4 甘いものは、正義!
暑かった夏もすっかり終わり、ようやく涼しくなってきた。九月中旬。
鳴海健爾刑事は車の時計を見る。午後七時二分であった。黒髪の短髪で整った顔立ちであり、グレーのスーツを身に付け、黒の革靴を履いている。彼は立てこもっている犯人が出てくるのをじっと待っていた。東京都足立区の住宅街である。
立てこもっているのは、六十代の男らしい。そこは彼の自宅アパートであった。中には、女性が一人人質になっていた。
一週間前、この近くに住む乾隆一郎という男が、何者かによって殺された。ちょうどたまたまそこへ買い物から帰宅した奥さんの慶子さんがその事件現場を目撃し、犯人の顔も見るなり、すぐに警察へ連絡したという。
鳴海たち捜査一課は、その通報を受け、現場へ急行し、事件の捜査を始めた。
「奥さんの証言によると、犯人の男は乾の友人だったらしい」
鳴海がそう言うと、「友人ですか?」と、助手席に座る黒髪短髪で黒縁眼鏡を掛け、紺色のスーツを着た相澤友晴刑事が言った。彼は背が高くイケメンである。今年、三十で鳴海の三つ下だ。
「ああ」
「その友人の名前は?」
「トミタというそうだ。奥さんの話によれば、その二日前に旦那さんがそのトミタという男たちと飲みに行っていたそうなんだ」
「なるほど」
「もしかしたら、その時に乾とトミタが喧嘩でもしたのかもしれない」
「喧嘩ですか……。でも、一体どうして?」
「さあ?」
「…………。」
「それから、もう一つ奥さんの話でね、旦那さんは『麻雀』が好きなようで、よくそのトミタたちと打っていたそうだよ」
「へー」
「もしかすると、その夜、皆でそれをやっていたのかもしれない」
「どこの雀荘でやっていたんでしょう? 奥さんに訊きました?」
「訊いたけど、奥さんは知らないって……」
「はあ、そうですか」
「うん」
「まあでも、『麻雀』なら、賭けることもできますからね。法律違反ですけど」
相澤はそう言って笑った。
「ああ、金を賭けていたのかもしれないな。それで乾が負けたのに支払えなくて、トミタという男がその腹いせでって話もあり得るな……」
鳴海もそう言うと、ハハと笑った。
「本当にそうだとしたら、可哀想な話ですよ……」
「だな」
「しかし、まさか事件捜査の途中でこんなことになるとは……」
少しして、鳴海が呟くように言った。
「ですよね……」
こんなこととは、今日の夕方のこと。
奥さんの慶子さんが失踪してしまったのだ。
おそらく何者かに連れて行かれた可能性が高いと判断して、鳴海たちは一度その事件の捜査を中断し、彼女を捜すことにした。
鳴海たち警察は乾氏を殺したトミタという男が奥さんを連れ去ったのではないかと踏み、彼女の証言をもとに彼の自宅へと車で向かった。
すると、そこに案の定、そのトミタと一緒に慶子さんもいた。しかし、どうやら彼女はその男の人質になっていたのであった。
それからしばらくして、次々と応援のパトカーもやって来て、彼の自宅アパートは包囲された。
男は家の中で立てこもっていた。女性を人質にして。鳴海たちは、車の中で彼が出てくるのを待った。
鳴海たちがそこへ着いてから、二時間が経っていた。男はまだ自宅から出てこなかった。
鳴海は少し空腹であった。何かを食べようと、コンビニの袋からメロンパンの袋を取り出し、それを開けた。
「どうしてメロンパンなんです?」
鳴海がメロンパンとコーヒーを飲みながら張り込みをしていると、隣に座る相澤がそう訊いた。
「好きだからだよ」
メロンパンが好きな理由はふわっとした食感とサクッとしたクッキー生地がよく、甘さもちょうどいいからである。小さい頃からよく食べていた。それに意外とコーヒーにも合うのだ。
「へー」
「お前こそ、なんであんぱんと牛乳なんだ?」
それから、鳴海が彼に訊いた。相澤はあんぱんを片手に牛乳を飲んでいた。
「だって、よく言うじゃないですか。張り込みの時は、この二つって!」
「それは、ドラマか何かの設定だろ? 別にわざわざそこまで真似する必要ないって……」
「はあ、まあ確かに。そうですけど……」
