11.虫の音
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マリアたちが来てから、俺のルーティンは変わった。
訓練の時間は早朝ではなく、朝食を食べてからになった。
「無駄に早い。オレは朝が苦手だからもっと遅くしろ」
仕事は昼飯までの少ししかやらなくなった。
「オレが来ているのに呑気に仕事か? 成果を示せ雑巾」
夜、俺がアテナに勉強を教えている時は必ずマリアとアリスの二人も加わるようになった。
「貴様が兵法の何を知っているんだ? 雑巾ほどしか蓄えられない頭で知識を教えるなど、何を考えている?」
王族だと知っているのは俺とアテナだけだが、他の面々も身分の高さはなんとなく察知しているから、反対する者もいない。さらに、十日に一度外で開催されるバーベキューのような催しに参加しては、親睦を深めているから余計に反対されなくなる。
マリアの社交性は、はっきり言って上手いと言わざるを得ない。
上から目線の態度はそのままのくせに、思わず感心してしまうほど褒めるのがうまい。
「熊男……ジャックだったか。貴様の手は薄汚れて傷だらけだろうが、誇れ。オレが許す。オレがその献身を認めてやろう」
とまあ、こんな感じでジャックと話しているのを目撃した。俺に対する態度と違いすぎたせいで、意図せず目を見開いてしまったほどだ。
ついでに言うと、アテナに対しても相変わらずに甘い。現にたった今、
「思った以上の出来だ、小娘。正々堂々などと甘ったれた事を言うだろうと思っていたが……なあ、生きている以上一つは取り柄があるものだな、雑巾」
ある日、家の前でラフテノとアテナの組手が終わった直後、マリアは何の脈絡もなくそう言った。
これまでただ黙って俺たちの訓練を眺めていただけだったのに、唐突すぎる発言だった。
「そこの……チビもだ。このまま訓練を続ければ優秀な兵士になる。邁進しろ」
「え……はいっ!」
ラフテノは肩を強張らせながらも、少し嬉しそうだ。まあ、ラフテノはマリアが来てから、マリアの見た目にメロメロでずっと鼻の下を伸ばしている状態ではあるんだが。
「ところで、初日は訓練に参加していたあいつは参加しないのか」
マリアは俺に顔を向けた。
初日と言えば、ピエールの事だろうか。
ピエールはマリアたちが来て一日を通して訓練するとわかると、すぐさま仕事へ注力している。人手が一気に三人も減った事もそうだし、何よりアテナを見てもう必要ないと判断したのだろう。
考えるだけして答えるのをやめた俺を見て、アテナは遠慮がちに口を開いた。
「あの、お兄ちゃんは仕事に集中したんです。その、三人抜けることになっちゃったので」
「奴も奴で優秀な兵士になりそうではあったが……そうか」
その後、マリアはアテナに対してアドバイスを始めた。不意打ちは強いとか、戦闘中だって意識が抜ける時があるとかの、より具体的なアドバイスだった。
俺が感覚でやっている事をうまく言語化していたため、俺は少し機嫌が悪くなった。
「ケイくん、不貞腐れてるの? 可愛いね」
そこへすかさずやってきたのがアリスだ。
「……何か用スか」
「んふふ。拗ねてるのも可愛いねケイくん。でも安心して。マリア様はね、本当に天才なの」
「だからなんだよ」
「万能の天才って言えば、わかるよね」
万能の天才だあ? レオナルドさんに殴られたいのかこいつは。
「信じてないでしょ」
「クソガキのまま見た目が大人になっただけの性悪だろ」
「あははー。否定できないね」
「……お前、本当に付き人だよな? あいつ王女だよな?」
「でもね、性格と能力って関係ないんだよ。知ってるよね」
アリスは俺を無視して話を進める。
「マリア様はね、頭が良すぎて未来予知みたいな世界が見えてるの」
「……胡散くさ。魔法持ちだろ」
「ううん。こうしたらああなる、これをやるとそうなる、っていう方程式をすぐに解けちゃうの。それも何事においてもね。すごいでしょ」
「……ならこのまま俺の反感買ってると殺されるってのもわかりそうなもんだけどな」
「そうしたら、ケイくんはお尋ね者だね? スラムに戻る?」
「……それも、未来予知か? いい趣味じゃないな」
一瞬どこで知ったのかと問い詰める気だったが、コレットの殺害犯と疑われた時に匂わせたのを思い出した。
