第35話 舞台に上がる覚悟
休日。
俺の家のリビングには、どこか落ち着かない時間が流れていた。
「……遅いわね、あいつ」
ソファに深く腰かけたウタが、不機嫌そうに時計を睨む。
今日はあかりから「大事な話があるから、アリサの家に集まってほしい」と招集がかかっていた。ウタは指名で、ヒナは「うーちゃんが行くなら私も行く!」とセットでついてきた形だ。
普段は昼に寝ていることが多い美結も、今日は珍しく起きていた。
「まあまあ。あかりちゃんも咲夜ちゃんも準備があるんでしょ。とりあえず、お茶にしましょうか」
美結が、お盆に紅茶とクッキーを載せて入ってくる。
「美結さん、ありがとう……ふん。呼び出しておいて遅刻なんて、いい度胸だわ」
ウタはふくれっ面のまま、カップを受け取った。
「アリサママありがとー! ねえねえありちー、暇だからゲームしよ?」
ヒナはすでにクッキーに夢中だ。
「悪いなヒナ。今は我慢してくれ。話が終わってからな」
俺は美結からカップを受け取り、そのまま床に座った。
自宅ということもあり、気が緩んでいた俺は無意識に足を崩して胡坐をかき、紅茶を一口すすって、ほうっと息を吐く。
「……あー、熱い茶が染みるぅ」
その瞬間。
「……アリサ」
ウタがジト目でこちらを見ていた。
「……なんだ?」
「その座り方……だらしないわよ」
正体がバレてからというもの、彼女はこうして俺の所作をたびたび指摘してくる。
どうやら「中身がおじさんだと開き直って、このままガサツで女らしさの欠片もない大人になったらどうしよう」と、本気で心配しているらしい。
「い、いいだろ別に。家の中だし、待ってる間くらいリラックスさせろよ。俺は元はおっさんなんだぞ?」
「家の中でも、みっともなさすぎるのはどうかと思うわ」
ウタは立ち上がると、俺のあぐらを強引にほどき、女の子座りに直した。
「あんた、今は女の子でしょ? せっかく可愛い顔に生まれてきてるのに……中身のせいで台無しにするのは、もったいないわよ」
「そうよぉ、アリサちゃん」
美結までもが、うんうんと頷いて加勢してくる。
「ママもそう思うなぁ。アリサちゃん、黙ってればお人形さんみたいに可愛いのに、動くと台無しなんだもん……もったいないオバケが出るよ?」
「うっ……美結にまで言われるとは」
だらしない母親代表の美結に指摘されると、さすがに堪える。
生活は壊滅的なのに、女としての所作と色気だけは生まれつきみたいに完璧だ。
……それに比べて俺は、「元男」を言い訳にして、女の身体に馴染む努力から逃げている。
だから、何も言い返せなかった。
「別にいーじゃーん! ありちーはありちーだよ!」
ヒナがお菓子を頬張りながら擁護してくれるが、ウタの目は笑っていない。
「ヒナ、あんたもよ。お菓子を食べた手で服を触らない。スカートで大股を広げない」
「うー……」
ヒナが慌てて手を拭く。
「はぁ……どいつもこいつも」
ウタは呆れたように溜息をついた。
その時。
――ピンポーン!
待ちわびたチャイムが鳴った。
「お、来たか」
美結が玄関へ向かい、やがて二人の人物を連れて戻ってきた。
一人は、サングラスをかけ、小脇に分厚いファイルを抱えた月見里あかり。さすがに今日は、いつものストロング缶は持っていない。
もう一人は、大きなスケッチブックを抱えた黒瀬咲夜だ。
「うーっす。お待たせー」
「……お邪魔します」
二人が部屋に入ってきた瞬間。
「……ッ!!」
ウタがバネ仕掛けの人形のように跳ね起きた。
目がギラリと吊り上がり、空気が一瞬で凍りつく。
「……あかり」
「お、ウタ。来てくれてありがと」
あかりが悪びれもなく手を振った瞬間、ウタの手が近くのクッションを掴んだ。
「よくも私の顔が見れたわね、この密告者!!」
豪速球のクッションが飛ぶ。
ボフッと顔面に直撃するが、あかりは「おっと」と軽く受け止めた。
「痛いなぁ……むしろ、私に感謝してほしいくらいなんだけど?」
「はあ!?」
「だってさぁ、あのおかげでパパ公認になったんでしょ? 音楽活動も堂々とできるようになったみたいだし、結果オーライじゃん?」
「結果の問題じゃないの! デリカシーの問題よ!」
ウタはあかりに詰め寄り、そのままポカポカと胸を叩き始めた。
あかりは笑いながらそれを受け流している。
「乙女の秘密を! 私の恥部を! よりによって父さんに……! 勝手なことして、一生恨んでやるんだから!」
「うぐっ、ちょ、ちょっとウタ、痛いって! 悪かったわよ、謝るから!」
あかりは防戦一方になりながら、救いを求めて俺のほうを見た。
