第33.5話 クリエイターの礼儀と、土下座の作法
昼休み、ポケットの中のスマホが短く震えた。
画面を覗くと、月見里あかりからのメッセージが表示されていた。
『姐さん。お願い、ウタと直接話がしたい』
俺はしばらく画面を見つめ、迷った。
今のウタにとって、あかりは最も顔を合わせたくない相手だろう。だが、このまま平行線のままでは、ウタの曲は恥部として闇に葬られ、あかりもまた再起の道を絶たれる。
俺は溜息をつき、指を動かした。
『……わかった。放課後、旧校舎の第二理科準備室に来てくれ。行き方は後で送る』
◇
放課後。俺とウタとヒナの三人は、いつものように旧校舎の階段を上っていた。
俺の足取りは、鉛でも詰まっているかのように重い。
「……ねえ、アリサ。今日、なんか変よ?」
階段の踊り場で、前を歩いていたウタが不意に振り返った。
その鋭い視線に、俺の心臓が嫌な音を立てる。
「ウタに謝らないといけないことがあるんだ」
「……なによ」
俺は返事をせずにドアを開ける。
「……誰かいる?」
後ろから付いてきたヒナが、素っ頓狂な声を上げた。
窓際の椅子に、一人の女が座っていた。
緩く巻いた茶髪は少し乱れ、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。いつもの派手な気怠さは消え、ただ一人の、追い詰められた表現者がそこにいた。
「……お邪魔してるよ。姐さん、ウタ」
「――っ!?」
ウタの顔が一瞬で怒りに染まった。彼女は弾かれたように俺の腕を掴み、廊下へ引っ張ろうとする。
「アリサ! 職員室! この女、不法侵入よ! 先生を呼んで――」
「待て、落ち着けウタ!」
俺は必死にウタの肩を抱きかかえ、その場に留まらせた。
「俺が場所を教えたんだ」
「…………は?」
ウタの動きが、ぴたりと止まる。
その瞳が、絶望に近い色に染まって俺を見た。
「あんた……なんで……」
「……あかりが、どうしてもお前と直接話したいって言ってきたんだ」
「…………裏切り者」
低い声で吐き捨てられた言葉が、ナイフのように俺の胸に突き刺さる。予想はしていたが、やはりキツい。
ウタは唇をわなわなと震わせ、それから椅子から立ち上がったあかりを、殺さんばかりの勢いで睨みつけた。
「用件だけ言って。三秒。それで出ていって」
ウタの声は、氷よりも冷たかった。
あかりは一つ息を吸い、テーブルの上に透明なクリアファイルを置いた。
「Screamingについて、きちんとしたライセンス契約を結んでほしい。これが、その書類」
「嫌よ」
即答だった。
「理由は前に言ったはず。あれは私のゴミよ、他人に売る価値なんてない」
「価値があるかどうかを決めるのは、作者だけじゃないんだ」
あかりの声には、絞り出すような執念があった。
「……何よ、それ」
「あの曲を聴いた百万人以上の人たちが、あんたの言葉に心を揺らされてる。それをゴミだなんて言わせない……あんたの曲は素晴らしい」
「知らないわよ、そんなの。消して。私の前から、世界から、全部消してよ!」
「……消せない。あんたがこの世に生み出してしまったんだから」
ウタの眉間に、深い皺が刻まれる。
「……しつこい女ね。だから嫌いなのよ、あんたみたいな無神経な大人」
「わかってる。嫌われて当然だと思う」
あかりは目を伏せた。
「今まで迷惑をかけてきたこと、あんたの曲を勝手に使ったこと、解釈を押しつけたこと。全部、私が悪かった。それは本当にごめんなさい」
頭を下げる。
そして、顔を上げたあかりの目は、謝罪とは裏腹に真っ直ぐだった。
濡れた瞳の奥に、折れる気のない意志が座っている。
「……その上で、もう一つ謝らなきゃいけないことがある」
「……何よ」
ウタの眉が、ぴくりと動いた。
「……昨日、あんたの父さん――一ノ瀬響さんに会って、話してきた」
空気が凍った。
「あんたが作曲していたこと。ネットに曲を上げていたこと。それが大きな反響を呼んでいること。全部、伝えた」
ウタの顔から、一気に血の気が引いた。
「――なんで」
声が震えている。
「なんでそんなことしたの……! 私がどれだけ嫌がってたか、知ってるくせに……!」
「…………」
「ふざけないでよ……! 私の人生を、あんたの都合で無茶苦茶にして!」
ウタの叫びが、準備室に反響した。
ヒナがびくりと肩を震わせ、俺の袖を掴んでくる。
「……必要だったんだ」
あかりの声は、静かだった。
「あんたは未成年だ。ライセンス契約を結ぶには、保護者の同意がいる。あんたが嫌がっても、この問題を正しく解決するには、親に話を通すしかなかった」
「自分勝手すぎるでしょ!?」
「わかってる。PVを出す前にライセンスをきっちり詰めておかなかったのは、私のミスだ。あんたの許可も取らずに曲を使って、バズってから慌てて契約を迫って……順番が間違ってた。それは認める」
「認めたって遅いのよ! もう取り返しがつかないじゃない!」
「ああ。取り返しはつかない……けど、こうなった以上、保護者である響さんに打ち明けるしかなかった。子供との口約束で収めるには、話が大きくなりすぎたんだ」
「私は誰にも知られたくなかったのに!」
