第34話 放課後の告白
秘密基地にあかりが来た翌日の放課後。
旧校舎の秘密基地――第二理科準備室の扉を開けると、そこには燃え尽きた灰のような物体が転がっていた。
「……おい、ウタ。生きてるか?」
俺が声をかけても、ビーズクッションに埋もれた一ノ瀬詩はピクリとも動かない。
顔は土気色で、瞳は焦点の合わないまま虚空を彷徨っている。
口角からは、今にも魂が半分ほどはみ出しそうに見えた。
「うーちゃん、どうしたの? お腹いたいの?」
一緒に来たヒナが心配そうに顔を覗き込み、ぺしぺしとウタの頬を叩く。
ウタはゆっくりと、錆びついたロボットのような動きで首だけをこちらに向けた。
「……うぅ……私は貝になりたい。深い海の底の砂の中に、ずっと引き籠っていたい……」
「小学生が何を言ってるんだ」
俺はランドセルを置き、やれやれとため息をつきながら隣に腰を下ろした。
昨夜、ウタと父親の間で「対話」が行われたことは知っている。
その結果が、彼女にとって衝撃的なものだったのだろう。
「……何があった? 話してみろ。少しは楽になるぞ」
俺が促すと、ウタは深海魚が最期に吐く泡のような、重苦しい溜息を漏らした。
「……昨日の夜、父さんに呼ばれたの。レッスン室に」
ウタの声は、今にも消え入りそうに震えていた。
「父さんの前にタブレットが置いてあって……画面には『Screaming』のMVが映ってたの」
「……うわぁ」
「私の目の前で最後まで聴かされたのよ。一音も、一言も逃さずに……」
ウタはクッションをぎゅっと抱きしめ、顔を埋める。
「私はね……誰にも届かない暗い穴に向かって『王様の耳はロバの耳』って叫んで、急いで土をかぶせて埋めた――それくらいの感覚だったのよ。それを掘り返されて、よりにもよって父さんに鑑賞されるなんて……」
「……」
「消えてしまいたくなるくらい恥ずかしかった。自分の中の汚いところをかき集めて吐き出した排泄物を、世界一厳格な父さんに分析される地獄……想像できる?」
ウタは頭を抱えてクッションの上でのたうち回った。
確かにそれはきつい。彼女にとってあの曲は、剥き出しの感情そのものだ。それを父親に直視されるのは、日記のポエムを朗読される以上の拷問だろう。
「……聴かされただけなら、まだ耐えられたかもしれないわ」
虚ろな瞳で、ウタが天井を見上げる。
「父さんは聴き終わったあと、そのままピアノの前に座ったの」
「……え?」
「弾いたのよ。私の『Screaming』を」
「ブフォッ!?」
俺は思わず吹き出した。
「聴き終わった直後に無言で鍵盤に向かって……あの最高級のスタインウェイで! 私がトイレの落書きみたいに書きなぐったメロディを! 世界のマエストロが! 大真面目な顔で! 超絶技巧で再現し始めたのよ!!」
「……それは、キツイな。色んな意味で」
想像するだけで胃が捩れそうだ。
娘が衝動のまま吐き出した音を、父がプロの技術で完璧な楽曲として解体・再構築していく。
それはもはや、芸術という名の公開処刑だった。
「『ふむ……ここの不協和音は意図的か』とか、『ペダルで濁らせているが骨格はこうだな』とか、解説まで加えながら……!」
ウタは涙目で訴える。
「やめて……綺麗に弾かないで……! 私の汚い叫びを、美しい旋律に昇華しないで……! ……あれはもう、死刑宣告よ。本気で舌を噛み切ろうかと思ったわ……」
「……で、弾き終わった後に何て言われたんだ?」
一番肝心なところを尋ねると、ウタは少しだけ沈黙した。
「……『私には正直、理解できない音だ』って」
「まあ……純粋なクラシックの人間からすれば、そうかもな」
「でも、そのあと……」
ウタはゆっくりと顔を上げた。
そこには、戸惑いと、名付けようのない熱が混じった瞳があった。
『だが――この音は、多くの人の心に届いたのだろう。数字がそれを示している』
困ったような表情で、ウタの父親は続けたという。
『理解はできない。だが、他者の心を動かす音を創造できたのなら、それは素晴らしいことだと思う』
俺は思わず息を呑んだ。
あの一ノ瀬響が。自分の音楽的価値観の外側にある娘の音を認めたのだ。
「それでね……曲の権利管理は父さんの代理人が全部やることになったわ。『世に出して評価された以上、それはもうプロの仕事だ。契約関係もきちんとしなければならない』って……」
ウタは絶望した顔のままだったが、その頬には微かな赤みが差している。
恥ずかしい。