「姐さーん、助けてよ! 何か言ってやって!」
俺は冷めた紅茶を啜り、視線すら合わせずにそっぽを向いた。
「自業自得だろ。俺は最初から、勝手な真似はするなって言ったからな」
「ひっど!? 薄情者ぉ!」
あかりの悲鳴が響く中、お茶を配り終えた美結が、いつになく真剣な面持ちで二人の間に割って入った。
「……ウタちゃん、ごめんなさい。あかりちゃんを責めるのは、そこまでにしてあげて?」
「だって、こいつが勝手に私の心を晒して……!」
「そうね……でもね、あかりちゃんを焚き付けて、ウタちゃんのパパを紹介したのは私なの」
「……え?」
ウタの動きがぴたりと止まる。
美結はウタの視線の高さに合わせてゆっくりと腰を落とし、その小さな手を優しく包み込んだ。
「あかりちゃんが、本当にお仕事のことで悩んでて……それに、響さんもウタちゃんのことでずっと苦しんでいたから。私、二人が向き合うきっかけになればいいなって、勝手なことをしちゃったんだ」
「み、美結さんが……?」
「そう。一番悪いのは、ウタちゃんの気持ちを置き去りにしちゃった私。だから、本当にごめんなさい」
美結は真っすぐにウタの目を見て、静かに頭を下げた。
いつもはだらしない母親が、一人の大人として、誠実な謝罪を口にしている。
こうなってしまうと、ウタはもう怒りの行き場を失ってしまう。
母親のいない彼女にとって、美結の向ける慈愛に満ちた眼差しは、何よりも抗いがたいものだった。
「怒るなら、私を怒って……ね?」
美結はそう言って、抵抗の意志がないことを示すように、無防備にその豊かな胸を差し出した。
ウタは振り上げた拳をわなわなと震わせ――やがて、絞り出すような溜息とともに、力なく下ろした。
「美結さんがそこまで言うなら……あかり、今回だけは許してあげる」
「あはは……ごめんね、ウタ。次はちゃんと許可取るからさ」
あかりはポリポリと頬をかきながら、気まずそうに、けれどどこかホッとしたように笑った。
「……当たり前よ。次やったら、絶対に許さないんだから」
ウタはまだ少し頬を膨らませていたが、あかりの軽い謝罪に毒気を抜かれたのか、それ以上追及するのをやめたようだ。
「ふふ。ウタちゃんは、やっぱり優しい子ねぇ」
美結に優しく頭を撫でられ、ウタは顔を真っ赤にしながらも、ようやく落ち着きを取り戻した。
……美結はやっぱり最強だった。
ひとしきり空気が和んだところで、あかりがコホンと一つ、わざとらしく咳払いをした。
先ほどまでの気まずい表情を引っ込め、配信者――星空ルナとしての表情を作る。
「……さて。お騒がせしちゃったけど、ウタに許してもらったところで、一つ大きな報告をさせてもらうっすよ」
「報告?」
俺が聞き返すと、あかりはテーブルの上の資料を改めて引き寄せ、背筋を伸ばした。
そこには先ほどまでとは違う熱がこもっていた。
「事務所から、話があってですね――春にリアルの箱を借り切って『星空ルナ・一周年記念リアルライブ』を、開催することになったんっす」
「……へえ。すごいじゃないか」
俺が感嘆の声を上げると、あかりは少し誇らしげに――けれど、どこか不安そうに続けた。
「……正直、少し前までの私じゃ考えられなかった数字っす。でも、ウタが書いてくれた『Screaming』がバズって、事務所もこれならいけるって判断してくれたみたいで」
あかりがそこで一度言葉を切り、拳をギュッと握りしめた。
「ただ、箱がデカいんすよねぇ……Zepだよ、Zep」
「マジか」
Zep。
キャパは二千人オーバー。
ライブハウスと呼ぶにはあまりにも規模が大きい、アーティストにとっては登竜門みたいな場所だ。
デビュー一年のVTuberが単独で立てるような舞台じゃない。普通なら、何年も積み重ねた人気と実績があって、ようやく挑戦できるクラスだ。
――それを、あいつは一年でやると言っている。
そりゃあ、誇らしげな顔と同時に不安が滲むのも当然だった。
咲夜も抱えていたスケッチブックを広げて見せた。
「私は、そのライブのキービジュアルと新衣装のデザインを担当してるの。あと、当日の会場で配るフライヤーとか、幕間に流すMV用のイラストとかも……やれるだけのことはやるつもり」
「咲夜先生の絵がなきゃ、ルナは始まりませんから……さっきのこともありますし、頼りにしてますよ、先生!」
あかりが真摯な眼差しで深く頭を下げる。
ただの依頼とは違う、妙に熱のこもった声音だった。
咲夜は照れたように笑いながらも、どこか困った様子で――一瞬だけ俺をちらりと見た。
(……?)
