毒蛇は語る
遅くなりました。お読み下さりありがとうございます!楽しんでいただけると嬉しいです。
転生を匂わせるような描写がありますが、世界観を壊すようなものではありませんのでご安心下さい。こちらはあくまでも『鹿騎士と狼商人』の世界で生きている人物達の物語です。
「ほぉら安いよ安いよー!!」
「どうだいお兄さん、さあ買っていきなよー!!」
アリアナの目に入るのは、色とりどりの野菜と、香り高い果物たち。
かと思えば、ジューシーな肉の焼ける匂いが鼻腔をくすぐり、パチパチと油が爆ぜる音が耳に届く───。…様々な出店が立ち並ぶここは、アールブ公国屈指のマーケット街である。
先程紹介したのは食べ物達だったけれど、食品以外を取り扱う店も多々ある。例えば、右手に見えるのはアールブの伝統的な金の工芸品を売るお店、その向かいは古書店、更にそのお隣は生きた観賞用の虫や魚やらを売っていて、その向かいは───何か面妖な形をした木彫りの人形…そして御札などがずらりと並べられた店……。その手前に置かれた値札の額は、目玉が飛び出るほどに高い。材料費はそこまでかかっていないように見えるのだけど、一体どうしてなのだろう??
とにもかくにも多種多様な……もはやカオスと言って良いこの店並びは、連日、地元の人から異国の観光客に至るまでその心を鷲掴みにしているようで、今日のようなぐずついた雨模様もものともしない活気であった。
店の種類の多さに比例して、集まるお客たちの年齢や職種も様々らしく、マーケット街全体で見ると人間の見本市みたいになってもいる。
有名な観光地化したその通りには、『太陽と妖精』を模したアールブ公国の国旗が幾つも吊り下げられていた。小雨に濡れてもその鮮やかさを失わない、とびきり目を引く朱色の旗だ。
……さて。ここからもう少し進んだところ、この通りの突き当たりには名の知れた酒場がある。由緒ある大きな酒場で、表にも裏にも精通した人間が多く集まり、情報を売り買いしているのだとか。アリアナのお目当てはそれだ。
朱色の旗が両脇にうねうねと目印のように並ぶのを見ながら、アリアナは酒場へと足を踏み入れ───ようとして、立ち止まった。
(…………誰だ?)
「………」
……後ろを、何者かが着いてきている。
黙ったまま、湿り気を帯びた雑踏の中から気配を選り分けたアリアナ。
サッと振り向いた時、視認したのはマントを羽織った人物だ。
途端、相手はダッと走り込んで来て、アリアナもろとも店の中へと押し入った。
「────や…っと見つけた!」
「君は…!」
店内に入ったアリアナが仰天する。
相手の肩に手を添えると、ハラリと頭から被ったマントが翻り、その顔が見えた。
「マヤ・ジナー・ハスケルさん!?」
「し―――っ!…声が大きい!」
囁きながら怒鳴るいう芸当をやってのけたマヤが、マントを深く被り直して詰め寄ってくる。
「それよりもあのデカブツ眼鏡は?!」
「め、めがね……??…あ。もしもレイのことなら、ここには居ないよ…?」
「はぁ?!…ッ、何なのよクソっ」
と、小さく舌打ちしたあと、「……ならあなたで良いッ!!」と至極苛立たしげに言ったマヤが、店主に目配せをした。
すると一人の店員がやってきて、「個室はこちらです。ご案内いたします」と声を掛けてくるではないか。
アリアナは言われるがまま、マヤと共に2階ラウンジにある個室へと足を進めた。
「ではごゆるりと」
そんな店員の言葉を最後に、パタリと閉じられた扉を見つめてから………アリアナは振り返った。
「………………これは一体どういうことなんだ??レイに何の用が…??というか、なぜ私たちがここにいることを知ってる?」
「……」
マヤは黙ったまま、ジロリとこちらを見遣ると、部屋に備え付けのドリンクボックスから2本瓶を取り出した。
それを小さな横長の机にドン!と置き、椅子に腰掛ける。マントの内側をごそごそと探り、慣れた手付きで煙草を取り出すと、これまた慣れた手付きでカチン、とライターを取り出し火を着けた。