「こんなの、あの地域の事を知ってたら誰だって思い当たるよ」
アリスは笑った。
「でもね、そうじゃないよ。マリア様はなんでもできる。現実的にできる事なら、なんでも。けれどね、ケイくん。ケイくんの事は予想できないんだって」
「ずいぶんポンコツな万能だな」
「不思議だよね」
アリスはくすくすと笑うが、俺は面白くもなければ意味もわからない。
光のない静寂が恋しい。
何の気配もなく、事この世界においては命の危険のない状況。そういった状況にならないと、深い睡眠に入る事ができない。
思えば前世からそうだった。住んでいたのが田舎だったからか、夜になると遠くのサイレンしか聞こえてこない世界での安眠が、俺は好きだった。
木造の家の中にいるならば、虫の声も許容できる。日本人は虫の声を背景として認識する特殊能力のような感覚を持っているらしい。その感覚が残っているから、うるさいとは思っても無視できる。
ところが、今はどうだ。薄っぺらい布一枚を物ともしない虫の喧騒は、俺の睡眠を邪魔して憚らない。震度一はあるんじゃなかろうか。
マリアたちに部屋を奪われてから、俺の寝床は野外テントへと押しやられた。砂や埃はもちろん、千切れた草やどの穴から出たのかわからない糞まで侵入してくる有様。
俺はそれを放置したって構わない。しかし、社会性というのは面倒なもので、掃除しなければ社会的評価が落ちてしまう。掃除の手間が増えた分、スラムよりも過酷な寝床と言えるかもしれない。
ついでに言うと、今まさに肌の露出が少なくない寝巻き姿のソアラが俺のテントへと侵入してきたのも障害と言える。
「こんばんは」
「……ああ」
ソアラは少し照れくさそうにはにかんだ。
これで、ソアラが俺のテントへやってくるのは都度三度目だ。この時間になると、ソアラは何某かの理由をつけて俺のテントへ訪ねてきた。
一度目は仕事について。二度目はラフテノについて。どちらも悩みというよりも愚痴のようなものだった。
だから今回もきっと、きっかけを持ってくるものだと思っていたんだが。
「今日はどうしたんだ」
「ケイさんとお話したくって」
「……今から寝るんだが」
「すみません。でも、私なんだか眠れなくって。だから少しだけだめですか?」
こいつ、性別の使い方をわかってるな。どこで知ったんだが知らないが、男が断りにくい状況と女の武器をよく理解できている。
俺は俺で、男女のあれこれとは関係のないところで断れない。それすらもソアラがわかっているなら、いっそ拍手を送りたい気分だ。
「聞いてください。今日馬からおっこちちゃって」
ソアラの話を聞いているのか聞いていないのか、自分でもよくわからない状態で相槌と合いの手を入れ続けた。
女と二人きりという状況が俺には毒だ。
若い体はそれなりに性欲が湧き出てくるため、俺はたまに発散している。のだが、目の前に女がいて性欲を抑えつけなくてはならないという状況は、久しくなかった。
ちょっと想像してみよう。
ぱっと思いつく選択肢は三つ。
まずこのまま何も考えずにレイプする。当たり前だが、レイプなんかした日にはこの集落での信頼は消え失せ、仕事などもらえなくなり、追放。それでもいいんだが、今の流されるままの生活は惜しい。
二つ目はソアラを口説いてセックス。そうなればこの集落どころか、トラジスまでまたたく間に伝播するだろう。俺は責任をとらされて、ソアラと結婚する事になる。普通に考えるならばハッピーエンドなんだが、女なんて与えられた恩を息するように仇で返す生き物だ。信じられるわけもない。
三つ目。実質俺が選べる選択肢はこれしかない。このまま馬鹿なフリして硬派な男を演じ続ける。今の安定した生活を長生きさせたいなら、そうやって問題を先延ばしにするのが一番だ。
しかし、欲望側から見ると地獄である。
胸元を見せていないとは言え、夏になろうという時期の寝間着の丈は短い。そのため、それなりに肉付きのいい太ももがちらちらと見えてしまう。スラムの女と違い、清潔さもある。
今すぐむしゃぶりつきたい……
「ケイさん、聞いていますか?」
「ん……ああ。今日もよく働いてたと思う」
それからしばらくしてソアラは帰っていったが、もう俺のテントには来ないで欲しいと思った。
虫がうるさい。