「けど?」
鳴海がそう訊くと、しばらくして相澤が口を開いた。
「冨田警部に言われたんですよ」
「冨田警部が?」
相澤のいう冨田警部とは、冨田克夫警部のことだろう。背が低く、ぽっちゃりした体型で、年齢は六十代である。去年、定年退職をしているが、鳴海や相澤の上司に当たる人物だ。彼は後輩思いで鳴海たちを可愛がってくれた。さらに、警部として非常に実力のある人だった。鳴海は彼に好感を持っていた。
「はい。張り込みで腹が減ったら、とりあえずあんぱんと牛乳で腹を満たせって」
相澤も同じように感じているのだろう。
「冨田警部がね」
「はい、だから……」
「だからって、それを素直に従うことはないだろう」
鳴海がたしなめるように言うと、「まあ……ですよね」と、相澤が素直に認めた。
「まあ確かに、あんぱんや牛乳って、手軽だからいいと思うよ。張り込み中、サクッと飲み食いできるからね」
「はい、僕もそう思います」
「でも、自分の好きなものを食ったり飲んだりした方がいいんじゃないか? お前、何が好きなんだ?」
鳴海がそう訊くと、「コンビニのフライドチキンです!」と、相澤は嬉しそうに言った。
「チキンか! いいけど、車の中だと匂いがするな」
「そう……ですよね」
「他は?」
「他ですか? うーん、いちごミルクとか」
「牛乳と変わらんだろ!」
「えーっと、じゃあ、ポテトチップスとか?」
「アリだけど、手が汚れるし、それにお菓子だろ? それで腹は膨れるのか?」
「そう言われると……」
「そんなものか」
「……じゃあ、一体何がいいんです?」
彼は諦めたのか鳴海にそう訊いた。
「メロンパン!」
鳴海は大声で言った。
「え? メロンパン?」
「そう」
「それって、鳴海さんが好きなものですよね?」
「それもそうだけど、俺はメロンパンとコーヒーの組み合わせが一番いいと思うんだ」
「なんでです?」
「それは、手軽に食べられるし、十分に腹も満たせるから」
「それだけ?」
「ああ。俺はそう思う。そうじゃなくても、おにぎりとかカレーパンのような総菜パンなら何でもいいと思うんだ」
「だったら、あんぱんと牛乳でもいいじゃないですか」
「好きにすればいいさ。こだわる必要はない。だからと言って、上司の言葉を信用するなと俺は言いたいんだ」
「はあ……」
「女の命が欲しけりゃ、あんぱんと牛乳を二つ持って来い! さもなくば、殺す‼」
それから、三十分程経った頃、男はベランダに出て来て、そう叫んだ。白髪交じりの髪で顔に皺があり、半袖シャツとダボッとしたズボンにサンダルという格好をしている。背は低く、ぽっちゃりとした体型であった。
男の言ったことに警察たちは一度キョトンとする。鳴海たちも呆然とした。
それから、すぐに一台のパトカーから若い警察官の男が出て来て、彼はすぐに小走りで近くにあるコンビニへ向かった。五分ほどして、彼があんぱんと牛乳の入った袋を持って戻って来た。
「俺の家の前に置け!」
再び、その男が叫ぶ。
それからすぐにその若い警察官の男が、指示通りに彼の自宅の前にその袋を置いた。
男はベランダから部屋に戻るなり、玄関の扉を少し開け、その袋を急いで取るとすぐに扉を閉めた。
それから五分程して、その男の部屋の扉が開き、そこから黒の長袖シャツに迷彩柄のロングスカートと黒のブーツを履いている女性が出てきた。慶子さんだ。
彼女はゆっくりとそのアパートから降りてくるので、そこに居た警察官たちが二、三人で彼女のそばまで行き、彼女をパトカーへ乗せた。
慶子さんが解放され、鳴海たちは安堵した。けれど、まだ男は出てこなかった。
「あの男、もしかして……」
ふと、相澤が呟くように言った。
「なんだ?」
すぐに鳴海もその男を見る。彼の顔に見覚えがあった。
「刑事さん、聞いてください。あの男からの言伝があります。もう一度、牛乳とあんぱんを買ってきてほしいそうです。今度はここにいる刑事さんたち全員分だそうです」
慶子さんのその言葉に、警察たちは驚いた。