「…ふ―――――、」
「………」
商会の決起集会で会った時は、美しく芸術的とさえ思えたマヤの指先。それが、煤けたマントの風合いと相まって何だか庇護欲を煽る程に細過ぎるように思え、アリアナは眉をひそめた。
彼女はその反応を、嫌煙家と見たのだろう。いくらも吸わずに灰皿へ捻切るようにして火を消すと言った。
「…落ち着くために吸っただけ。何から話そうかと思ってね…」
「…」
「あなたも座ったら?」
そう言われて、アリアナはマヤの対面に着席する。
マヤは歯で噛みきるように瓶の栓を開けた。アリアナは……ラベルを見て「どうやらこれはお酒らしい」と気付き、そっと自分の分を棚に戻して、代わりにオレンジジュースの瓶を取り出す。
「飲まないの?……ま、そりゃそうか。あなたは乾杯って気分じゃないわね」
「…君は…。どこまで知ってるんだ?」
「あなたの知らないことまで知ってる。それを伝えに来たのよ。
───ヴォルフを助けるために、ね」
そう言ってから、マヤは肩を竦ませる。
「聞くだけ聞いて?……信じるか信じないかは、あなた次第よ。…ま、どうせ私の言うことなんて、」
「信じるよ」
間髪入れずにアリアナが言うと、マヤはヒクリと眉を震わせた。
「……信じるさ。君がどんな気持ちでヴォルフを想っていたかは、アハルティカから少し聞いた」
「………」
「……君が『意味のないことはしない人だ』ってこともね?」
「だからぜひ、君の知っている情報を教えて欲しい」。アリアナがそう言うと、マヤはハン、と鼻で笑った。
「救いようもないほどのお人好しね、あなた」
それを聞き付けて、「ハルもいつかそう言ってたよ」と、アリアナは思わず笑ってしまった。
◇◇◇
マヤはひんやりと冷たい瓶の中身をいくらか飲み下した後────、ゆっくりと口を開いた。
自分は決して勿体ぶっているのではない……ただ、この目の前の緑色の瞳をした人を、恐れていたのだ。
「私は…………生まれた時から変な奴だったわ」
「『変』?」
「そう。頭に浮かんでくるのよ。
真っ白で、生気の宿ってない顔がいくつも、ね」
マヤの言葉を聞いて、アリアナが気遣わしげに身を寄せたのが分かる。マヤはハッと笑い飛ばした。
「あなたが想像してるようなことじゃないわ───あれはそう、文字通り生きてない……多分石膏像ね」
「…『石膏像』だって?」
驚いた様子のアリアナに、マヤは肩を竦める。聞き返されても、自分にだって何が何だか分からないのだ。
「…とにかく。どういう原理かは知らないけど、私はその石膏像のモデルがどんな出身地でどんな家族構成だとか……生涯どんなことをしたりされたりするのか、みたいなことまで、全部頭に入ってたのよ。言葉もロクに話せないほど小さな頃からね」
「…へえ……!」
「世の中不思議なこともあるものだ」とでも言いたげなアリアナの顔を見て、マヤは小さく嗤ってしまった。どうやら、彼女は自分を「頭のイカれた奴」とは思わなかったらしい。
幼い頃、父母に初めてこの話をした時は、「変なこと言うのはよしなさい」、「それはあなたの妄想よ」と叱られたのに。
「ずっと不思議だったけど、特に問題はなかった。でも、9歳頃のある日、全てが変わってしまったのよ。アスガルズ国王が私たちの住んでた小さな村へ視察にやってきた時にね」
「まさか…」
「そう」
と、マヤは頷く。
「彼は私が小さい頃から覚えてた石膏像の1つと、全く同じ顔だった───つまり、その石膏像のモデルは、この世界に今生きている人なんだ、ってこと」
アリアナがゴクリ、と喉を鳴らしたのが、マヤにも分かった。
「…………まさかそんなことが…、成り立つって言うのか??『今』を生きているはずの君が、『今』の情報を持って生まれて来るだなんてことが……」
マヤはじっとアリアナを見つめる。彼女もこちらを見ていた。
