第57話:帰還の途 — 聖者のお忍び —【前編】
東欧の空を焼き尽くさんばかりに赤く染めていた夕日は、いまや重厚な夜の帳にその座を譲ろうとしていた。
標高二千メートルの断崖にそびえ立っていた鋼鉄の要塞『ボイド・スローン』。
かつて世界を震撼させたその古城は、いまや見るも無惨な瓦礫の山へと成り果てていた。
国際警察のヘリコプターが巻き起こす凄まじいダウンウォッシュの中、一人の男が連行されていた。
ドクター・ヴェノンだ。
数時間前まで「世界の理」を書き換えようとしていた狂気の天才は、いまや憑き物が落ちたような、あるいは深淵を覗き込みすぎて逆に悟りを開いた隠者のような、妙にスッキリとした顔をしていた。
彼はタラップを登る直前、足を止め振り返った。
その視線の先には、煤まみれになりながらも、どこか情けない顔で立ち尽くす青年、神月木セイマがいた。
「……神月木セイマ。君という名の『究極の不条理』に触れたことは、私の科学者人生における最大の収穫であり、そして……最大の敗北だったよ」
ヴェノンは、拘束された両手をいやがることもなく、深々と貴族的な優雅さで一礼した。それに対しセイマは引きつった笑みを浮かべ、おずおずと手を振り返した。
「あ、はい……ええと、お疲れ様でした。あの、警察のご飯……意外と美味しいらしいですよ。温かいうちに食べられるといいですね……」
「……フ。最後まで君らしい。さらばだ、不殺の聖者よ」
噛み合っているようで絶望的にズレた最後の会話を終え、ヴェノンを乗せたヘリは大空へと消えていった。
「……終わった。本当に、終わったんだ……」
セイマはその場にへたり込み、肺にあるすべての空気を吐き出すような深い溜息をついた。
だが、安息の時間は一秒たりとも与えられない。
「マスター! 感傷に浸る時間は0.8秒で十分です。直ちに脱出を! この城の構造強度はマイナス域に突入。あと120秒で、この城まるごと物理的な『お片付け』が始まります!」
銀髪を夜風にたなびかせ、リナが叫ぶ。
彼女が指差す先には、いつの間にか手配されていた純白のプライベートジェット――『アツィルト・ウィング Mk-II』が、神々しいライトを放ちながら待機していた。
「なっ、また新しく用意したの!? リナ、あれ一機でいくらすると思って……!」
「ご安心を、マスター。先ほど、ヴェノンの隠し口座から『精神的苦痛への慰謝料』および『先代機の弁償代』として、三千億円ほどスマートに回収(※強奪)しておきました。これでマスターの精神的借金は完済。むしろお釣りが来るレベルです!」
「ヴェノンさんが、超大金持ちで本当に助かったぁぁぁ! ありがとうございます、ヴェノンさん!(……まあ、破壊したのもヴェノンさんなんだけどね……)」
セイマは複雑な心境のままルッツに抱え上げられ、機内へと担ぎ込まれた。
高度一万メートル。
『アツィルト・ウィング Mk-II』の機内も、空飛ぶ超高級ホテルのようだった。
ジャンボジェット機並みの広い室内空間、最高級のカシミアが張られたシート、そしてセイマ専用に用意されたジャグジーバス……。
セイマはふかふかのシートに深く腰掛け、膝の上で丸くなるコテンを撫でながら、ようやく今日という長い一日の終わりを実感し始めていた。
「……ふぅ。やっと、帰れるんだ……」
独り言のように呟いた言葉。
だが、それは機内にいた「過剰すぎる信奉者たち」の耳を瞬時に直立させた。
「マスター。今回の事象により、貴方の因果干渉係数は従来の200%増を記録しました。これはもはや人間一人が抱えられる量を超えています。
帰還後は、直ちに私の研究室で二十四時間の密着メンテナンスが必要です。もちろん、睡眠中も脳波の同期を行います」
リナの瞳には、科学的な好奇心を超えた、もはや宗教的な執着の色が混じっていた。
「師匠! ヴェノンを改心させた伝説の技『ハグ』……あれこそ古今東西の武術が目指した最終奥義『無敵(敵がいなくなること)』の体現! 私は感動に震えております!
帰国後は、まず自分自身を全力で抱きしめる修行から始め、師の境地に一歩でも近づく所存ですッ!」
「……ルッツ、それただのセルフハグだから。怖いから。……みんな、お願いだから少し静かにして。寝かせて……」
セイマは限界を迎え、弱々しく瞼を閉じようとした――次の瞬間。
七極のリーダー・セナフィアが、音もなく、しかし爆発的な速さで動いた。
「静粛に。聖者様が『静寂を望む』と仰せだ」
彼女の冷徹な一喝が機内に響く。
「ミカ、機外のエンジン音を周波数干渉で完全相殺しろ。ルイ、気流の乱れを予測し、その肉体で機体を安定させろ。……聖者様の眠りを妨げる大気は、私がこの刃で斬る」
「物理的に無理なこと言わないで! 怖いから! 逆に目が冴えちゃうから止めてぇぇ!!」
セイマの魂の叫びは、高度一万メートルの空へと虚しく吸い込まれていった。
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