↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

39/39

夏の夜の夢

 音の遠のく夏の闇が、生きとし者の五感をより繊細なものへ変えていく。


「────先生が小寅を呼べっつうんで、俺の女も一緒に呼んだんだよ。そしたら、大虎で宴の最中に抱かせろと言い出してよ。売れっ子芸妓を舐めるなと、小寅が怒っちまって……」



 肌に触れる夜風に港町特有の匂いを感じる。さわさわと揺れる葉の隙間で蝉でも蛙でもない生き物が呼吸を始めたようだ。


 更紗は、鬱蒼と茂る庭の草に光る何かを見つけた気がした。ただ、それに興味を持つ気力が残っていなかった。



「小寅は先生が大嫌いで……あっさり袖にしやがった。だったら、更紗に帯を解けって言うんだよ……俺に一晩拝借する事を土方へ伝えてこいだと。こりゃ、やべぇとなって……」


「……それで、更紗が血相を変えて部屋に飛び込んできたんだねぇ。吉田屋の芸妓と仲居を連れていたから何事かと思ったよ。なぁ、総司」


「源さんが泣いてる二人をあやしてましたもんね。永倉さんが殴られて怪我してると聞いて、私は芹沢先生と剣を交える覚悟はしたんですけどね」


「馬鹿野郎。お前が出張ったら収まるもんも収まらねぇだろ。はぁ……平山が機転を利かせて、先生を外に連れ出してくれてよかったぜ。ただ……部屋が滅茶苦茶だ」


  

 京屋の一室は、破壊されてしまった。調度品の賠償金は幾らになるのだろう。永倉は店主に低頭して詫びていた。こんな時に仏の副長がいてくれたら、どんなに心強かっただろうか。


 更紗は、背後で寝入っている山南に視線を向けた。きっとこの騒動を夢見で聞いて、心配しているだろう。試衛館組の一人として、皆を見守ってくれているはず。



「俺ァ先生と……浪士組の展望を肴に飲みたかっただけなんだよ。お鹿にはそっぽ向かれちまうし……何事もなく明日を迎えられる事だけが今の願いだ」


「……あのお鹿さんて方、永倉さんの恋人だったんですね。それなら、もっと早く芹沢先生から逃がしてあげて欲しかったです……ずっと震えてましたよ」


「おいおい、よく言うぜ。お前ら三人を鉄扇から守ってやるのに必死だったんだよ」


「顔の痣はまさに名誉の傷ですね。青々としたものがひとつ、ふたつ……」


「総司、うるせぇよ……畜生め、どれだけ飲んでも気は晴れねぇもんだな……」



 空の銚子を畳に放り投げた永倉は、更紗の前にあった銚子を掴み取り手酌を始める。


 自分のいらぬ一言が引き金となって芹沢を激昂させてしまったのに、そのことには一切触れてこない。只々、永倉は不機嫌な様子を露わにしてくる。


 いっそのこと、遠慮なく叱りつけてほしかった。歩み寄りたくても、互いに抱える後ろめたさが高い壁を作り上げてしまう。


(……謝るタイミングがない。素直になるって難しいな……)



