05.だって貴方は優しいから
王国フロリアの東側に位置する同盟国「夜の大国・ノクス」
ノクスはフロリアと同じく、神が創造した国であり、名の由来は夜の神からとったと歴史に示されている。
そんなノクスには、有名な物語があった。
それは昔からよくある勇者の話。だが、普通の勇者の話ではない。その勇者は、見た目は普通の青年で、聖剣に選ばれた存在であり、耳が聞こえなかったのだ。
産まれた時から耳が聞こえず、周囲の人々から虐げられながら生きていた。けれど、勇者は決して人を責めず、否定せず、見捨てなかった。そんな勇者の生き様に心を打たれた夜の神が、代わりに目を与えた。どれだけ暗い夜の中でも、悪天候の中でも、どんな状況でも、あらゆるものを見通すことのできる目だった。勇者はその力を使い、生涯人を救い続けた。
それが、耳が聞こえない勇者「イリオス」の物語。
幼いリシアが本という存在に救われるきっかけになった物語だ。
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名を捨てた。それがどういう事なのか、リシアには完全に理解することが出来なかった。
リシアは名というものを、親から生涯で一度しか貰うことのできない贈り物だと思っている節がある。実際、生まれてすぐ母を亡くしたリシアは、“リシア”という名前以外母からは何も貰っていないし、父親とは名を呼ばれた記憶すら曖昧なほど、繋がりというものがない。兄や姉から贈り物を貰ったことはあるけれど、親からは名前以外何も貰っていない。だから、リシアは自分の名前が好きだったし、何よりも大切だった。
だから、青年に聞きたかった。
どうして名を捨てたのか。けれど、リシアはそんなことを聞いてしまうほど、冷たく、無責任な人間ではない。
疑問を静かに飲み込んで、何も言わず、青年が目を向ける封印の森の入り口方向に足を進める。ここまで長かったけれど、あと少しすればこの森を抜けてアルニカに着くことが出来るだろう。川で傷口を洗い血を流せば、普通に歩いていても誰かの目に着くこともないはずだ。靴はローブの端を千切って足に巻いてしまえばどうにかなるだろう。
思い残すことはない。早く向かわないとリシアが逃げたことに気付いた城の追手が来てしまうかもしれない。
そう、頭では分かっている。分かっているのだけど、リシアは振り返って、泣き出すように、か細い声で青年に聞いてしまった。
「どうして、そんなに悲しそうな顔をするんですか」
青年の、息を飲む声がリシアの耳によく届いた。
「なぜ、そんなことを聞く」
質問に質問で返してくる、青年の相変わらずの性格に、リシアは答えた。
「だって、貴方は優しいから」
リシアの言葉に、嘘なんて込められていなかった。
リシアは、出会った時からずっと青年を優しい人だと思っていた。森の仕組みを教えてくれたこと、自傷行為にも等しいリシアの行動を止めてくれたこと、川の場所を教えてくれたこと。青年自身がどうとも思っていないであろうことさえも、リシアにとっては初めての優しさだった。城の人間にも、優しい人はいた。けれど、それはリシアが王女であるからで、裏では自分を何と呼んでいるのか、リシアも知っていた。フェリエは裏表もなくリシアに優しかったが、立場という壁が何時だってその優しさを邪魔していた。
「優しい貴方が、そんなにも悲しそうな顔をするなんて、私は…わっ!」
青年がリシアの腕を乱暴に掴んで、力任せにそのまま森の出口に向かって足早に進みだす。乱暴な足取りだからリシアの足は何度も宙を浮き、掴まれた腕は抜けてしまうのではないかと言いたくなるほどの激痛が走る。
「痛い」も「ごめんなさい」すらも言わせない青年の足取りは、動揺に包まれている。
当の本人は何も言わないけれど、リシアから見える後ろ姿はそれを物語っている。
青年が進む度に、木々の数が少なくなっていき、太陽が顔を出し始める。
出口が完全に見え始めた時、青年はリシアの腕を離し、小さな背中を突き飛ばした。
突き飛ばされた勢いのまま森から一歩足を踏み出した瞬間、リシアの視界がぐわんと歪み、世界が反転した。突然のことに、足取りが先程よりも重くなり、体が前後に揺れる。胃の奥底から何かが湧き出ようとするのを感じる。喉奥から熱いものが這い出てきて、それを抑えようと口を必死に抑える。抑えるのに必死で、歩くことなんてままならない。また顔から受け身もとれずに転びそうになる。転んだ瞬間、吐いてしまわないように目をぎゅっと瞑って、これから来るであろう痛みにリシアは備えた。
けれど、体が大きく前に倒れた瞬間、誰かがリシアのロープの首元を掴み、転ぶことを阻止してくれた。
誰かなんて、この場には一人しかいない。
恐る恐る、リシアは後ろを振り向く。
そこには、驚愕の表情を顔に浮かべる青年が居た。
————その腕と足は確かに、森から出ていた。




