第6話 (咲夜視点)幼女師匠のいる仕事場
(黒瀬咲夜 視点)
カチ、カチ、カチ……ッターン!
静かな部屋に、小気味よいマウスのクリック音と、エンターキーを叩く音が響く。
私の仕事場兼自宅であるこの1LDKは、一ヶ月前とは様変わりしていた。
私は液タブ(液晶タブレット)に向かってペンを走らせながら、背後のデスクに声をかける。
「師匠、進捗どうですか?」
「順調でしゅ。12ページから16ページまでの仕上げ処理、完了。効果線と背景トーンも入れ終わりまちた。現在は18ページのモザイク処理を行っていましゅ」
「……ありがとう。助かります」
私は引きつった笑みを浮かべて、振り返った。
そこには、人間工学に基づいた高級オフィスチェア――の上に、さらに子供用の補助椅子を乗せ、器用にマウスを操る一歳の幼女の姿があった。
師匠こと、南雲亜璃紗ちゃん。
隣の部屋の住人にして、私の漫画のアシスタント兼、シチュエーション・アドバイザーだ。
栗色のふわふわした髪に、雪見だいふくのように白くなめらかな肌。
長い睫毛に縁取られた瞳は、ビー玉みたいに大きく、キラキラと輝いている。
どこに出しても恥ずかしくない、天から舞い降りた天使のごとき美少女だ。
あの日――ベランダ越しにLANケーブルを繋いだあの日から、一ヶ月。
彼女は宣言通り、通信費の対価として、私の仕事を手伝いに来るようになった。
とはいえ、彼女に絵を描くスキルはない。
だから私が教えたのは、漫画制作ソフトの基本的な操作。
レイヤー分け、フキダシへの台詞入力、トーン貼りなどの仕上げ作業、そして――局部のモザイク処理。
「……ここ、ちょっと修正漏れでしゅね。拡大して……ドット単位で隠しましゅ」
その愛くるしい瞳でモニターを凝視し、あられもない男女の絡みに、的確に修正を入れていく一歳児。
絵面が犯罪的すぎる。
児童労働とかそういうレベルを超えて、倫理的にアウトな気がしてならない。
「咲夜しゃん」
「は、はい!」
「ここの台詞なんでしゅが――」
師匠が手を止めて、画面を指差した。
「『やめて』だと弱いでしゅ。ここはシチュエーション的に、男の征服欲を煽る場面でしゅから、『もっと』と言わせつつ、表情だけ泣かせるべきでしゅ」
「あー……なるほど。言葉と裏腹な態度ってやつですね」
「そうでしゅ。男というのは、そういう矛盾にグッとくる生き物なんでしゅ」
小首を傾げ、さくらんぼのような唇から放たれるのは、ゴリゴリの男性向けの性癖理論。彼女の助言は、技術的なことではない。「男はどう感じるか」「どういうシチュエーションが燃えるか」という、概念的なアドバイスだ。
これがまた、悔しいくらいに的確なのだ。
彼女が監修に入ってから、私の漫画は「とてもヌける」「男のツボを分かってる」と、担当編集や読者から絶賛されるようになった。
中身が変態紳士のおっさんに監修してもらってるから、当然と言えば当然なのだが。
「ふぅ……モザイク処理、全ページ完了しまちた」
アリサちゃんは、小さな手でマウスから離れ、ふうっと息をついた。
休憩の合図だ。
「お疲れ様、師匠。休憩にしよっか」
「いただきましゅ。糖分は脳のガソリンでしゅからね」
私は台所から、赤ちゃん用のソフトせんべいと、麦茶を入れたストローマグを持ってきた。
亜璃紗ちゃんは、袋に入ったせんべいを受け取ると、短い指でつまんで開けようとする。
しかし、赤ちゃんの握力では、ビニールの包装を破ることができない。
カサカサ、カサカサ。
一生懸命、小さな手で格闘している。
むちむちとしたクリームパンのような手。
うまくいかなくて、ぷくーっと膨らんだ柔らかそうな頬っぺた。
さっきまでパソコンで成人向け画像の処理をしていたとは思えない、破壊的な愛らしさだ。
「……あー、貸して。開けてあげる」
「……面目ない」
私が袋をピリッと破って渡すと、彼女は少し悔しそうに、それでも嬉しそうに「ぱあぁ」と花が咲いたような笑顔を見せた。
彼女はせんべいを両手で持ち、サクサクと小動物のように齧り始めた。
「……ねえ、師匠。実は次回作のテーマ、どうしようか迷ってて」
私は自分の分のコーヒーを啜りながら相談した。
最近、ネタがマンネリ気味なのが悩みだったのだ。
「何か、いいアイデアないですかね?」
「ふーむ……」
アリサちゃんは少し考え込んでから、バリンとせんべいをかじり、断言した。
「バブみ、でしゅね」
「ば、バブみ?」
「そうでしゅ。最近のトレンド、そして社会に疲れた男性諸君が求めている究極の癒やし。それこそが母性……すなわちバブみでしゅ! バブみこそ最強なんでしゅ!」
力説する彼女の澄み切った瞳は、妙に切実だった。