警察たちは困ったが、ここは犯人の言う通りにした方がいいと判断し、先程、慶子さんを助けた三人の警察官たちが分かれて近くのコンビニへ行き、そこに居る警察官三十人分の牛乳とあんぱんを買いに行った。
しばらくして、三人は現場に戻って来るなり、それぞれが全員に牛乳とあんぱんを配った。一人の警察官が、鳴海や相澤たちにもそれを配る。
「全員で、それを食え!」
男は窓からそう叫んだ後、すぐにその窓を閉めた。
男にそう言われ、警察官たちは貰ったあんぱんと牛乳を頬張った。鳴海や相澤もそれらを飲み食いした。
「全員食い終わったか?」
十分後に、再び男は窓を開けてそう訊いた。
全員が食べ終わったことを確認して、一人の警察官が「食った」と、大声で答えた。
男は窓を閉めた。それからすぐに扉が開き、男が出てきた。男は一目散に逃げようとした。
警察官たちが一斉にパトカーから出た。
それから、鳴海たちの車の前を男が横切った。
「行くぞ!」
「はい!」
二人は車を出て、彼を追った。
「こんばんは、冨田警部。いや、冨田元警部」
鳴海がそう言うと、その冨田と呼ばれた男が二人を振り返る。
「鳴海! それに、相澤! どうしたんだ、こんな夜中に?」
冨田が二人を見て訊いた。
「とある事件で、張り込みをしていまして……。冨田克夫さん、あなたを逮捕します!」
鳴海がそう言うと、冨田はハッと言う顔をした。
「そうか。……てめえら、俺が犯人だとよく分かったじゃねえか」
冨田は嘲笑うように言った。
「ええ、たまたまですよ」
「たまたま?」
「はい。たまたま二人で『あんぱんと牛乳』の話をしていて」
「へっ、そうか。お前ら、上出来じゃねえか……おとなしく捕まってやるよ」
彼はそう言って、鳴海の乗る車へと乗った。鳴海はすぐに警察署へと車を走らせた。
「どうして乾さんを殺害したんです?」
取調室で鳴海が冨田にそう訊いた。相澤が端のデスクで二人の話を聞きながらメモを取る。
冨田は早速、口を開いた。
「事件の二日前、乾と俺、それから、仲間もう二人と麻雀をしていたんだ。最初は普通にやっていたよ。それからしばらくして、乾が『金を賭けよう』と言ったんだ。俺は元警察官という立場から、それに反対したんだ。だが、他の二人がその話に食いついた。仕方ないんで俺も参加することにした」
「なるほど。それで、いくら掛けられたんです?」
鳴海が訊く。
「一人、三万円。ただビリが四万円だから、勝てば十万円貰えることになってたんだ」
「十万……凄い金額ですね」
「ああ。それで――」
「それで、誰が勝ったんです?」
「結果、俺が勝っちまったんだよ。因みに、ビリは乾だった。俺は約束通り、三人から十万を貰うことになった。まず、仲間の二人から三万円ずつ貰った。乾からも貰おうとしたら、『今は手持ちがない』と言って、その時、彼から四万円は受け取れなかった。それから、一週間待ってくれと彼が言ったから、俺は彼のその言葉通り、一週間は待つことにした。しかし、一週間経っても彼は俺にその四万円を寄越さなかった」
「ほう……」
「しびれを切らした俺はアイツの家に行った。その時、彼がちょうど家に居たんで、『この前の四万円はまだか?』と俺は訊いた。けれど、アイツは『あれは冗談で言ったんだよ。四万なんて大金はねえ!』って言ったんだよ。俺、それ聞いて腹が立ってよ。台所にあった包丁で彼を刺したんだ。背中から一突きでな。彼はあっさりと死んだよ……。そしたら、今度は奥さんが帰って来てよ――」
それから、奥さんに見つかってしまったという訳だったらしい。
彼女の通報を受けて、乾家へと向かったのを鳴海は思い出した。
「でも、その後、奥さんが消えたのには驚きましたよ!」
鳴海が思い出したように口を開いた。「あれはどうしてです?」
鳴海がそう訊くと、冨田は口を開いた。
「奥さんに見られてしまったからな。俺も彼の奥さんのことは知っていたし、彼女も俺のことを知っていたんだ。だから、すぐにバレるだろうと思ったんだ。だから、翌日、彼女をマークして、出掛けた頃に彼女と接触して、タオルで目隠ししてから車に押し込んでそのまま自宅アパートまで乗せた。警察も彼女が失踪したと分かれば――」
