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その仇花で撃ちぬいて  作者: 橘こっとん
第1章―その再会に手をとって
19/84

1-18その再会に手をとって

「──久しぶりね、ミーナ」


 自室に踏み入ってきた懐かしい気配に、シャルロッテは顔を上げた。


 ドアの前に直立しているのはくすんだ緑色の軍服を身につけた女だ。いや、何も知らないままで見れば青年とさえ思ったかもしれない。すらりと伸びた背は男と肩を並べられそうなほど高く、明るい茶髪は結ぶ余地もないほど短かった。手こそ女らしく小作りだが逞しく骨ばっていて、長年積み重ねてきた鍛錬を思わせる。


 これが今のヴィルヘルミナ・シュテルンブルク。

 かつてのシャルロッテが憧れていた姿で、それとは真逆のものになってしまった自分の前に立っている。


(覚悟は、決めたつもりだったけど……)


 それでも、改めて彼女の前にこんな現状を晒すことを思えばただただ情けない。ソファに座してうつむかないよう堪えるのがやっとだ。

 一方のヴィルヘルミナは朗らかに相好を崩しながらも精悍さを保ち、芯の通った輝きを放っている。


「そうだな、久しぶりだ。もう10年近くにもなるか、健勝そうで何よりだよ。髪も、ずいぶん伸びた」


 言われて、肩にこぼれていたひと房を摘み上げる。腰近くまである金髪は色々と邪魔ではあったが、もうとっくに慣れていた。半ば願掛けじみていたところもある。


「伸ばした方が似合うって言ったのはミーナでしょう? あなたがいなくなってから伸ばしてたのよ、知らなかった?」

「知ってたさ。君の映画は全作見たし、最近の報道でも顔が売れている。だからこそ目撃情報も多くて助かったわけだが」


 その言葉には苦い微笑みを向けるほかない。彼女が女優としてのシャルロッテを見届けてくれていた無常の喜びとともに――職業柄当然とはいえ――アルバートの妻としての自分を知られていたことへの胸を掻き毟るような苦痛。

 立ったままのヴィルヘルミナへソファを勧めながらの謝罪も、自分らしくもなくどこかひび割れていた。


「さっきは迷惑をかけたわね。結局あなたたちを巻きこんで……本当にごめんなさい。その頬も」


 言われて、ヴィルヘルミナが自らの頬に触れる。殴られでもしたのだろう、ひどく痛々しく腫れあがり、しばらくは消えないであろう跡になっている。


「犯人を追いかけたときにやられたんでしょう? 顔にこんな、ひどい怪我……」

「ああ、いや、これは違う。別の件だ、気にしないでくれ。君に大事なくて幸いだ。

 それよりなぜ、あんなことを?」


 勧められたソファの隣まで歩きながらも、けして座そうとはしないヴィルヘルミナ。それが何かの意思表示ではないのかと今更ながらに気がつく。そして恐れていた問いを発されてしまえば、もう腹を括るしかなかった。


「……理由としては色々あるわ。だけど一番大きなものを挙げるとするなら、あなたに会いたくなかったの」


 ヴィルヘルミナの顔にはじめて戸惑いが走った。不意打ちで頭を殴られたような、傷ついたような表情。

 失言だった……そう直感して慌てて訂正する。こんな自分へそれでも会いたがってくれていたことに、どこか浅ましい喜びを覚えながら。


「誤解しないで。あなたを嫌いになったわけじゃない――そんなことありえないわ」

「なら、なぜ」

「ただ、私が今の私に耐えられなくなっただけ。あの約束、覚えてる?」


 それは甘く優しく、心の真ん中できらきら光り輝く思い出。9年前、別の道を選んだふたりが手を合わせた最後の日。



『約束よ。私たちふたり、次に逢ったときにはね、お互いに誇れる自分になっているって』

『この国で一緒に戦って、一緒に幸せになるの――』



「今の私は、あなたと逢うのに相応しくない。そう思ったの」


 今では眩しさの分だけ重く、尊さの分だけ痛い。


「だってそうでしょう? あなたはそうやって、自分の足でしっかり立って生きている。なのに私は女優を辞めて、結婚してのうのうと、こんな――

 あまつさえ自分の身を守るのに、ミーナ、あなたたちまで巻きこんで。これでどうやってあなたに誇れというの」


 こんな姿を、彼女にだけは見られたくなかった。

 いや、アルバートの妻としての自分が知られている自覚はとうからあった。今の自分がヴィルヘルミナからどう思われているかも怖かったし、あの誓いが守られることはないのだろうと半ば諦めていた。


 だがシャルロッテが何より恐怖していたのは、約束を破ってしまうこの再会の瞬間そのものだ。


(それは――いいえ、それだけは)


 それだけは嫌だった。永遠に果たされることない約束でも、その時が訪れない限りは永遠に続かせることができる。最後に残ったヴィルヘルミナとの絆を、シャルロッテは永劫失いたくなかった。