 盃片手に頭を抱える永倉の隣で、更紗も地味に落ち込んでいた。言葉を返せない代わりに茶器を唇に付け、生温い水を流し込んでいく。


「……はぁ、冷たい水が飲みたかった。暑くて……今日も寝られなさそう」



 気分が沈んでどうしようもない時は、小さな不満も大げさな落胆に化けていく。


 あの狂い聲《ごえ》を思い出せば、微かな震えが起きてしまう。知らぬ間に指が切れていた。割れた破片が当たったのかもしれない。必死すぎて気づかなかった。


 次に芹沢に会う時は、こんな怪我では済まないだろう。喉元から生き血を抜かれた動物のように、獣の餌食になる瞬間を待つ気分に────


「冷をとる事ばかり考えるのでは無く涼をとる事を考えろ。夏に熱いものを飲めば汗をかき、次第に涼しくなるだろう」



 シンと静まり返った闇に響き渡ったのは、いつも寡黙な青年の低い声。


 小さな独り言を拾われた更紗は目を丸くした。ほぼ話したことのない斎藤からのアドバイスは、不思議と雁字搦めになっていた絶望を緩めてくれる。


 それでも、夏の夜に猪口で熱燗を嗜む姿を見ると、なかなか共感はできなかった。



「お前も飲むか?」


「いえ、私は禁酒中の身でして……。熱燗とか……見てるだけで汗かいちゃいそうですけど、斎藤さんは暑くないんですか?」


「暑い」


「……涼とれてないじゃないですか」


「ははは! 一君は妙なところで透かし技をかけてくるからなぁ。じゃあ、皆で水垢離《みずごり》でもやろうか。一気に涼しくなるよ」


「総司……お前は飲み過ぎだ。気持ちは分かるが、そろそろ止めとけ」


「……はいはい、永倉さんは相変わらず厳しいなぁ」



 逆さに向けた銚子から最後の一滴を滴らせていた沖田も、そんな仕草を険しく睨みつける永倉も、言い知れぬ影を潜ませていた。


 闇はいつでも人の弱さにつけ入ろうと押し寄せ、覚束ない心を食らう準備をする。


 それを跳ね除けるも飲み込まれるも自分次第だ。とはいえ、時に仲間が救い出してくれる存在になる場合もある。



「……うーん、今日は悪酔いしたかなぁ……更紗、介抱してよ」


 ふわりと空を切る長い髪が切り傷のある手に触れた刹那、横座りしていた両膝に重みと温かみが無遠慮にかけられる。


 更紗は浴衣越しの感触に心臓が大きく跳ねた。今日の彼はおかしい。人前で女の膝に頭を乗せるタイプではない。しかし、本人は目を閉じ、気持ち良さげに全身の力を抜いていた。



「……えっと……沖田さん?」


「これ、総司! 更紗は花街の女じゃないんだよ。何でもして貰えると思っちゃいかん」


「それは分かってますよ。私は誰かさんと違って、これ以上は求めませんし」



 ペシッと沖田の足を叩いたのは井上だった。それでも沖田は動こうとはしない。チラリと男たちは女の反応を見る。膝くらいなら構わないと思った更紗は、苦笑いで頷いた。



「こりゃ、珍しい事もあるもんだ。総司が女に甘えるとは。近藤さんに報告だな」


「永倉さんは分かってないなぁ。更紗は女じゃなくて天女ですよ。月へ帰るんですから」


「月へ帰るっつう事は……後腐れなく切れるからか。それなら廓の女でもいいだろ」


「女には情が残るでしょう? 天女は情を持っても、切れたら全てを忘れるんですよ」


「お前が言うと、妙な重みが出るな」



 瞑目している沖田は人の膝の上で戯言を放つ。斎藤は何も言わなかった。井上は呆れていたが、永倉は笑う。更紗は永倉と目が合うが、同じように笑うことができなかった。


 いつかはこの世界から消えてしまうから、お互いに割り切れる存在でありたい。


 男たちが口にした言葉は自分が浪士組に求める関係性そのものだ。けれど、いざそれを直接伝えられると負の感情が胸を巣食う。


 ちくちくと痛むのは、割られてしまった何かの破片に触れたから────。


 目に見えないくらい小さな欠片でも、伸ばした指先から赤い血を滴らせる。


 音の絶えた夏の夜を照らすのは、闇を退けようと光を放つ、大きな月であった。



「急いで帰ってきたが……永倉君、件は解決したのか?」

 

 ずっと動かなかった襖が開けられる。暗がりから現れたのは、二つの人影だった。



「近藤さん、忙しい時にすみません。仲居に預けた文に書いてある通りで、片は付いてます」


「確かに文は落着としてあったが……婦人が泣き出すもんでな。更紗は無事なんだね?」


「何とか阻止はしましたが……暫くは更紗を芹沢先生に近付けないほうがいいかと」


「……そうか。お梅さんがいるというのに、困ったもんだな」



 挨拶回りに出ていた男たちは外の匂いを引き連れて帰宅した。赤ら顔の近藤は心配そうに、更紗を見やる。しかし、その膝の上で寝転がる沖田を見た途端、頬が綻んだ。


「これは……歳、面白いものが見られるぞ」



 近藤の背後から歩いてきた土方は、冷たい眼差しで男女を見下ろす。少し酔っているのか仄かに赤らんでいた。一呼吸置いたかと思えば、口より先に足が出ていた。



「……痛ったぁ。何するんですか! 寝てたのに」


「 歳! なんで総司を蹴るんだ!?」


「ほら総司、だから退きなさいと言っただろう」


 

 一瞬のうちに近藤が土方を、井上が沖田を制止する。永倉は笑うのを我慢しているように見えた。斎藤は反応に困ったのか、唖然とした顔つきで見上げる更紗を見つめた。



「この女が芹沢に食われそうだと言うから帰ってきたが……おめえは一体何してんだ」


「何って、膝枕です。気分が優れないから膝を貸して貰っただけですよ」


 

