その前も、庭からはこの調子の声がしていた。
庭は、部屋から離れている。声は届くのに、言葉は届かなかった。
男が、母の名を呼んでいた。
母の声が答えた。
短い返事だった。何と言ったのかは分からない。庭は遠く、声は低く、言葉は途中で溶けてしまう。分かったのは、母の声がひどく疲れていることだけだった。怒鳴ってはいなかった。泣いてもいなかった。争っている声ではなかった。
男が長く喋った。母が短く答えた。
また男が長く喋って、母がもっと短く答えた。
やり取りが進むごとに、母の返事は短くなっていった。
石を踏む音がした。誰かが位置を変えたのだった。庭の右の方から、左の方へ。それから、また右へ。
路地では、どの家の戸も開かなかった。
あれだけ表で人が話しているのに、誰も出てこなかった。犬も鳴かなかった。子供は、路地の家々の戸の内側に、それぞれ人が立っているところを思った。みんな黙って、こちらの音を聞いている。
足音が、庭から土間に入ってきた。
一人ではなかった。土間から板の間へ上がる音がして、それが近づいてきた。棚のものをどける音がした。何かが落ちた。ひとつ、ふたつ。
子供は膝を抱える腕に力を入れて、息を止めた。
光の線に、影が差した。
目の高さより、ずっと下だった。板の間を踏む靴が見えた。黒い布靴で、爪先が泥で汚れていた。脛には脚絆を巻いている。もう一足、その後ろに続いた。
それだけだった。それより上は、蓋に遮られて見えなかった。
足音は、まっすぐ近づいてきた。
板一枚の向こうで、止まった。
人が立っていた。息の音まで聞こえるほど近かった。
そのとき、庭から母の声がした。
初めて、高くなった声だった。路地じゅうに聞こえるような声だった。そして、この日はじめて、上海の言葉だった。
「うちのものは、大家さんの借り物です」
母は、大家の名を呼んだ。
名指しで、はっきりと、二度呼んだ。
沈黙があった。
長い沈黙だった。庭でも、部屋でも、路地でも、誰も何も言わなかった。
やがて、板の間の足音が動いた。
離れていった。土間へ下りて、庭へ出ていった。
そのあとは早かった。
男の声が二つになり、三つになった。重いものが倒れた。床を擦るような音がして、何かが割れた。土間で桶が転がった。母の声は、もう聞こえなかった。
戸が鳴った。
足音が庭を横切って、路地へ出て、遠ざかっていった。
それから、静かになった。
やんだあとの方が、長かった。
子供は待った。
数え方を知らなかったので、息の数を数えた。十まで数えて、また十まで数えた。何度目かで分からなくなり、初めからやり直した。やり直しては分からなくなった。
膝の痛みが、腰まで上がってきた。背中を丸めているせいだった。首も痛かった。どこも動かせないので、どこが一番痛いのかを順番に考えた。考えているうちに、また分からなくなった。
母が戻ってくると思っていた。いつもそうだったからだ。話が済めば男たちは帰り、母が蓋を開けて、出ておいで、と言う。それが今日のうちなのか、もう少し先なのかは分からなかったが、そうなるものだと思っていた。だから待った。前のときも待ったのだし、待てば開いたのだ。
ずいぶん長いあいだ、待った。
声は、いきなりした。
足音は近づいてこなかった。庭を横切る音も、土間を踏む音もなかった。戸のところで、いきなり声がした。
「……ショウさん」
子供の知っている声だった。毎月、家賃を取りに来る男だ。痩せて、腰が低い。色の褪せた長衫を着て、いつも瓜皮帽を手に持って揉んでいる。半分お辞儀をしたような立ち方が癖になっていた。
子供は、蓋を押した。押すつもりはなかったが、手が動いていた。指一本ぶんだけ、蓋が浮いた。
光の線が太くなって、部屋が見えた。
大家は、部屋の真ん中にしゃがんでいた。倒れた椅子と、割れた碗と、竈の火を、順に見ていた。それから、櫃の方を見た。
目が合った。
大家は口を開けた。
何か言おうとしたように見えた。言わなかった。
顔から色が引いていくのが、子供にも分かった。
大家は膝に手をついて立ち上がり、後ろ向きに一歩下がって、敷居につまずきかけて、それから外へ出ていった。
