1-10「乙女の名は花」②
人波にのって市場を離れる。北側の大通りも市に劣らず人があふれていて、しかしシャルロッテは知っていた。ここで少し道を外れて進めば小さな裏町に入る。日の当たる時間には無用の一角だ。
ざわつく心が足どりを急きたてる。支配するのは恐怖でもなく怯えでもない。純然たる怒り。これまで溜めこんできた鬱屈すべてが、音をあげて燃え盛っている。
国民の良妻にして賢母? 笑わせる。シャルロッテが望んだのはそれとは真逆のものだというのに。
女の使命はただふたつ――夫の家庭を守り、子を産み育てる。それ以外の道に価値などない。こんな理不尽、誰が納得するというのだろう。
少なくともシャルロッテは納得できない。愛する夫を一生をともにすることにも、腹を痛めて子を産みその成長を見守ることにも、一切合財興味がないしいっそのこと吐き気さえ催す。だから一時は逃げ出したのだ。女優という、女らしさを切り売りする代わりに誰のものにもならないことが許される存在になってまで。
男が私を搾取するなら私もあなたを搾取する。
あらゆる女を演じる代わり決して本心を見せはしない。
シャルロッテにとって、銀幕とは生き長らえるための戦場そのものだった。
こんなシャルロッテの努力をただの一手で水の泡に変えたのが、他でもないアルバートだ。
『――いつか、僕の妻になってくれないだろうか』
はじめは真摯に受け流した。女優ともなればこうした申し出は一度や二度ではない。有名な資産家の嫡子からのプロポーズともなればさすがに初体験だったが、シャルロッテにとってはそれも女優としてのマイルストーンのひとつにすぎなかった。
今にして思えば、もっと警戒しておくべきだったのだ。戦場に立ったからには油断してはならない……そのことを当時のシャルロッテは理解できていなかった。
状況が動き出したのは例の申し出から数か月も経たないうちだ。病に倒れた父の療養費がどこからともなく現れ、兄の興した会社は経営を立て直した。時を同じくしてかつて所属していた劇団は解散の危機を免れる。
そのすべての糸がシャルロッテの首を回ってアルバートの手に繋がっていることに気づいたのはある事件がきっかけで、そしてそれを契機として、シャルロッテは見えない首輪に繋がれることとなったのだ。
ずっと耐えてきた。華やかな結婚生活は茨に操られた人形劇で、睦言と賛辞は耳を犯す拷問だ。しかし最後のプライドだけは壊されないよう、仮面をつけて演じつづけて素を見せない。それだけがシャルロッテの心を保ち、アルバートへの隷属を拒む唯一の抵抗だった。
こんなささやかな抗いをこのまま一生続けるだけだと、そう思っていたのに。
(まさか、こんな思い切ったことをする気力が、まだ残っていたなんてね)
自分でも驚いた。こんなすべてを捨てるような無茶、思いついたのすら新婚以来だ。
きっかけは数時間前、今日の朝。自分とアルバートに宛てて届いた脅迫状はさしてシャルロッテの心を揺さぶりはしなかった。むしろこれで自分が殺されでもすれば、さぞアルバートの顔に泥が塗れるだろうに……そんな皮肉が浮かんだくらいだ。
だがこれに対してアルバートの放った言葉が、長らく忘れていたシャルロッテの激情を呼び覚ました。
『君の護衛は、特別措置小隊に頼もう』
――そのとき脳裏に浮かんだ懐かしい姿に、シャルロッテは頭でぷつんとなにかが切れる音を聞いたのだ。
分かったわ、とうなずきながら、胸のうちではアルバートが軍部に着くまでの時間を計算していた。
ありがとう心配してくれて、とネクタイを締めながら、使用人を部屋から遠ざける口実を考えていた。
気をつけて行ってきてね、と見送りながら、アルバートから逃げおおせるルートを編み上げていた。
そして今、裏町に駆け込んだこのときに至るまでのすべてが、シャルロッテがはじめて実行に移したアルバートへの反逆だった。
人気はほとんどない。路幅は車がぎりぎりすれ違えるほどで、両脇にそびえる建物の影に薄暗く覆われている。夜にはさぞかし猥雑になるのだろうが、この景色ではゴーストタウンと相違なかった。複雑に絡んだ路地も首都ではあまり見られない類のものだ。だからこそ都合がいい。
さらに裏路地に入る。奥には塀が聳えているためほぼ行き止まりだが、シャルロッテは覚えていた。この塀を越えればさらに別の路地に繋がっている。そうして塀から塀を越え歩けば、簡単に抜け道ができてしまうのだ。
下積み時代にはここでよく演劇のコネクションを作っていた。そしてタチが悪いのに捕まってはこのやり方で撒いたものだ……そこまで思い出して苦笑が浮かぶ。今の状況もそう変わらない。
(そう、変わらない……きっとうまくいく)
計画としては悪くないはずだ。人口密度の高い市場で自分を目撃させてその周辺を集中的に捜索させる。その間にシャルロッテはこの路地を使ってまったく別の区画に移り、路電で郊外まで出てしまうのだ。鉄道なら今ごろ駅に軍人が張り付いているだろうが、運行本数の多い路電なら捜索隊も全ては探しきれない。
首都を出たあとは地方を渡り歩いて、それからはそのとき考えよう。何なら国外に出てもいい。アルバートにもテロリストにももう邪魔はさせない。
このままここにいては、きっとアルバート以上に恐れていた事態が起こってしまう。それだけは絶対にダメだ。
手提げから黒いカツラを取り出す。このあたりで本格的に変装といこう。せっかくだからメイクも変えたかったのだがそこまでは難しい。これでごまかせるといいのだが……と豊かな金髪をまとめあげようとした矢先、静かな路地いっぱいにタイヤの摩擦音が響きわたった。
見ればエンジンをふかしたままの大型トラックが路地を塞ぐようにして止まっている。このあたりは酒を出す店が多いから配達にでも来たのだろうか。
配達員らしき人間がふたり慌てて降りてきて、コンテナから大きな木箱を運び出す。この路地に向かって。
ちっと舌打ちしたい気持ちをこらえてストールをかぶりなおす。なにも抜け道はここだけではない。配達員たちを切り抜けて別の路地を使うだけだ。
見た目のわりに軽そうな木箱を運びこみながら、オーバーオールの配達員らはなぜか暗い路地にいた女を訝しげに見やり、しかしたいした関心もなくすれ違う……
そのはず、だった。
体格のいい配達員の目のまえまで来た瞬間だった。木箱を路地のかたわらに放り投げ、4つの手がこちらへ迫りくる。肩を壁に叩きつけられて、ストールがひらひら落ちていった。
そして現れたシャルロッテの顔に、配達員、いや、配達員のフリをした何者かは互いに小さく頷きあい、その力をいっそう強め……
「――――ッ!?」
あげた悲鳴は、男の手とエンジン音にかき消された。




