14. フロントでキスをしたら
「は?」
薄暗い照明の下、やけに整った男の顔がじわじわと赤く染まっていくのが分かった。こぼれ落ちそうなほど目が見開かれる。
「もしかして冗談だった?」
予防線を張ったわけじゃない。純粋に、あれがただの冗談だとしたらという可能性を忘れていた。
静かに俯いた三沖は、ゆっくり首を横に振った。何か考えるように黒目を揺らしたあと、繫いだ手を引いた。
「こっち来て」
フロントの扉を開けた彼に、ぐいっと強い力で部屋の中に引き込まれた。すぐ横にある壁に体を押し付けられる。
俺より少しだけ低い位置にある唇から、小さな赤い舌が覗いた。表面を艷やかに濡らしてまた戻っていく。
気持ち悪さなんか一つもない。口に溜まった唾液を嚥下すると、三沖が囁いた。
「キスしてみろよ」
試すような言い方だった。ゲイじゃないお前が、童貞のお前が、そんなことできるのかと。
付き合ってもないのにキスするのはどうかと思うが、筆下ろしはそれ以上のことをする。それに相手がしろと言っているのだから、気にしないですればいいじゃないか。
一瞬考えたせいで、三沖の口角がわずかに下がった。やっぱりできないんだと呆れられた気がした。
彼のうなじを掴んで固定する。顔を傾けて近づけた時、ぞわっと全身に鳥肌が立った。
こんな距離で顔を見たのは初めてだ。男にしては肌が滑らかで、大きな黒目は丸くつるつるに潤んでいて──、唇が重なったあとも瞼を閉じることはできなかった。
「……っ」
たかが触れただけなのに、息切れを起こしたみたいに苦しくなった。くっと喉の奥が鳴る。頬が火に打たれて熱い。
唇が少し離れた。これで終わるには、あまりにも勿体無い。うなじに触れた指に力が籠もる。今度はもっと深く、粘膜まで。
ディープキスなんてしたことがなかった。やり方もわからないまま、蕩けそうな舌を絡め取る。まるで海の底に落ちていくような気分だった。
「ん」
鼻にかかったような甘い吐息が聞こえた。きっと、三沖のものだ。普段の態度から想像もつかない反応に、腹の底から高揚感が沸き上がってくる。もっといろんな一面を見たい。俺が引き出したい。
──チリチリチリチリチリ……。
入館を知らせるベルが鳴り響いている。
もうやめなきゃ、いつまでキスするんだ。そう頭では分かっていてもやめられない。
「ふ、ちょ……と、ん」
三沖の手が俺の胸を押した。力はさほど入っていない。角度を変えて再び唇に喰らいつくと、困惑の色が滲んだ瞳と目が合った。
混ざってどちらのものか分からなくなった唾液を彼が飲み込んだ瞬間、ぐらっと目眩がした。
無意識のうちに服の隙間から差し込んだ手が、平らな腹に辿り着く。触り心地の良い肌の下に、男特有の硬い腹筋が隠れている。
「っ、飛間」
三沖の手に動きを止められた。制止する声は甘ったるく、また表情も動作に反するものだった。
「はあ……」
「客、きた」
腹に触れた手はそのままに、俺は項垂れるようにして額を三沖の肩口に押しつけた。
──もっと。もっとこいつに触れたい。
昂った下半身を悟られないように体を離すのは大変だった。モニターで、今来たばかりの客の車があることを確認し、扉を開ける。
「……車番控えてくる」
三沖は何も言わなかった。
仕事中の職場でイケナイことをしてしまったという罪悪感に苛まれつつ、駐車場に出る。冷えた空気が体を包み込んだ。のぼせきっていた頭がようやく落ち着きを取り戻していく。
あのままキスしていたら、止められなかったら。そんなたらればの妄想が膨らむ。
筆下ろししてくれという頼みを三沖は承諾した。きっとあのキスは試されただけだ。俺の真意を確かめるため。
戻ったら三沖になんて言えばいいのだろう。続きはいつにするとか、そういう冷めることは口にしたくない。ただ、無かったことにされるのは御免だ。
言葉を探しながらフロントに戻ると、ちょうどオーダーの紙を持って出て行こうとする三沖に会った。
「あ……」
「あ、飛間」
「オーダー行こうか」
「いい。てかこのあと予定あいてる?」
パソコンの画面で空き部屋を見た三沖が、こちらに視線をよこした。
「ああ……、空いてるけど」
「じゃあ退勤したら先に部屋行ってて。俺も終わったら行くから」
「──え!?」
「この部屋でいい? それとも別のラブホ行く」
どうする、と目の前の男が首を傾げる。
頭を強く殴られた時みたいに思考が止まった。何を聞かれたのか理解できず、言われた言葉を反芻する。が、投げられた選択肢のどちらを選んでも三沖と性行為をするしかないことに気づき、思わず天を仰いだ。
「なあ、どっち」
「……その部屋で。俺が予約する」
「おっけー、よろ」
三沖は平然とした態度で部屋を出て行った。動揺しまくっている俺とはまるで違う。やはり、そういうことに慣れているからだろうか。
ため息を吐きながらノートを開いた。さっきスマホにメモした車番とメーカーを書き込む。震える手で書いたせいで、いつもより下手な字だった。