走る音がした。路地を、右へ。だんだん遠くなって、聞こえなくなった。
子供は蓋を持ち上げた。
立てなかった。
膝が伸びなかった。伸ばそうとすると、痺れが痛みに変わって、声が出そうになった。櫃の縁を掴んで、体を横に倒すようにして、床に転がり出た。
しばらく、そのままでいた。
天井を見ながら、足をゆっくり伸ばした。膝の裏がつった。腰が固まっていて、まっすぐにならなかった。足の裏が痺れていて、床を踏んでいる感じがしなかった。
四つん這いになって、櫃に掴まって、それから立った。
部屋は明るかった。まだ昼だった。
子供は蓋の合わせ目を見た。
光の線は、入ったときと、ほとんど同じところにあった。
棚のものが落ちていた。碗が二つ割れて、破片が散っていた。父の椅子が倒れていた。土間の隅まで湯呑みが転がっていて、まだ少しだけ揺れていた。
竈のそばの棚は、倒れていなかった。
母がいつも使っている鏡が、そこに置いてあった。朝、髪を結うときに見るものである。子供も毎日見ていた。手のひらより少し大きくて、面が白く、よく映る。
そのままそこにあった。
箪笥の抽斗が、一つだけ開いていた。
いちばん下である。
竈の上では、鍋が湯気を立てていた。
湯気は真っ直ぐに上がって、途中で曲がって消えていた。火はまだ生きていた。
倒れた物と、立ったままの物とが、半分ずつあった。
誰もいなかった。
子供は湯呑みが止まるまで見ていた。
止まってから、右手を開いた。
小さな銅鏡だった。
母が箪笥の奥にしまっていたもので、子供は二度か三度しか見たことがない。掌に収まる大きさで、縁が厚く、面は曇っていて、顔は映らなかった。
銅の鏡は、放っておけば曇る。
表が濁って、白い粉を吹いたようになり、しまいには何も映さなくなる。だから、使うものは磨かなければならない。錫と水銀を練ったものを塗って、砥いで、拭き上げる。そうすると面が白く戻って、また顔が映るようになる。
曇っていても、構わないのだった。
あれは使うものではない。持っているものである。持っているものは、映らなくても、それが何であるかは変わらない。
裏を返した。
龍と虎が、向かい合って鋳出してあった。
どちらも古びて、輪郭が浅くなっていた。爪も牙も、目を近づけないと分からなかった。その周りをぐるりと、字の帯が囲んでいた。
読めなかった。
子供は字を知らなかった。
日が傾いてから、足音がした。
今度は、一人ではなかった。
戸が開いて、男たちが入ってきた。桶を提げた者、雑巾を抱えた者、ムシロを担いだ者。提灯を持った者もいた。紙に白い龍が描いてあった。まだ暗くはなかったが、火は入っていた。
誰も子供を見なかった。一人が肩を掴んで、壁際まで押していって、座らせた。
「そこにおれ」
上海の言葉だった。
男たちは働いた。若い者が多く、短い上着に股引で、袖をまくっている。腕に彫りかけの墨が見える者もいた。
「そっち持て」
「足元」
「これ割れとる。数えとけ」
「幾つだ」
「碗が二つ。皿は無事だ」
手際がよく、そして必要以上に丁寧だった。板間を二度拭き、破片を小さいものまで拾って数え、倒れた椅子を起こして埃を払い、それから外へ運び出した。起こしてから運び出すのだ、と子供は思った。そうやって家の中身が順番に外へ出ていき、箪笥が出て、鍋が出て、母の櫃も中の着物ごと担ぎ出された。子供は、さっきまで入っていた箱が運び出されるのを見ていた。荷がどこへ行くのかは、誰も言わなかった。
腰が痛かったので、座り直した。座り直しても、痛いところは動かなかった。
大家が戻ってきた。というより、連れて来られた。戸口のところで、年嵩の男と向かい合っている。その男は、他の連中がカシラと呼んでいた。綿入れを着て、声が低い。眉が途中で切れて、そこだけ毛が生えていない。左手は指が二本、先がなかった。破片を数えるときに使っていたのは、その手だった。
大家は帽子を揉みながら喋っていた。庭にいたのだと言い、三人だったと言い、身なりのことを言い、それから、いつ出ていったかを言った。
子供のいる場所からは、半分ほどしか聞こえなかった。
「……ものには、手をつけておりません。一つも」
カシラは黙って聞いていた。