「犯人に連れて行かれている。そう考えれば、我々が犯人の自宅にやって来るかもしれないと思ったんですね? 彼女が人質にされているなら、なおさら……」
「ああ、その通りだ」
「なるほど。……じゃあ、本当に麻雀でお金を賭けていたんですね」
しばらくして、鳴海が口を開いた。
「うん」
「そうすると、殺人罪及び人質強要罪に加えて――」
「賭博罪もだな」と、冨田は言った。
「ええ、その三つの罪で冨田さん、あなたを逮捕します」
鳴海がそう言うと、「……参ったな」と、冨田は小さな声で言った。
「よく反省してください」
「ああ、分かった」
そうして、取り調べを終え、鳴海たち三人はそこを出た。
「冨田さん、あの……」
歩きながら、ふと相澤が口を開いた。
「なんだ?」と、冨田が彼を見る。
「どうして、あの時、『あんぱんと牛乳を寄越せ』なんて言ったんです?」
それは鳴海も気になっていたことだった。
「ああ、あれは単に俺が腹減ってたからだよ」
冨田は言った。
「お腹が空いていたから……ですか」
「そう。だって、君たち警察官たちに長時間も張り込みされていたら、こっちだって腹も減るでしょ?」
「それはそうですね」
「それに、君たちだってそうでしょ?」
「ええ」と、相澤が頷く。
「確かに」と、鳴海も頷いた。
「だから、最初に俺と彼女の分を買ってきてもらって、その後、君たち警察官の分をと思い、彼女を解放するついでに伝言だけ預けて、君たちのお腹を満たすようにした。やはり、張り込みには『あんぱんと牛乳』が君たちの様に最強のコンビだと信じていたんだ。お互い腹が満たされれば、俺はそれで十分だと思った。それから、それが達成したんで、俺は観念して出てきたという訳だ」
そう話をした後、冨田は誇らしげな顔をした。
「……そうでしたか」
それから、鳴海が口を開いた。二人はぎょっとして、彼を見た。
「冨田さん、僕、思うのですが、刑事ドラマの観過ぎですよ」
「どういうことだ?」
「僕、思うんですけどね。張り込み中なんてその人の好きなものを飲食すればいいと思うんですよ。僕はメロンパンとコーヒーが自分の中で一番だと思ってますから」
「ほう、そうか」
「でもまあ、こいつは冨田さんの教えを守ってね。『あんぱんと牛乳』を食べては飲んでいましたよ」
鳴海は相澤をちらりと見て言う。
「いいじゃないか!」
冨田は嬉しそうに言う。
「でも、これからは好きなものにするそうですよ」
鳴海がボソっとそう言うと、「そうか。好きにしたらいい」と、冨田は言って笑った。
「しばらくは、まだ『あんぱんと牛乳』かもしれませんが……。」
それから、相澤がそう言うと、二人は笑い出した。つられて彼も笑った。
作品内のいくつかの罪についての補足です。
◎人質強要罪
第一条 人を逮捕し、又は監禁し、これを人質にして、第三者に対し、義務ない行為をすること又は権利を行われないことを要求した者は、六月以上十年以下の懲役に処する。
◎賭博罪…刑法185条
賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。(ただし、一時の娯楽に供する物を掛けたにとどまるときは、この限りでない。)
〈参照〉
・法令リード
https://hourei.net/law/353AC0000000048#:~:text=%E7%AC%AC1%E6%9D%A1%20%E4%BA%BA%E3%82%92,%E4%BB%A5%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%87%B2%E5%BD%B9%E3%81%AB%E5%87%A6%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
・WIKIBOOKS
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95%E7%AC%AC185%E6%9D%A1