「…まだ『人類が明らかに出来ていないだけ』で、世の中には神秘的なことがいくつも起きてる…。それは実際、誰もが感じてるところだ。何年かに一度は、紙面を騒がせる話さ。
我が子が自分の亡くなった親の記憶を引き継いで生まれてきたり、歴史上の人物と同じアザを持つ人が、歴史上の人物と同じ名前や見た目の相手と結婚したり……」
「……………」
「だけど、それは全部『過去』の情報が元になってるものなんだよ。結局は体験者が生まれるより前の情報なんだ。
なのに君のは全く違う…だって、だってそれじゃ君は………」
…アリアナは言った。
「……出来る、ってことか?───未来予知が」
マヤは目を逸らした。
アリアナの瞳に期待の色が見えたからだ。
おそらく、アリアナはマヤがこれからその超能力でヴォルフの居場所を見事言い当てると早合点したのだ。
そんな荒唐無稽な話にも縋りたくなる程、状況は緊迫しているらしい。
「あなたが思ってるほど大層な力じゃないわよ、これは。……問題はそこから」
アリアナが首を傾げる。マヤは腕を組んで指先を忙しなく動かした。
「……私の当時住んでた村は本当に貧しいところでね。歴史の勉強なんて学校じゃ習わない。せいぜい少しの計算と文字が読めれば上等、みたいなカンジだった。
でも、アスガルズ国王の出現で自分の記憶に違和感が出た私は、すぐ勉強を始めたの。遠い町まで歩いていって、歴史書を読ませてもらった。
覚えてる石膏像のモデルは、ほとんどが名のある人間たちばかりだった、って知るのはその後」
マヤはくっ、と頭を上げて見せた。
「私が覚えてる石膏像の中に、私はいない。
…これってどういうことか分かる??」
「………」
「…私は生まれついてのエキストラ。
運命で決められた落伍者で、負け犬なの!!!」
ヒステリックな自分の叫び声を、マヤは必死で押さえた。
自制心があったわけではない。
目の前にいるアリアナに、このやるせなさが分かるわけがないのに、分かってもらおうと必死になってるみたいで、惨めだったのだ。
「それを悟るまでの私は幸せだった。痩せっぽちだったし、肌もざらざら、髪だってぐしゃぐしゃで贅沢なんて夢のまた夢だったけど…!…でも、『家族皆が元気で、明日のご飯さえあれば幸せなんだ』、って。本気でそう思ってたの…!!!」
「…………」
涙は零れなかった。事前に上を向いておいたのが良かったみたいだ。
それでも小さくは無い音ですん、と鼻をすする。
止めどない涙を流す代わりに、マヤはごつごつと貧乏ゆすりをした。
「私の小さな世界は、開けた瞬間に閉じた」
「………」
「───けど、そんなの認められるわけない。認めちゃだめ。
私は……、……私の運命を変えてみせる!」
部屋が静まり返って、マヤの靴が床を打つ音だけが響く。相手が何も言わないので、マヤは嗤った。
「あなたみたいな人には、私の絶望が分かるわけない……。いえ、誰にも分からないはず。
でも、5年前───私は過ちをおかした」
「…『過ち』?」
「そう。今思うと若かったのね。
『何でも痛みを共有出来る』……そんな幻想を抱いて、1人の男を好きになった………。
………<星の子ら>という組織に属する男よ」
その時、アリアナが顔をしかめた。どうやら、騎士である彼女はその存在を知っていたらしい。
「歴史書によるとアールブ公国は、その昔アールブ王国と呼ばれていたの。元々小さな国だったけど、革命が起きて、国は更に2つへと分かれた。今で言うところのアールブ公国と、海を越えた島に追いやられた元国王派たちのスヴァルタイン王国にね。
<星の子ら>は、アールブ人でありながら、公国に正当な後継者を据えて王政を取り戻そうと活動している組織なの」
一応マヤが説明すると、アリアナは神妙な顔でコクリと頷いた。
「たまに平和的でない過激な活動もしているということで、アスガルズ王国側でもマークしている組織だ」
「でしょうね。奴ら、イカレてるから。