「だったら、なんでアップロードしたの」
ウタの呼吸が、止まった。
「……何、言って……」
「あんたは父さんに知られたくないと言った。世界から消してほしいと言った。でも、あの曲を最初にネットに上げたのは、あんた自身だ」
「…………」
「誰にも聴かれたくないなら、最初から上げなければよかった。ローカルに保存して、パスワードをかけて、墓場まで持っていけばよかった」
「……それは……」
「でも、あんたはアップした。あんたは届けたかったんだ、誰かに」
ウタが言葉を失った。
怒りで感情が剥き出しになっているからこそ、あかりの指摘が、鎧の隙間を真っ直ぐに貫いた。
「それを、私が拾った。それを受け取って心が動かされてしまったんだ」
「…………」
「あんたの曲は、あんたが思ってるよりずっと遠くまで届いてしまった。もう元には戻せない。だったら……正しい形で残すしかないだろ?」
ウタは何も答えなかった。
否定する言葉が出てこない。
握りしめた拳が、小さく震えている。
あかりは、そのまま床に膝をついた。
埃っぽい準備室の床に、躊躇なく。
両手を前につき、額を擦りつけた。
「……何してるのよ」
「謝ってるんだ。あんたの信頼を裏切ったことを。あんたの秘密を、勝手に親に伝えたことを……全部、私のせいだ」
床についた額のまま、あかりは続けた。
「私はあんたの曲に惚れた。それを世に出したかった。その気持ちは、本当だ。でもやり方が間違ってた……だから、お願いだ。もう一度だけ、チャンスをくれないか」
長い沈黙。
ウタは何も言わなかった。
あかりはゆっくりと上体を起こした。土下座の姿勢のまま、涙で化粧が崩れた顔でウタを見上げる。
「あんたの父さんは――驚いていた。けど、嫌そうではなかった」
ウタの肩が、びくりと跳ねた。
「あんたが、自分の言葉で曲を作っていたこと。それが多くの人の心を動かしたこと……響さんは、それを聞いて、しばらく黙ってた」
「…………」
「そして……曲をどうしたいかは、ウタに任せると言った」
ウタの目が、大きく見開かれた。
「……父さん、が?」
「ああ。消すも残すも、あんたが決めろって……あの人は、あんたの意志を尊重するつもりだよ」
長い、長い沈黙が落ちた。
ウタは何も言わなかった。
だが、その横顔には、怒りとは別の、複雑な感情が渦巻いていた。
恐れ。戸惑い。そして――ほんの少しだけ、安堵のようなもの。
あかりはゆっくりと立ち上がった。
膝についた埃を払い、深く頭を下げる。
「あんたの曲は、素晴らしいよ。嘘ばかりの私だけど、それだけは嘘じゃない」
ウタはしばらく黙っていた。
やがて、窓の外に視線を逸らし、小さく呟いた。
「……答えは、すぐには出せない」
その声は、さっきまでの氷のような拒絶ではなかった。
「父さんと……ちゃんと話してから」
テーブルの上の契約書には、手を伸ばさない代わりに、払い除けもしなかった。
あかりは深く頭を下げた。
「……ありがとう。待ってる」
あかりが踵を返し、ドアに向かう。
その背中に、ウタがぶっきらぼうに呟いた。
「……あのね」
あかりが足を止める。
「次から、ちゃんとアポ取りなさい。それと……大人が子供にそんな簡単に頭を下げるもんじゃないわよ。見せられる方の身にもなりなさい、馬鹿」
「……うん。ごめん」
あかりが少しだけ、本当に少しだけ、自嘲気味に笑った。
ガラリ、とドアが閉まる。
ヒールの足音が遠ざかり、準備室に三人だけの静寂が戻った。
「……うーちゃん、大丈夫?」
ヒナが、おそるおそるウタの顔を覗き込む。
ウタは何も答えず、窓枠に頬杖をつき、夕焼けに染まる校庭をじっと見つめていた。
テーブルの上には、夕日に照らされた契約書が静かに残されていた。
これから先、ウタがどう答えるかは、彼女と彼女の父親の問題だ。
俺はそっと、ウタの隣に立った。
今はただ、沈む夕日を一緒に眺めていればいい。
「……帰るか」
俺が短く声をかけると、ウタはしばらく黙っていたが、やがて重い腰を上げた。
そして、俺の顔をジト目でじーっと見つめてくる。
「……アリサ。あんた、私のこと裏切ったわよね」
「……うっ。それは、その……悪かったと思ってる」
「反省してる?」
「……してる」
俺が素直に首を縦に振ると、ウタはふんと鼻を鳴らし、人差し指を突きつけてきた。
「じゃあ、明日からの給食。デザートは全部私のものよ……今週いっぱいくらいは、その権利があると思うけど?」
「……え? 明日はプリンだぞ」
「知るもんですか……裏切り者のアリサは、パンでもかじってなさい」
ウタはぷいっと横を向いた。
その口調はいつもの調子に戻っていたが、窓の外を見つめる耳の付け根が、少しだけ赤くなっている。彼女なりの照れ隠しであり、許しのサインなのだ。
「……わかったよ。明日のプリンも明後日のゼリーも、全部献上させていただきますよ」
「よろしい……ヒナ、帰るわよ」
「わーい! あ、うーちゃん! 私のプリンも半分あげるね!」
「あんたは食べなさいよ……そもそも、そんなに食べれないから」
俺たちは鞄を手に取り、いつものように秘密基地を出た。
夕闇が迫る街は、昨日よりも少しだけ、違って見えた。




