2-1二日目午前、点呼広場にて
腹に打ち込んだ手ごたえは浅かった。
腰を引いた相手がこちらの胸倉を引っつかむ。どうやら間合いを取りなおす気はないらしい。
頭突きをかけようと迫る額を掌底打ちでそらし、ヴィルヘルミナはまた無防備な腹部へ蹴りを叩きこんだ。
襟を放しそびれてかなりまともに入ったようだが――いや、あるいはそれも覚悟の上だったのだろう。
苦悶のうちにかすかな笑みが浮かんだと思った矢先、膝裏から蹴り脚を抱きあげられる。意図を悟ったときには仕掛けられていた。
「よっこら、っとぉ!!」
深い踏みこみ。
鷲掴みにされた首元とホールドされた左脚が、一気に背後へと押し出された。
支えを半分失った体はたやすく傾く。ヴィルヘルミナに踏みとどまる術はない。
半ば押し倒すような影がゆっくりと視界を覆い、それに同期して綻んでいく表情には、すでに成功を確信した色があった。
このまま地面に倒れこみ、マウントを取って優位を確保するつもりなのだろう。安直といえば安直だが、得られるアドバンテージは圧倒的だ。
つまり、ヴィルヘルミナにとっては危機的状況。
「中々だが、あと一歩ほしいな」
その言葉を、果たしてヴィルヘルミナは頭に浮かべたのかあるいは口に出していたのか。
それも判別できないほどの間隙の一瞬、しなやかに腕をひらめかせ、目の前の首筋めがけて打ちこんでいた。
手刀が斬りつけたのは喉仏からは少しずれた一点、頸部のやや側面寄り。しかし重力の助けもあり、狙いの割には深い場所までめりこんだ。
かっと息の詰まる感覚が伝わる。
腕を引いたと同時に土煙の舞う地面がヴィルヘルミナを迎え、その上に倒れこんだポニーテールの女は、マウントなど取る余裕もなくげほげほ荒く咳きこんでいた。
「勝負ありだ。文句はないな」
女はヴィルヘルミナの胸の中で喉を押さえ、しばらく言葉もなく身悶えしていた。やりすぎたかと軽く背をさすってみせる。
そしてようやく顔をあげた時には、生理的なものなのか小さく涙を浮かべ、それでも茶化すような笑みが復活していた。
「っづ〜〜〜……容赦ないすねぶんたいちょ、あたし息止まるかと思ったんですけど」
「悪いなマルガ、手加減できなかった。大丈夫か」
謝罪はまぎれもない本音だ。
急所そのものからはやや外したとはいえ、下手に狙えば危険な部位だ。手刀打ちなどできればしたくない。
しかし「平気でーす」とかすかにしゃがれた声で起きあがったこの部下――マルガ・アイヒホルンはいつも真剣に立ち向かってくる。ならばこちらも本気を返すのが礼儀だろう。
宿舎の脇に小さく設けられた点呼広場の地面は固い。
ヴィルヘルミナも身体を起こし、自然、ふたりで向かいあって座る姿勢になった。
「相変わらずさすがだったよ。どんな攻めに出ても次の一手を誘って仕掛けてくる。おまけに対応も早い。本気でやらなければ勝てないな」
「どーも。それで、敗因は」
「相手の出方に思考が偏りすぎだ。もっと自分の状況にも気を払え。あの手刀、お前にも見えていたろう」
気まずげに目を逸らすあたり自覚はあるらしい。
マルガは分隊でも特に肉弾戦には慣れている。捉えきれなかったわけがないのだ。
「反応できなかったのは身を投げ出す格好になっていたからだ。私は自由な両手が使えた。こちらを追いこんだからと油断するな」
「あーもう、やっぱまだまだじゃないすか」
大の字になって地面に横たわるマルガ。午前の陽射しが健康的に焼けた肌で跳ねかえる。
フォローというわけでもないが、ここまで分かりやすい不貞腐れを見ると、黙っているのも性に合わなかった。
「長期戦になるとバランスが悪くなるだけだ。すぐにカタをつけられる相手なら気にならないだろう」
「ぶんたいちょ相手に勝てなきゃ意味ないんですよねえ……ねえねえぶんたいちょー、せっかくだしもっかい、」
「却下。お前のもう一回は一回じゃ済まない」
ここは甘やかさない。「ちぇー」と唇をとがらせたマルガは難儀そうに身を起こし、髪についた砂を払いながら立ち上がる。
なだらかな面長の顔立ちと切れ長の柳眉は凛と涼しげなのだが、本人の振る舞いがいささか粗暴なためその印象はすぐにかき消されてしまう。非常にもったいない。
ヴィルヘルミナも腰を上げる。これでも暇ではない。マルガがどうしてもとしつこいから応じていただけであって、やること自体は山積みだった。
はあとため息をつきながらマルガに続き、宿舎のほうへ足を向ける。
「それにしても、なぜ今なんだ。いつもなら勤務後や休日に押しかけてくるだろう。というか、待機中や休憩時間に一戦交えるのは忙しないから嫌いだと言ってなかったか」
「いやまあ、そうなんですけどね」
んー、と背伸びをしながら先を歩くマルガ。
表情は見えない。しかしその口調は常よりワントーンは静かなもので、彼女なりに思うところはあるらしかった。
「午後からアレじゃないすか、ケストナー夫人どのの警備。いつまで続くか分からないっていうし。だったらゆっくりできるうち、闘りたいこと闘ったもん勝ちかなってね」
その名前を聞いて、思わずぴくりと眉が動いたのを自覚した。
