2 甘い物、万歳!
目の前の出来上がったザッハトルテを見て、太一は恍惚とした表情をする。その日はうまくいったなと太一は思った。
早速、太一はそれを食べてみようと思い、ナイフで一口大の形に切る。切ったそのケーキをお皿に取り、フォークでそれを一口食べた。
そのザッハトルテは濃厚なチョコレートの味とそのケーキの中に入っているあんずのジャムが甘酸っぱく、さわやかな味わいを引き立てている。とても美味しくできていた。思わず太一は笑顔になる。
太一はショコラティエだ。
だが、まだ一人前ではなく見習いとして東京の銀座にあるチョコレート専門店で働いているのだ。将来的に太一は独立して、自分の店を出したいと考えていた。
「城田くん、お疲れ。お、今日もやってるね」
ふと、店長の安田さんが太一のもとにやって来て言った。
店長は黒髪の短髪に黒縁眼鏡を掛け、白シャツと黒のスラックスの上から茶色のエプロンと帽子を身に付けている。三十代後半で、結婚して子供が一人いるらしい。
「店長、お疲れ様です」
「今日はザッハトルテを作ったんだ?」
「はい。よかったら、召し上がってください」
太一はそう言って、そのザッハトルテを一口大に切ってそれをお皿に取り分けた。
店長は「どれどれ」と言って、太一の作ったそのザッハトルテを一口食べた。
「ああ、美味いなあ」と、店長は声を上げた。
「そうですか!」
「うん」
「良かったです」
太一はそう言って、笑顔になる。
「ああ、そう言えば……。」
それから、店長が口を開いた。「今度、ショコラトリーの大会があるんだ。城田くん、どうだい?」
「大会ですか?」
「ああ」
その大会に出て優勝すれば、独立。そして、自分の店を持つことだってできる。太一にとってこれはチャンスであった。
「ぜひ、参加したいです!」
太一がそう答えると、「そうか。分かった。じゃあ、城田くんが出場することを上に伝えておこう」と店長は言って、にやりと笑った。
「よろしくお願いします」
太一はそう言った後、店長に頭を下げた。
それから、一か月後の土曜日。
その日は、ショコラトリーの大会であった。
太一はそこへ来ていた。その大会に参加するためである。
会場には様々な人たちが大勢いた。太一と同じようにその大会に出場する者たちもいれば、様々なショコラトリーに出店しているベテランのショコラティエたちなどもいた。
太一は緊張していた。自分の考案したチョコレートが、果たして皆に喜ばれるだろうか。しかし、一生懸命やって来たのだ。多分、大丈夫だろう。そう思いながら太一はその大会に臨むことにした。
午後三時になり、いよいよ大会が始まった。
その大会に出場したメンバーは太一を合わせて十名であった。男性のショコラティエもいれば、女性のショコラティエもいた。出場者は様々な都道府県から来ていた。
まず、それぞれが自己紹介をし、その後、一人一人が今回の大会で作ったチョコレートの紹介をした。そして、審査員であるベテランのショコラティエたちによる試食が行われる。
太一の番になり、太一も自分の作ったチョコレートを紹介する。太一のはブラウニーである。審査員たちは、早速それを食べた。彼らは頷いたり、険しい顔をしたりしていた。その後、彼らは目の前の水を飲むなり、手元にある評価シートにペンを走らせた。
それから、全員の試作品を食べ終えた審査員たちが、今度は一人ずつ感想を述べた。どれが美味しかったとか、どのチョコレートが魅力的だったかとか。
「テンパリングが上手くいっていないようです」
審査員の一人が太一にそう言った。
「テンパリングですか」
「ええ」
テンパリングとは、チョコレートに含まれるカカオバターを安定させるための温度調節のことである。徐々に冷やしたり温めたりし、絶妙な調整によって口当たりがよく、光沢の美しいチョコレートが出来上がる。太一のそのブラウニーはそれが出来ていないようだった。
「……そうですか」
太一は呟くように言った。
確かに太一はテンパリングが苦手だった。正直に、あまり自信がなかった。
そして結果発表に移った。結果は、審査員全員が大阪から来たと言う根本という男性のガトーショコラが良かったと評価した。
根本は嬉しそうにし、審査員たちに「ありがとうございます」と言って頭を下げた。
審査員たちは彼に拍手を送った。他のメンバーたちも拍手をする。太一も彼の方を見ながら拍手をした。その時、太一はとても悔しかった。
「ただいま」
帰宅してリビングへ行くと、「あ、おかえり」と、美空が微笑んで言った。美空は太一の彼女だ。茶髪のロングヘアで小さな目と丸い鼻をした顔立ちで薄めのメイクを施している。太一は彼女と同棲をしている。
「大会、どうだった?」
早速、彼女がそう訊いた。
「うーん、ダメだった……。テンパリングがどうとか言われた」
太一がそう言うと、「テンパリングって?」と、彼女が訊いた。
それから、太一はそれが何かについて説明した。
「ふーん、そうなんだ。なんか難しそうだね」
「うん」
「残念だったね。でも、また、次頑張ればいいよ!」
美空は励ますように言った。
「でもさ……。」
それから、太一は呟くように言った。
「何?」
「俺、もしかしたら、ショコラティエ向いてないかもしれない……。」
「え? なんで?」
「だって、俺、今回の作品に自信あったのに、それも認めてもらえなかったからさ」
「うーん。でもそれって、周りのレベルが高かったからじゃなくて?」
「ああ、そう。周りのレベルが高いんだ。俺なんか低レベルなんだよ……。」
「そうかな? 私はそうは思わないけど」
「本当にそう思う?」
「うん」
「だったら、俺の作ったチョコを食べてみて欲しい! 多分、不味いと思う」