…ただ、当時の私にはその恋人がすごく魅力的に見えたのよ。『とにかく現状を変えてやろう』とがむしゃらになっているところが、夢を追ってる自分と重なったのね」
マヤはハッ、と鼻で笑う。
「でもすぐに気付いた。彼が自分の不自由を政治のせいにしてるだけの、つまんない男だってことにね。それと、彼の目的も」
アリアナが丸切り分からない、と言った感じに首を傾げるものだから、なんだかマヤはどうでも良くなって口を開いた。
マントの覆いをめくって、アリアナに顔を見せる。
「この特徴的な肌よ。黒に、薄く緑の星が散ってるみたいな…たしか母方だったかな?会ったことないけど、スヴァルタイン人のおばあちゃんだかおじいちゃんだかの遺伝でね。
アールブ公国には、私が出てきた村以外、こういう肌質は珍しいの。別に差別があるとかじゃないけど、目立つは目立つわね。
…で、<星の子ら>に所属してる彼は、スヴァルタイン人の血が入ってる彼女を持ってりゃ、仲間内でデカイ顔出来るってワケ」
「なんて男だ!」
そう憤慨したアリアナに、マヤはこっそり笑った。
「まあ、それはどうでも良くて」
「良くなんかないっ」
「問題はここから」
「えっ?」
「つい先日、ソイツから連絡があったのよ。別れてからもう4年ぶりくらいかな。『大変なことをしてしまった』、って」
「!!まさか…!」
「そう。『ヴォルフ・マーナガラムを誘拐した』ってね」
その瞬間、アリアナが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「待って、頼むから落ち着いて」
「ど、どこに?!ヴォルフはどこにいるんだ!!他に何か情報は?!言ってなかったか?!?!」
「落ち着いてって!!」
そうマヤが叫ぶと、アリアナは力なく元の席へ座り込んだ。
目を閉じすー…はー…と息をして、ゆっくり顔を上げる。
「……捲し立ててすまない…。あまりにも唐突にヴォルフの話題が出てきたものだから、驚いて…」
「私もその時は驚いたわよ…。レックスさんが消えて、ヴォルフも表舞台に出てこなくなってたから、なんかおかしいとは思ってたけど…」
「……そ、それでその元恋人は何て…?」
「『組織の命令でお前のところの社長を誘拐した』、『このままじゃもっとヤバイことさせられるかも』、『自分は手を引きたい。こちらの情報を流すかわりに、何とかお前から上司に話を付けて、取り成してもらえないか?』、って」
「私はひとまず、『ちょっと考えさせて』と答えたわ」とマヤが続ける。
「そうか…!君の元恋人は、君がマーナガラム商会との契約を終えていると、まだ気付いていないんだな?」
「ええ。契約期間中は商会の名義で私の写ったポスターが死ぬほど貼られてたし、スキャンダルも出したしね。多分、それを見て覚えてたんでしょ」
「だから頼ってくるなんて、現金だな…どこまでも見下げた男だ」
「いやそこ?…ま、それは否定しない。
でも、これが相手の嘘ってこともあるでしょ??吐く意味分かんないけど。
……で、私一度、商会に電話を掛けたのよ。誰かに知らせなきゃと思って。でも私って、商会の人間によく思われてないでしょ?すんごい雰囲気悪くなっちゃって………むしろ、私にヘンな疑いが掛かりそうな勢いだった」
電話口での対応を思い出し、マヤは苦々しい顔をする。それから…、少しだけ居住まいを正した。
「けど、あの女───いえ、アハルティカさんが、私の話を聞くと申し出てくれてね」
「!そうだったのか、ハルが……」
「私は洗いざらい全部話したわ。でも結局、彼女もこれが正しい情報かどうか図りかねたみたい。『レイバンに直接話してくれ、彼はヴァナンの<Strix>にいる』、って。そう言われたわ」
と、そこでマヤは一旦話を切った。
「~~~~っなのに何!?<Strix>に行ったら『レイバン』って傭兵の登録はない、ってはぐらかされるわ、アハルティカさんにかけ直したら今度は『もうヴァナンにはいない』って言われるわ!」