ケストナー夫人――シャルロッテ・ケストナー。
ヴィルヘルミナの友にして光。そして今回、ヴィルヘルミナ属する特別措置小隊が警護する保護対象でもあった。
昨日の襲撃事件も記憶に新しい。犯人は無事捕まえたがほかに仲間がいないとも限らないため、警護はしばらく続けられることが決まっていた。背後関係の次第では月単位になる可能性もある。
その間、シャルロッテは身柄を狙われ続けているのだ。
今更ながらに責任感なのか不安なのか、つまりは焦燥らしきものが噴き出してくる。
それを悟られないよう、こつんとマルガの頭を軽く小突いた。
「あたっ」
「待機時間がなんのためにあるか分かっているのか」
「分かってますよ、心身の回復と諸々の準備でしょ? 心身ってことは心も込みなわけですし、これも準備運動みたいなものなんで。いやーあ、ぶんたいちょとの手合わせは心が晴れるなあー、あともう一回できれば準備完了かな」
「調子にのるな、馬鹿者」
とは言うのだが、内心としてはそう苦々しいものでもない。マルガの軽口は軍人として好ましいものではないとはいえ、話しているとこちらの気分まで軽くなる。
陽気な気質を表すように揺れるポニーテールをつい目で追っていると、その向こう側、宿舎の角から見慣れた人影が飛び出してくるのが見えた。
「いた、ねーさまー!」
ふたりの姿を認め、肩口でまとめた髪を忙しなく跳ねさせたのはエーリカだ。こちらもこちらで髪に気性が出ている。
本人としては一生懸命であろう足取りで、ようやっとふたりの前に着く。
ヴィルヘルミナを映す瞳は敬意と信頼に輝いていたのだが、野戦服に軽く土をつけたマルガを見ると、小さな眉を気難しく顰めてみせた。
「なんだマルガ、またねーさまに迷惑をかけていたのか」
「迷惑なんて心外すねエーリカ伍長。これは切磋琢磨ってヤツですよ、軍人誰しもこうあるべき。あ、なんなら伍長もあたしとやります?」
「謹んで御免こうむる。二度とお前とは手合わせしない。第一だ、ねーさまに負けっぱなしの身で切磋琢磨も何もあるものか。よく懲りないな」
「うーん、懲りる懲りないの問題じゃないんすよねえ。なんて言うかアレ、熱血? みたいな。強い相手って燃えるじゃん」
「あいにく、エーリカはお前に投げ飛ばされて指を差されて笑われてからこのかた、その手の情熱とは一切無縁であるぞ」
尊大かつ生意気な振る舞いのエーリカ。ヴィルヘルミナに対する口ぶりともまるで違い、とても分隊で一番の新顔とは思えない。
しかし別段マルガを嫌っているわけではなく、これが彼女の自然体というだけだった。
そもそも階級としては一等兵のマルガより伍長であるエーリカの方が上だ。そういう意味では、待機時間中とはいえ上官に軽口を叩くマルガの方にこそ問題があるのだが……
まあ、彼女たちなりにうまくやれているならそれでいい。
結局はその結論に落ち着き、姦しく言葉をかわすふたりの間に割りこんだ。
「どうしたエーリカ。まだ出動には早いはずだが」
「あっ、申し訳ございません。小隊長からの預かりものと、それから言伝を承ってまいりました。申し上げます」
懐から四つ折りの紙を手渡してくる。
受け取って開くと、ツェツィーリアの小慣れた署名がまず目に入った。書類の文面は簡潔だ。
「『あんまり気負いすぎるなよ。守って死ぬくらいなら守って殺すほうがマシ』とのことです」
第四分隊長ヴィルヘルミナに、現場での発砲判断の権限を一時的に委譲する――事実上の発砲全面許可だ。
その権限には見合わない伝言の軽さに、思わず肩の力が抜けるのを感じてしまった。
「……かなわないな、あのお人には」
いざという時には、身命を賭してでもシャルロッテを守る。つまりはそんな覚悟も見透かされていたらしい。
とたんに、先までの焦燥もふっと火勢が衰える。
どうやら思わぬ間にとんだ視野狭窄に陥っていたようだ。書類を懐にしまい、踵を揃える。反射的に背筋を正した部下に告げた。
「本日より我らは新たな任務に就く。場合によってはこれまでにない危機もあるだろう。
だが忘れるな。保護対象はもちろん、我ら全員五体満足で任務を終える。自分の力と仲間を信じ、あらゆる最善策を模索しろ。責は私が負ってやる。ゆえに……」
と言葉をつなげてみるのだが、そう気の利いたフレーズが出てこない。
頭で様々な美辞麗句が浮かんでは消えていく。そして残ったのはあまりに飾り気のない、しかし紛れもなくヴィルヘルミナの本心だった。
「まあ、あまり無茶はしてくれるな。するにしても無事でいろ。以上、栄光は闘争にあり!」
『栄光は闘争にあり!』
張りあげた国是にエーリカとマルガの唱和が続く。あとでほかの部下にも伝えておかねばならない。何かと無茶をする連中が多いから。
もう昼にさしかかろうとしている。太陽は雲ひとつない空に高く昇り、眩しくヴィルヘルミナたちを照らしていた。
シャルロッテもこの陽を浴びているのだろうか。
これからは、同じ空の下にいる彼女を想うだけではない――その事実に喜びを覚えている自分に気づき、ヴィルヘルミナはひとり、小さく苦笑をもらした。