自分の恥部を、あろうことか父親の手で演奏されてしまった。
でも――否定はされなかった。
その現実に、彼女自身がまだ一番、追いつけていないようだった。
「すごいじゃん!」
ヒナがニカッと笑い、ウタの背中をバシッと叩いた。
「うーちゃん、ずっと言ってたじゃん。『お父さんに認めてもらいたい』って。願いが叶ったんだよね! おめでとう!」
「い、痛いってば! あんたねぇ、もっと複雑な乙女心が……」
「複雑じゃないよ! パパは素晴らしいって言ったんでしょ? だったら、それが全部だよ!」
ヒナの単純明快な肯定に、ウタは毒気を抜かれたように肩を落とした。
「……はぁ。あんたには敵わないわ」
苦笑とともに、顔を覆っていた手が外れる。
そこにあったのは、さっきまでの絶望ではなく――照れと、安堵と、隠しきれない誇りだった。
形はどうあれ、ウタは一番見せたくない部分をさらけ出し、父に受け止められた。
その横顔が、少しだけ遠くて、眩しく見えた。
なのに。
俺の胸の奥には、小さな棘が残ったままだった。
(……ウタは全部晒したのに、俺だけ安全圏か)
親友として傍にいる。
そう決めたのに、俺は嘘で固めた南雲アリサという殻の中に引き籠ったままだ。
何もかも隠して、普通の小学生のフリをしてウタの覚悟を眺めている。
(……それは、あまりに卑怯だろ)
俺は拳を強く握りしめた。
ウタが腹を割ったんだ。なら、俺も割らなきゃ嘘だ。
「……ウタ。ヒナ。ちょっといいか」
努めて真面目な声を出すと、二人がきょとんとこちらを見る。
「俺は……お前らに、ずっと隠してることがあるんだ」
「え?」
心臓が、耳の奥でうるさく鳴る。
気味悪がられるかもしれない。嫌われるかもしれない。
それでも、これ以上隠し事をしたまま隣に立つ自分を、俺自身が許せなかった。
「実は俺……VTuberなんだ」
俺はスマホを取り出し、AL1-SAのチャンネル画面を二人に見せた。
「このAL1-SAの中身は、俺だ。……ずっと黙ってて悪かった」
言った瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。
空気が凍りつく――そう覚悟した。
「……はぁ」
返ってきたのは、ウタの盛大な溜息だった。
「……今さら?」
「……はい?」
「あんたねぇ……なんで隠せてると思ってるのよ」
ウタはジト目で俺を睨んだ。
「あんた、全然隠そうとしてないじゃない。配信での話し方を聞けば、AL1-SAがあんただなんて誰でも気づくわよ。学校行事のネタだって、隠すどころか擦り倒してたし」
ウタは呆れたように肩をすくめ、指先でこめかみをとんとんと叩いた。
「むしろ、バラしてくれっていうフリなのかと疑ってたレベルよ」
「ぐっ……」
「それに、星空ルナがあんたの家に来て、あんなに親しげにしてるのも普通じゃないでしょ」
「……あ」
言われてみればその通りだ。
秘密にしているつもりで、証拠物件を自分から積み上げていた不用意な自分に、今さらながら気づかされる。
「プライベートで仕事の話を振られるのは嫌かなと思って、あえて黙っててあげたのよ」
「……お気遣い、痛み入ります」
俺はガックリと項垂れた。なんだ、その大人顔負けの気遣い。
「ありちー、すげー!!」
ヒナが目をキラキラさせて飛びついてきた。
「ありちー有名人だったんだ! 登録者数すごーい!」
「……ウタに抜かれたけどな、一瞬で」
「私の友達、有名人ばっかり!」
「ヒナ……お前、驚かないのか?」
「驚いたよ! でも、ありちーはありちーでしょ? すごいね!」
ヒナの反応はあまりにも軽かった。
VTuberだろうが何だろうが、友達である事実は揺るがないらしい。
……ありがたい。
だが、まだ終わりじゃない。ここからが本当の地雷原だ。
「……それだけじゃないんだ」
喉がひりつく。
VTuber活動なんて、単なる活動の一環に過ぎない。
俺の存在そのものに関わる、最大の秘密。
「俺は……転生者なんだ」
「てんせー?」
「ああ。前世の記憶がある。……俺の中身は、小学二年生の子供じゃない」
自分の胸に手を当てて、言い切る。
「前世は三十代のサラリーマン……くたびれた『おっさん』だったんだ」
今度こそ空気が凍りつくのを覚悟した。
クラスメイトの中身がおっさんだったなんて、どう考えてもホラーだ。
ウタとヒナが顔を見合わせる。
そして。
「「へー」」
綺麗にハモった。しかも、驚きよりも「やっぱりね」と言いたげな納得のトーンで。