太一はそう言った後、昨日練習で作っておいたブラウニーの余りを冷蔵庫から取り出した。それを美空へ手渡し、食べてもらった。
「うん……おいしい」
彼女はそのブラウニーを食べて頷いた。
「今、なんて?」
「おいしいよ! これ」
「そう……かい?」
「うん、めちゃくちゃ美味しい!」
彼女は笑顔で言った。
「そっか」
太一は意外に思った。「不味くないんだな?」
「ええ」
「……なら、俺もまだ才能はあるのかな?」
それから、太一がそう呟くように言うと、「もちろん。当たり前でしょ!」と、彼女が笑って言った。
彼女の言葉に太一は嬉しくなった。太一はまだやれる! そう確信した。
その翌日から、太一はいつもの仕事をしながら昨日不評を受けたチョコレートをさらに改良を重ね、よりおいしいチョコレートを追求することにした。
前回の大会で審査員に指摘されたテンパリングも練習を重ねるうちに、それが安定してできるようになっていた。
そして一か月して、ようやく新たな試作品が完成した。早速、それを店長の安田さんに食べてもらうことにした。
「どうですか……?」
太一は彼を見守るようにじっと見つめる。
「うん、これは良い! 絶妙な甘さとカカオの風味とビターな感じのバランスがいいね! これはコーヒーに合いそうだな」
彼はにこにこしながら言った。
「本当ですか!?」
「ああ。これなら、間違いなく大会で優勝できるかもしれない」
彼はそう言って、手をグッドにした。
「ありがとうございます! これで今度の大会に臨みます!」
太一はそう言って、彼に深々とお辞儀をした。
それから、翌年の二月。
太一はショコラトリーの大会に参加した。
その日も、その大会の会場には様々な人たちで賑わっていた。太一の他に、何人かのショコラティエたちがいて、審査員にベテランのショコラティエたちがちらほらといた。
太一は緊張していたが、多少の自信はあった。
昨年、悔しい思いをしたことがバネとなり、この一年で太一は成長をしたように思えた。そして、今日という日のために全力を出して来た。絶対に優勝する。そんな思いで、今、太一はそこにいた。
午後三時。いよいよ大会が始まった。
大会に参加したのは、その年も昨年同様十名だった。まず、十名全員が自己紹介をする。その後、一人ずつ自分たちの作品を紹介した。それから、審査員たちにそれを食べてもらう。
審査員たちはそれぞれのチョコレートを食べて、頷いたり険しい顔をしたりしていた。そして食べ終わると、彼らは目の前の評価シートにメモ書きをしていた。
そして、太一の番になった。
早速、彼らは太一の作ったブラウニーを一口食べる。
すると、審査員の一人の男性が目を丸くしていた。それから、他の審査員たちもそのブラウニーを食べて、お互いに顔を見合わせながら思わず顔が綻んでいた。
太一はドキリとした。もしかして、口に合わなかったのか。それとも――。
全員の審査が終わり、審査員たちが一人ずつに感想を話し始めた。そして、最終的にどのチョコレートが美味しかったかが発表される。
審査員たちは、皆、太一を選んだ。
太一は驚いた。それと同時に、嬉しくもなった。
「ありがとうございます!」
太一は一同に向かって、深くお辞儀をした。
審査員や他のメンバーたちから拍手喝采された。
「城田くん、優勝おめでとう!」
大会が終わった後、会場に来ていた店長の安田さんがにこにこしながら太一の所へやって来た。
「店長、ありがとうございます!」
「やったな! これからは一人前になるんだな。頑張れよ!」
「はい、頑張ります!」
その後、太一は美空に電話した。
『え!? うそ!? 本当に?』
大会で優勝したことを報告すると、彼女は驚いていた。
「うん、本当だよ」
太一がそう言うと、『えー、良かったね!』と、彼女は嬉しそうに言った。
「うん」
『太一、おめでとう』
「美空、ありがとう。今から帰るよ」
『うん、分かった。待ってる』
それから太一は電話を切り、すぐに彼女が待つ自宅へと帰ることにした。
「ただいま」
帰宅してリビングへ行くと、美空がソファに座ってテレビを観ていた。
「あ、おかえり」
彼女はそう言うと、ソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。それから、すぐに彼女は太一のもとへやって来た。
「はい、プレゼント」
彼女は小さな箱を太一に手渡した。
「プレゼント?」
「いいから、開けてみて」
彼女にそう言われ、太一はその箱を開けてみる。すると、そこには彼女の手作りのボンボンショコラが入っていた。
「あー、そっか」
その後すぐに太一は今日が二月十四日で、バレンタインデーであることを思い出した。
「太一のチョコには負けるけどね」
それから、彼女は舌を出して言った。
「いや、俺にとっては一番のチョコだよ。美空、ありがとう」
太一はそう言って、にこりと笑う。
「食べていい?」
早速、太一が彼女に訊いた。
「もちろん!」
「じゃあ、いただきます」
太一はそう言って、彼女の作ったそのチョコを一つ食べた。
カカオとミルクの甘さが口の中に広がった。市販のチョコレートを溶かしただけだろうが、このチョコには美空の愛情が含まれているのだろう。そのせいもあって美味しく感じられた。
「どう?」
彼女にそう訊かれ、「一番うまいよ!」と、太一は答えた。
「本当?」
彼女は照れ臭そうに笑った。
「うん。俺じゃあ、この味は出せない。俺のチョコは二番目だな」
「そんなこと言って。うふふ。でも、嬉しいわ。あなたのチョコも美味しいわよ」
それから、彼女がそう言って笑った。
「ならよかった」
そう言って、太一も笑った。