「そのように申されまして、それで、あの、手前の名を……」
そこから先は、声が低くなって聞こえなくなった。
そのあいだも運び出しは続いていた。顎から首にかけて引き攣れのある男が——笑うと片側が動かない男で、若い者はホーのアニキと呼んでいた——箪笥の角を持ち上げながら、誰にともなく言った。
「連れて行かれたか」
誰も答えなかった。しばらくしてから、別の一人が言った。
「アニキのだろう」
「蒋のアニキか」
「他に誰がおる」
箪笥の脚が敷居に当たって、大きな音がした。
「ホーのアニキ、足元」
若い者がそう言い、それきりその話は途切れた。
しばらくして、ホーがまた口を開いた。
「……肩代わりしときゃあ、よかったな」
「よせ」
カシラの声だった。戸口から、振り向きもせずに言った。
ホーは黙った。
黙ったが、長くはもたなかった。桶を置く音が乱暴だったので、カシラがまた短く怒鳴った。怒鳴られた方は言い返さなかった。黙って拭いていたが、そのうち、誰に言うでもなく言った。
「そりゃあ、あの女ならさぞかし」
「こら、ホーの兄弟、やめとけ」
カシラが遮った。
「子どもの前だぞ」
ホーは口を閉じた。
子供は、その先を聞かなかった。
拭き掃除の男が、床の一点をいつまでも擦っていた。もう何も付いていなかった。
男の一人が、通りすがりに子供の頭に手を置いた。
撫でるというより、そこにあるものを確かめる手つきだった。後ろに長く垂らした辮(べん——頭の半分を剃り上げ、残りの髪を後ろで三つ編みにして垂らす髪型)を軽く握って、すぐに離した。
細かった。
子供は、銅鏡を懐に入れた。
入れてから、上から腹を押さえた。押さえたまま、動かなかった。運び出されていく物を数えようとして、途中でやめた。数え方を知らなかった。
家が空になった。
拭き終わった床に、何も載っていなかった。竈の火は落としてあった。男たちは荷を路地に出し終えて、手持ち無沙汰になり、それから戸口の外に並んだ。
誰かが小声で言った。
「オヤッサンが来られる」
若い一人が、壁際をちらりと見た。
子供と目が合って、すぐに逸らした。
カシラが戸口に立った。
外に向かって、大きな声を出した。路地じゅうに聞こえる声だった。
「お騒がせをいたしました! 手前、白龍組の者にございます」
一度切って、路地の左右を見た。それからまた声を張った。
「この家の中を荒らしましたのは、手前どもではございません。決して、手前どもではございません。家財は一切、当方でお預かりいたします」
もう一度切った。
「あとの始末は、白龍組が引き受けます。以後、この路地に御迷惑はおかけいたしません。何卒、よろしくお願い申し上げます」
そう言って、一度、深く頭を下げた。
路地の戸は、一つも開かなかった。
開かないまま、全員が聞いていた。
その男は、片付けが終わってから来た。
足音は静かだった。それなのに、外の男たちの気配が一斉に変わった。喋り声がやんだ。背筋が伸びた。提灯が持ち上げられて、戸口が明るくなった。
入ってきたのは、年寄りだった。
絹の長衫を着ていた。くるぶしまで届く長い裾を引きずることなく、土間には降りなかった。履物が汚れていなかった。辮には白いものが混じっていた。
男は、空になった部屋を一度だけ見渡した。
それから、大家の方を向いて、一言だけ言った。
何と言ったのかは、子供には聞こえなかった。
大家は、帽子を胸に当てて、深く頭を下げた。二度下げた。顔には、ほっとした色が浮かんでいた。
男は頷いた。それで済んだ。
カシラが長く喋ってようやく片付いた話が、一言で終わった。
それから、その男は壁際に来た。
しゃがんだ。
子供の顔をしばらく見た。
提灯の火が近くに来たので、顔がよく見えた。爪が長く、きれいに整えてあった。皮の柔らかそうな手だった。一日じゅう働いていた男たちの手とは、まるで違っていた。
それなのに、指の関節がどれも節くれ立っていた。薬指は、最後まで伸びていなかった。手の甲に、白い縫い跡があった。
首を回すときに、体ごと回した。耳の縁が、片方だけ潰れていた。
「おまえ、蒋か」
子供は首を縦に振った。
「カイです」