「『大雨の中を1日で国境越え』って、何したらそんなこと出来んのよ!化けモンかっての!!」と、マヤがブチ切れると、アリアナが肩を小さくしてそれを受けていた。
「……あのねぇ。私に明確な捜索状況を教えられないくらい信用がないのは、まだ分かるわ。けど、もっと一般人に優しくしなさいよねッ!!!」
「てか何で変装なんてしてんの?!決起集会で直接会ってなきゃ気付けなかったわよ!」と言いたいことを言い終えたマヤに、アリアナは「苦労を掛けたね…」と申し訳なさそうに応える。
「…事情は分かったよ。けど、お求めのレイバンはもうアールブにはいないんだ。どうやら入れ違いになったみたいだね」
「………はァ~~~~っ?!?!」
「じゃあ私の頑張りは何だったのよ!!」とマヤが肩を落とした時、アリアナが言った。
「問題ない。この場での指揮は、私に任されているからね。
私が君を『信じる』と言った以上、レイバンもそれを了承するはずだ」
「!…」
マヤは黙ってアリアナを見つめた。そのきらきらと輝かしい、緑の両目を。
「あなたの協力に感謝します。マヤ・ジナー・ハスケルさん」
「……………………」
マヤは「あっそう。じゃあ私はこれで」と、立ち去ったって良かった。<星の子ら>という最大の手がかりはもう伝えたし、アリアナはこちらを疑ってなどいないのだから。
ゆえに、これ以上は彼女と話す必要なんてない───と、分かっていたけど、マヤは口を開いた。
「ねぇ、その『ハスケルさん』てのやめてよ。私は………わたしは、」
マヤが言葉に詰まった時、アリアナは何も言わなかった。
マヤはそんな彼女の態度がうざったくて、恐ろしくて、吐き捨てるように言う。
「『マヤ』よ。ただ『マヤ』だけ」
「『マヤ・ジナー・ハスケル』は芸名なの」と、開き直るみたいにマヤは続ける。
「…ふふ、アスガルズ貴族に所縁がある人だと思ったでしょ?間にアスガルズ建国史の『名前』があるから。
でもね、これはただ舐められないためのこけ威し!」
自分で言っていて、マヤは切なくなった。目の前のいまいちピンと来ていない様子で「そうだったのか」と頷くこの人は、きっと理解していない。
身の丈に合ってなくても、例え嘘でも、とにかく着飾って着飾って、それでようやっと世間と戦える──。
(そんな風に想う私の気持ちなんて、ね)
「とにかく、マヤでいい」
「そうか。じゃあ私のこともただ“アリー”と。いや、今は“アル”かな」
そう言って、アリアナが手を差し出してくる。マヤはじっと、その温かそうな手を見つめた。
「………あなたって。いつもそうなの??」
「何がだ?」と聞かれる前に、マヤは言う。
「私にとって、ヴォルフ・マーナガラムという男は、社会を生き抜くためのライバルであり、パートナーであり、理想の姿だった。あんな男、誰だって好きになるわ。でも……」
マヤは口ごもる。うつむき、ただ床の木目だけを見つめていた。
「私は故郷も家族も、恋人も友達も、全部全部捨ててのし上がってきた。夢を掴むため。……運命を、変えるために」
踏まれて色を濃くした床板の年輪は、元の木の始まりと終わり、そしてこの店自体の歴史を感じさせている。
「でもきっと私、誰かのために自分の何かを捨てることなんて、絶対出来ないのよ………」
そうポツリと呟く。
マヤは集会でアリアナと会った時から、本当は尋ねたかったのだ。「あなたは貴族夫人としての未来を捨てるハメになったのに、どうしてそんなに幸せそうなのか」って。でも、プライドが邪魔して聞き損ねた。けれど、アリアナにとって一番欲しいネタを持ってきた今なら。…きっと、話を聞ける。
「私は───ヴォルフのために何かを捨てたなんて、思っていないよ」
「……………」
「………ああ、敵わないな」───と。マヤは思う。
負けた。大負けだ。
惨めすぎて、マヤはみっともなく泣きわめきたくなった。
まずい、今回はうつ向いているから、涙が零れ落ちてしまうかもしれない!