「……へー、って」
拍子抜けして声が裏返る。
「お前ら、もっとこう……あるだろ!? 気持ち悪いとか、詐欺師とか!」
「……別に?」
ウタは肩をすくめた。
「あんた、配信で堂々と言ってたじゃない。自分はおっさんだって」
「……あ、そういえば」
「そもそも、一年生の授業中に簿記の本を広げてる時点で、普通の子供じゃないでしょ。中身がおじさんだって言われた方が、よっぽど納得できるわ」
「たしかにー!」
ヒナも元気よく頷いた。
「ありちー、言葉遣いとかたまにおじさんくさいもんね! そっかー、おじさんだったんだー! 謎が解けた!」
「……」
俺の数年間にわたる苦悩と葛藤は、一体何だったのか。
どうやら俺は、最初から変なヤツとして彼女たちの中で処理されていたらしい。
「……隠してて、ごめん」
俺が小さく頭を下げた、その瞬間だった。
ふわりと、柔らかな温もりが胸元に飛び込んでくる。
「え……?」
顔を上げると、ウタが俺に抱きついていた。
細い腕が、ためらいもなく背中に回されている。
「……バカね」
耳元でくすっと笑う声。
そこに嫌悪はない。
ただ、呆れと――揺るぎない親しさだけがある。
「わたしもー!!」
どん、と横から勢いよく衝撃。
ウタまで巻き込むように、三人まとめて抱きしめる形になった。
「ちょ、苦しい……!」
「いいじゃない」
ウタは顔を離し、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「……私だって、あんたには恥ずかしいところ――全部知られてるんだから」
そして、覚悟を決めたように真っ直ぐ俺を見た。
「あんたになら、私の曲を全部聴かれてもいいと思ってるのよ」
それは飾り気のない、彼女なりの最大級の信頼だった。
中身が何者かなんて関係ない。アリサだから――ただそれだけ。
胸の奥に引っかかっていた棘が、静かに溶けて消えていく。
(……俺が怯えてただけかよ)
「……ありがとう」
俺もそっと、二人の背中に手を回した。
小さな体温が重なる。不思議なくらい、安心した。
ウタの恥部と、俺の秘密。
互いの一番深いところを見せ合った俺たちは、もうただの友達じゃない。
――秘密を共有した、正真正銘の親友になったんだ。
「さて――腹を割った記念ってことで!」
俺は立ち上がり、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「いままで黙っていたお詫びがわりに、何か食べに行こうぜ! 寿司か? 焼肉か? 遠慮するな。俺はそこそこ売れているVTuberだからな! 高い肉でも何でも奢ってやるぞ!」
俺はふんぞり返って、大人の甲斐性を見せつけた。
だが、ヒナは顔をしかめて鼻をつまんだ。
「うわぁ……ありちー、発想がおじさんくさーい!」
「グフッ……!?」
俺は鳩尾に一撃を食らったようによろめいた。
「ヒナ。こいつは正真正銘のおじさんなのよ。おじさんくさいのは当たり前でしょ」
「あ、そっか! じゃあしょうがないね!」
じ、地味に傷つく……!
「バカね……今からそんな重いもの食べたら、晩御飯に響くでしょ?」
追い打ちをかけるように、ウタが呆れた声を出す。
「お祝いなら、女の子らしくジェラートにしましょう? 駅前に新しいお店ができたの」
「さんせー! ジェラート! ジェラート!」
ウタは肩をすくめて、わざとらしく溜息をついた。
「ほんと……中身がおじさんのままなんだから」
……完敗だ。
女子力でも生活の知恵でも、俺は小学生のウタに勝てないらしい。
「……へいへい。仰せのままに、お嬢様方」
俺は苦笑して、スマホをポケットにしまった。
騒がしい声が、夕暮れの校舎に響く。
笑って、じゃれて、くだらないことで言い合う。
――見た目だけなら、いつもと何も変わらない三人だ。
けれど。
秘密をさらけ出しても、拒まれなかった。
笑われて、呆れられて、それでも変わらず隣にいてくれる。
その事実が、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれている。
普通じゃない三人。
けれど、間違いなく――最高の三人だ。
笑いながら二人の背中を追う。
肩を並べて歩くこの距離が、こんなにも誇らしく感じられる日が来るなんて。
もう、自分だけがよそ者だなんて思わない。
ここは、俺の居場所だ。
夕暮れに染まる廊下を、騒がしい足音が駆け抜けていった。