 しかし逢ってしまえば、こんな自分を彼女に晒してしまえば、それさえもう。


「だからいっそ、もう逃げてしまえば……って、そう思ったのよ。勝手にも程があるわね」


 すべてをかなぐり捨てて逃げてしまえばまた新たな道が拓けるかもしれない。今度こそ彼女に誇れるようになれるかもしれない。この土壇場でそんな希望が捨てきれなかったこともある。

 けれどもう遅すぎた。結局騒動を起こして無駄な手間をかけただけだ。


 とうとう視線が膝まで逃げ、彼女を直視できなくなる。決別は絞り出したも同然だった。


「ごめんなさい。もう私のことは忘れて。約束も守れずに、あなたに迷惑をかけて怪我までさせて失望させた。だから――」

「シャルロッテ」


 名を呼ばれて全身が竦んだ。

 険しい声音。打ち据えられて思考が止まる。ただ、もう終わってしまったのだなと、それだけは確信できていた。


 視界の外からヴィルヘルミナが詰め寄ってくる。感じる視線が突き刺さる。彼女からもたらされるすべてが礫のように痛く、続く矢継ぎ早な言葉は責めにしか聞こえなかった。


「謝らないでほしい。そんなことは聞きたくない。君の感じているなにもかも、それら総じて不要に尽きる。なぜなら……」


 次の一言で幕が下りる。

 そう覚悟を決めて、ぎゅっときつく目を閉じた。


「君は、ずっと戦ってきたじゃないか」


 その意味を、シャルロッテは一瞬汲みとることができなかった。


 顔を上げる。ヴィルヘルミナは予想していた弾劾の表情ではなく、心の底まで訴えかけてくる必死の面持ちをしていた。

 責めと思っていたのは焦りに急かされた早口で、瞳は気遣わしげながらも真摯にシャルロッテを映している。


「結婚したからといって戦いを諦めろという決まりはないし、その中で君が頑張ってきたことを怠惰だなんて言わせない。慰問、民間事業の後押し、育児や介護の支援……君がどれだけ女の立場から世を動かそうとしていたかは私が、誰もがよく知っている」


 というかむしろ、これまでずっと君が先を行っていると思っていた私の身にもなってくれ……そう、ぎこちなくも悪戯っぽく崩れた笑みは真面目な彼女にしては珍しいもので、昔もシャルロッテの前でしか見せなかった顔だった。

 変わらぬ信頼と友情の証。それを目にして、やっとシャルロッテは理解した。


(ミーナは、ずっと私を信じてくれていた)


 ほんのわずかな抵抗もひとつ残らずすくいあげてくれた。シャルロッテが男のものに成り下がっても、女優を辞めても、抗うことだけは止めてはいないと信じ続けてくれていた。

 女でもこの不条理な世界を変えられる、そのために戦っているのだと。決して屈せず、ただ、ヴィルヘルミナと同じように……


「戦いの方法が変わっただけだ。むしろ今のほうが立場としては有利だろう。なにせあのケストナー大佐のお嫁さんだ、なんだってできるさ」


 その冗談の優しさに、思わずまた顔を伏せそうになってしまった。

 じわりと視界が滲んでいく。穴だらけだった胸にあたたかい歓喜が注がれ満たされる。何年ぶりかも分からない本物の涙にどうすればいいか分からなくなって、膝の上で手を握った。


 ――私はずるい女だ。シャルロッテは思う。約束を成し遂げられなかった情けなさよりも、この子が私を信じ、そして今も見捨てずにいてくれる喜びのほうがずっと大きい。


 ヴィルヘルミナが跪く。シャルロッテの手をゆるやかに取り、両手で包みこむ。そして真っ直ぐな視線で射抜くのだ。


「今の自分を誇ってほしい。一緒に戦おう。そして幸せになろう、ロッテ」


 懐かしいその名がシャルロッテを引き戻す。9年前と少しも変わらないぬくもりが無力感も屈辱も溶かしていく。

 誇ってくれと笑ってくれたひとがいる。一緒に戦おうと言ってくれて、一緒に幸せになりたいひとがいる。それだけでシャルロッテは生きていけた。


 たとえ自分たちの姿が、在り方が、どれだけかつてのそれと違っていても。

 ヴィルヘルミナはあの日と同じように自分の手を取ってくれる。約束はまだ終わらない。


「私たちの望む、理想のために」


 そう、ふたりで叶える願いのために。


「ええ……そうね、ミーナ!」


 私はもう、二度と諦めることはない。


 とうとう流れた涙に化粧は崩れ、頬も熱さに溶け落ちそうだ。嗚咽を噛み堪える唇はさぞかしみっともないだろう。

 けれど浮かべた微笑みに、それを唯一引き出してくれる親友の存在に、シャルロッテは嘘も偽りもなく満ち足りていた。


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