そう考えたマヤが、根性で顔を上げた時───初めて、その人が穏やかな目をしていると気付いた。
「多分、そもそもが捨てなくて良いんだ。……誰だってきっと」
「君もね」とアリアナが笑う。
「だからマヤ、君の何かが足りないわけじゃない───むしろ、『そうしなくちゃ』と考えられる君は、誰より真剣で、ストイックで、純粋なだけだったんだよ」
(……………)
マヤは眉をしかめた。
「お願いだ。どうか、『捨てられない自分は人より劣っている』だなんて、思わないでくれ………だって大半の人は、それをやってないんだから。少なくとも私は、君が全てを捨てることなんて望んでいない──ただ君は、ずっとずっと、これまでもこれからも、素晴らしいだけだったんだよ」
「……、……そう。なのかしら…………」
…………自分が思ってるより、周りはもっと気楽に生きているのかもしれない。
マヤは混乱する。
『何かを得るためには、何かを捨てなくちゃいけなくて』、『極力捨てないためには、絶対的な強さが必要』──なんじゃなかったのだろうか、この世は……??
「………じゃあさ、…じゃあ、」
「捨てなくて良い」───いや、その「捨てる」という表現すら浮かばないほどの人生。
そんなものを歩んできた「もしも」の自分なんて、マヤには想像も付かない。
「わたしって………なんのために、今日までがんばってきたのかなあ…っ??」
「もちろん、今日のために頑張ってきたんだよ」
そう言って、アリアナが笑った。
彼女は泣きじゃくる自分を嘲っているのではない。理解しているのでもない。ただ受け止めているのだと、マヤにもようやく分かった。
それで、マヤは恐る恐る手を出し、アリアナと固く握手を交わしたのである。
「────ふん。みっともないとこ見せたわね。個室で助かったわ」
「私も、君が店主と懇意で助かったよ」
「まあ、アールブ公国にいた時はよく使ってたから」
そう言いつつ、マヤとアリアナが個室を出る。
「…アル、やっぱりあなたと話せて良かったわ。代わりに情報を持ってきて正解だった」
「私もマヤと話せて良かった!本当にありがとう」
「…これから…どうするつもり??」
「そうだね…レイを呼び戻したり、<星の子ら>の素性と根城を探すとか、色々とやることはあるけれど。
───まずはこれだね!」
そう言ったアリアナが、ぎゅっとマヤの手を握る。
「え?!」
「<Strix>まで送るよ。レイバンの到着を待って話をしてから、<Strix>でアスガルズかミズガルダか…君の行きたいところまで護衛を雇うといい。ああ、まずは今日の宿までかな??」
「………いや、何言ってんの?過保護すぎでしょ…」
アリアナの自分より幾分か分厚く大きな手で優しく握り込まれると、何だか安心するような、ムズムズするような、妙な気持ちになる!
それを悟られたくなくて「放してよ!子供じゃないんだしさ」とマヤが言った瞬間、アリアナが一歩前に出て、2階ラウンジの手すりに手をついた。向き合っているアリアナとの距離は僅かもない。
「…………!!」
「………ほら。やっぱり」
「…え?」と聞き返すと、アリアナが声を低くして囁く。
「君。尾行けられてるぞ」
「……はッ!?」
「………静かに。相手は1階のラウンジからこちらを見ている。…男だな」
「………元カレっ?!」
「……いや……君がこの国に来ると言っていないなら違うと思う。だが、少なくとも店に来る前まではもう尾行けてきていた。……心当たりは?」
「ないわよ…!」
「…あ」
「何よ!」
「写真を撮られた」
「…写真………?…あ!」
そこまでいってようやく合点がいく。
「ガセネタの記事を書かせた記者!──さてはアイツ、切った報復に私のスキャンダルを狙おうとして…!!」
「そういうことか。…なぜか今も随分と熱心に撮っているけれど…大丈夫かな」
と、アリアナが首を傾げている。
……マヤは眉間を押さえて深くため息を吐いてから、「…もういい、行こッ!」とアリアナの手を引いてラウンジの階段を掛け降りたのだった。
次回更新は5月を予定しています!お待たせして申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。