「包容力のあるお姉さんキャラによる、絶対的な肯定と許し。これで行きましゅ」
「なるほど……確かに需要はありそう」
「ありましゅ! 私が保証しましゅ!」
食い気味だ。
まあ、師匠が言うなら間違いないだろう。
ただ、ふと疑問に思う。
「……でもさ、師匠。バブみバブみって言うけど」
私は、アリサちゃんの母親――南雲美結さんを思い浮かべた。
美人だし、愛想はいい。でも、生活能力は壊滅的だし、一歳の娘を置いて平気で男のところへ泊まりに行く。
お世辞にも「母性」や「包容力」があるタイプとは言えない。
「師匠のお母さんって、そういうキャラとは真逆じゃない?」
ネグレクト気味の母親を持つ師匠が、なぜそこまで「バブみ」を熱く語れるのか。
むしろ、飢えているからこその願望なのだろうか。
しかし、アリサちゃんはチッチッチッ、と人差し指を振った。
「ノンでしゅ。咲夜さんは分かってまちぇん」
「分かってない?」
「確かに美結はだらしないですし、親としては赤点でしゅ。でも、あの人には最強のバブみジェネレーターが備わっているんでしゅよ」
「バブみジェネレーター?」
亜璃紗ちゃんは、天使のように清らかな顔で、真剣な顔で両手を前に突き出し、大きな球体を描いてみせた。
「おっぱいでしゅ」
「…………は?」
私は呆気にとられた。
この可愛い生き物は、今なんて?
「あの豊満な双丘は、国宝級でしゅ。柔らかさ、弾力、そして包容力。顔を埋めれば全ての悩みが吹き飛び、吸い付けば脳髄が痺れる。あれぞまさしく母なる大地……最強のバブみでしゅ!」
「…………」
私は大きく口を開けたまま、固まった。
いや、確かに美結さんはスタイルがいい。胸だって大きい。それは認める。
でも、もっと大事なものってあるだろう。
おっぱいが大きければいいのか。男ってやつは……!
……ん? 待てよ。
「あのさ、師匠」
「なんでしゅか?」
「今、『吸い付けば』って言いました?」
一歳。そろそろ卒乳していてもおかしくない時期だ。
ましてや中身は三十代の男性。
当然、おっぱいは卒業しているものだと思っていたが。
亜璃紗ちゃんは、少し慌てたように居住まいを正した。
「ご、誤解しないでくだちゃい、咲夜さん」
「誤解?」
「私は、あくまで栄養学的見地から摂取しているだけでしゅ!」
彼女は短い指を立てて、早口にまくし立て始めた。
「いいでしゅか? 母乳には免疫グロブリンIgAをはじめ、ラクトフェリンなど、幼児の未発達な免疫系を補完する重要な成分が含まれていましゅ。WHOも二歳頃までの授乳を推奨しているくらいでしゅよ?」
「はあ……」
「つまり、これは合理的な生存戦略なんでしゅ! 好きで飲んでいるわけではありまちぇん! この脆弱な肉体を守るために、苦渋の決断として、必要不可欠な栄養素を取り入れているに過ぎないんでしゅ!」
顔を真っ赤にして言い訳する師匠。
潤んだ瞳で上目遣いに訴えられても、その必死さが、逆に怪しい。
「……ふーん」
「な、なんでしゅか、その疑わしげな目は」
「いや別に? ただ、さっき『バブみ最強』って言ってた人が言うと、説得力ないなーって」
「うっ……」
「本当は? おっぱいが好きだから、卒乳していないだけじゃないんですかぁ?」
私がジト目で問い詰めると、アリサは視線を泳がせ、最後に小さく呟いた。
「……仕方ないんでちゅ。それだけの魔力がアレにはあるんでちゅ」
「素直でよろしい」
私は、ハァ……と深いため息をついた。
結局、本能には抗えないらしい。
これが、バブみの魔力か。
「まあ、師匠が幸せならいいですけど……」
「幸せでしゅよ。この体で生まれて何度か死にかけてまちゅが、差し引きで言うとプラスだと思ってまちゅ」
「……それは、どうなんです?」
幸せそうに無邪気に笑うけど、それでいいのか、あんた。
「ま、何かあったらすぐ言ってくださいよ。隣に住んでるんだから」
「はい。その時は、全力で頼らせてもらいましゅ」
「その代わり、これからもビシバシ働いてもらうから」
「望むところでしゅ。……さて、休憩終わり! 次はテキスト入力に入りましゅ!」
彼女はキリッとした顔で、再びパソコンに向き直った。
小さな手がキーボードを叩き、あられもない喘ぎ声を打ち込んでいく。
奇妙な共犯関係。
秘密の師弟関係。
私の静かだった日常は、このかわいい小さな変態紳士のおかげで、騒がしくも刺激的なものに変わってしまったようだ。
(でもまあ……悪くないかな)
私はペンを握り直し、師匠の指示通りに、ヒロインの表情をより扇情的に修正し始めた。
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