 唐突にピリついた空気が漂い出す。怒りの矛先が自分に向かないように誰もが口を噤む。


 しかし、一切の空気を読もうとしない沖田は、眉間に深い皺を寄せた土方から目を逸らさなかった。



「膝を借りる事の何が悪いんです?」


「さっさと膝から退け」


「更紗、悪酔いした私に膝枕するの嫌だった?」


「いや、……別に膝くらいなら……どうぞ?」


「そういう事を聞いてんじゃねぇ」



 頭上に落ちてきた舌打ちに大きな苛立ちが乗っていた。更紗はびくり、と肩が跳ね上がるが、膝にいる沖田は土方の怒りにも素知らぬ顔だ。



「本人が構わないと言っているのに……更紗は土方さんのものじゃありませんよ?」


「……クソ餓鬼が。勝手に言ってやがれ」



 つらつらと話す沖田へ吐き捨てた土方は一人で部屋を出て行く。沈黙と共に重たい空気が残された人間に気まずさを与えてくれた。



「総司……歳を茶化すな。山南さんの件で気が立っているのは分かってるだろう。おまけに廓遊びを切り上げたんだ。余計機嫌も悪かろう」


「……すみません。でも、また自分のものだと思っている節があるなら、それは正すべきでしょう? 赫映姫はいつか居なくなるんですから」


「まぁ、そうだな。それは歳が一番承知しているゆえ案ずるな。更紗、悪いな。歳にこれを返してきてくれるか? 駕籠代で手銭を借りてな」



 近藤から託された深緋の小袋はズシリと重かった。廊下を歩む足取りを鈍くさせる。


(女の人と遊んでる最中だったのは悪かったけど……弱ってる沖田さんを蹴らなくてもいいじゃん。怒りは私にぶつけてくれたらいいのに)



 心の奥底でわだかまる憂いの正体が分からなかった。ただ、これ以上、嫌な感情が溢れ出さないよう、更紗は深呼吸をした。顔を軽く叩くと、襖を丁寧に開けた。


「……すみません、土方さんいますか? 近藤先生から小袋を預かってます」



 布団が高く積まれている暗い広間の隅で、ゆらりと動く人影は一つ。


 行灯の明かりを頼りに前へ進む。月明かりは届かなくとも、その男が土方歳三であることは醸す雰囲気で分かった。



「其処に置いておけ」


 不気味なほどに静寂が支配する室内には、袴紐を解く音が響いていた。


 変な緊張感に襲われる。更紗は畳の上に横たわる大刀の傍に、そっと小袋を置いて立ち上がる。



「布団を敷いてくれるか、横になりたくてな」


「……あ、はい。一番上にある布団でいいですか?」


「構わねぇ」



 嫌味の一つでも言われるかと思いきや、かけられたのは穏やかな言葉。さっきの怒りは鎮まったようだ。拍子抜けしながらも、言われた通りに布団を一組抱えてみる。


 膝をついて敷き布団の皺を伸ばし、薄手の掛け布団を置く。背後に人の気配を感じた。


「……すみません、すぐ退きますので」



 場所を譲ろうと更紗は立とうとするが、押されて布団に手をつく。振り返れば、墨色の着流し姿になった土方が間近にいた。


「おめえは……まるで危機感がねぇな」



 灯火が揺蕩う黒髪に妖艶さを授ける。少し赤みを帯びた土方の顔は、いつもと変わらぬ愛想のないものであった。


 けれども、身を屈めて近づいてくる男の造作に只ならぬものを感じた。更紗は一定の距離を取るように、布団の上で後退った。


「……な、何ですか」



 トンと肩を押された次の瞬間、上げた両腕を掴まれ、顔の横に押さえつけられていた。


「……や……何……!?」



 白布に沈んだ手首を握る指先は力強かった。組み敷かれた身体を動かそうとしても、男の力には敵わない。


 ────策なしで懐へ飛び込んだら、抱き込まれて終いだ



 至近距離から見下ろす双眸と天井に既視感があった。ただ、あの稽古の日より状況が悪すぎる。たぶん、これは一方的に抱き込まれている状態で────


「痛い目を見ねぇと分からねぇ女っつうのは、どの村にも必ずいるもんでな」



 行灯の明かりを頼りに目を凝らすと、女殺しの眼差しを容赦なくぶつけてくる。


 逃げようと足を動かせば、土方の膝が両脚の隙間に捻じ込まれる。太ももが見えるくらいに裾がはだけてしまっても、戻しようがなかった。



「……や……やめて下さい」


「嫌なら押し退けてみたらどうだ」



 どんなに狼狽えようが、表情一つ変えてはくれない。土方が何を考えているのか分からない。ただ、自分が怒らせてしまったことは伝わってきた。冷や汗が女の背中を湿らせる。


 詰んだと思った刹那、救いの襖が開き────、こちらを見た青年は固まっていた。



「……斎藤さん助け……!」


「取り込み中だ。後にしろ」



 必死で上げた金切り声も虚しく、土方の冷たく放たれた一言にかき消される。


 斎藤は無言のまま頭を垂れると、何も見なかったかのように襖を閉め切った。



「芹沢の時のように助けてくれる奴がいなけりゃ、どうする?」


 顔を寄せる男の囁きはカッと頭に血が上るほどに挑発的だった。抵抗する間もなく唇を塞がれる。思考が追いつかない。更紗の身体は強張った。


 汗ばむような夏の夜が二人を包む。離れては触れる唇が甘い熱を与えてくる。経験差は明らかだ。頭がぼーっとしてくる。腕の拘束が解かれても、身体に力が入らない。



「……どうした、止めさせねぇのか」


 土方が身を起こせば、更紗は潤んだ瞳で睨みつけた。視線を逸らさないまま、結わえた黒髪を背に流す。乱れた吐息が静寂を揺さぶる────、また来ると構えた時には遅かった。


「……その面は男を煽るだけだ。止めたほうがいい」



 頬を捉え、再び女の唇を食む。思わず、黒い着物に触れていた。こちらの反応を確かめるように、熱が首筋に移っていく。


 肌を濡らす吐息に男の色気を感じれば、その長い指は薄い布を隔てて膨らみを撫でていた。


 心臓の音が隠せない。女好きの変態に敵うわけがない。完敗────の、はずだった。



(……待って。何で私、好きでもない人にこんなことされて、受け入れた?)


 我に返った更紗は、伏せた視線の先の逞しい首筋を睨んだ。赤い痕が生々しくつけられている。


 途端に移り香が鼻腔を擽る。格子窓の奥にいた遊女を鮮明に思い起こさせてくれる。


 さっきまで遊郭にいた男は、同じことを他の女にしていたはず。自分のせいで不発に終わったのなら、それは申し訳ないが、責任を取る気はない。今から戻ればいい。



「……これ以上するなら蹴り上げますけど、どうしますか?」


 更紗は土方の腕を掴んで、胸から遠ざける。間髪入れず、膝を立てその下半身スレスレに合わせた。


「……たく、おめえはよ。もっと早く止めろ」



 大きく息を吐いた土方は被さっていた更紗の肢体から離れる。ゆっくりと起き上がると、無表情のまま見据えた。



「嫌なら力尽くで突っぱねりゃいい。それが芹沢でも俺でも、おめえなら何とでもなるだろう」


「……意味分かんない。本当に何なんですか? えぇ……」


「途中から許してたじゃねぇか」


「……許してません!」



 息つく間もなく襲ってきた相手から、助言を受けている。頭が混乱して具合が悪くなってきた。今の状況が夢か現か、考えれば考えるほど分からなくなってくる。


 一体、この男は自分にとって敵なのか味方なのか、信じるべきか遠ざけるべきか。


 一滴も飲んでいないのに、酒の甘さが口の中に広がっていた。


 泥酔した夜もこんなことをされていたなら、何も覚えていない自分がやばすぎる。



「あの総司でも、おめえを女として見てんだ。その意味を考えろ」


 スッと伸びてきた手が開いていた更紗の合わせを整える。立ち上がった土方は、着崩れを直すと振り向くことなく襖の先へ消えていった。


 信じがたい行動を取った後に見せた謎の気遣いは、心労を重ねた女の胸懐には届かなかった。


 じっとりと肌を濡らす汗が、ひと時の悪夢を語りつくしてくれる。


「……この世で信じられるのは……自分だけだ」


 

 情なんか、こっちの知ったことではない。後腐れなく切れる関係、上等だ。


 更紗は自分の目に映る男全員が敵であるような、一切を遠ざけたい衝動に駆られる。


 夏の闇で燃え続ける明かりは、照らす指先に線のような赤い傷跡を再び浮き上がらせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。