引っかかりを覚えたが、その理由を考える間もなく、あかりは次の話題へと移っていった。
「で、次はセットリストなんだけど」
「『Screaming』は歌うの?」
ウタが不機嫌そうに聞く。
「もちろん。あれが今の私の看板だし。あと、『Rainy』も歌わせてほしい。……あの曲も私にとって思い入れの深い曲だから」
「…………」
一瞬、ウタの視線が揺れた。
あの曲は彼女にとって、自分の見せたくなかった感情をそのまま吐き出したものだ。それを大舞台で何度も晒されるのは、ほとんど拷問みたいな羞恥なのだろう。
けれど――もう個人の落書きではない。
父にも認められ、契約まで交わした以上、自分の一存で止められるものではないことも、彼女は理解していた。
「……まあ、いいわ」
短くそう言って、ウタはふいと視線を逸らす。
諦めと、それでも受け入れるしかない覚悟が滲んだ、小さな了承だった。
「でも、それだけじゃ全然曲が足りなくて。だから、序盤は清楚モードでデビュー曲とかを歌うつもりなんだけど」
「せ、清楚……?」
俺とウタの声が重なった。
今のあかりに、その単語はあまりに似つかわしくない。
「仕方ないでしょ。曲がそのイメージなんだから」
あかりは肩をすくめた。
「それにさ、最初から演技してた『清楚な私』も、私の歴史の一部なの。そこは否定しないで、ちゃんと見せておこうと思って」
「……なるほどね」
ウタが少しだけ感心したように頷く。
「ただ……正直、それだけだとやっぱりインパクトが弱くてさ」
あかりは改めてウタの方を向いた。
「ウタ。新曲、書いてくんない?」
「……は?」
「『Screaming』みたいなドロドロじゃなくてさ……もっとこう、今の私の覚悟みたいなのを歌ったやつ」
あかりは真剣な眼差しで、天才作曲家を見つめた。
「今まで応援してくれたファンへの感謝と、これからも付いてこいっていう煽りと……あと、ひとつまみの愛、みたいな?」
「……愛?」
ウタが眉をひそめる。
「そう、愛。バラードがいいな……アンタ、もともとそっちの方が得意でしょ?」
直球のオファーに、ウタは少し戸惑ったように視線を逸らした。
「……ほんっと勝手よね、あんた」
ふてくされた声。
「人の曲を勝手に世に出して、勝手にライブで看板扱いして……次は新曲? 都合よく使いすぎなのよ」
「だからこそ、ウタに頼んでるんだって」
あかりは真顔のまま言った。
「私、アンタの曲に惚れてるの。理解してるのも、魅力を一番引き出せるのも私だって本気で思ってる。だから他の誰の曲でもなく、ウタの音で一周年を締めたい」
「……っ」
耳まで赤く染めながら、ウタは小さく息を吐いた。
「……この前教えた代理人に話を通しておいて」
「やった! さすがぽえ先生!」
あかりがガッツポーズをする。
そして、その視線が俺に向いた。
「で、姐さん。姐さんにも頼みがあるんだ」
「……嫌な予感しかしないな」
「ライブのゲストコーナー……出てくれない?」
俺は即座に首を横に振った。
「断る。俺は個人勢だぞ。大手事務所の記念ライブなんかに出られるわけないだろ」
「なんでよー! 私たち、もう家族みたいなもんじゃん!?」
あかりが食い下がる。
「リアルでは家族同然でも、ネット上ではほぼ他人だろ。以前、お前が俺をフォローしただけでプチ炎上したの、忘れたのか?」
「それは、清楚売りしてた頃の話じゃん。今は私が面白いと思った相手なら、ファンも受け入れてくれるよ」
「……そうかぁ?」
まだ渋っていると、あかりは隣にいた咲夜の手を取り――続けて、俺の手もぎゅっと掴んだ。
「それに、私……二人と一緒に舞台に立ちたいっす」
「……二人?」
「そう。姐さんと……咲夜先生。三人で」
驚いて咲夜を見ると、彼女は照れたように笑いながらも、しっかりと頷いた。
「……実は、事前に相談を受けてて。私はお願いしたいと思ってるんだ。もちろん、師匠が引き受けてくれたらだけど……」
「咲夜まで……本気か?」
「うん。……私なんてただの陰気な絵描きだし、こんな大舞台なんて恐れ多いんだけど」
咲夜は膝の上で拳を握りしめ、意を決したように俺を見つめた。
「このライブに、父を呼ぼうと思って」
「お前の親父さんを?」
「うん。Zepなんて大きな会場で、これだけの人が熱狂するステージを作ったんだって……私の仕事がここまで愛されているんだって、胸を張って見せれば、父も認めてくれるんじゃないかって」
以前、父親と衝突した際、「まともな実績を残してみせろ」と言われた。
咲夜にとってこのライブは、クリエイターとしての自分を父親に証明する、絶好の機会となる。
「だから……私、出たい。ルナちゃんと、そして師匠と一緒に」
咲夜の切実な瞳。
あかりもまた、潤んだ目で俺を見上げてくる。
「ね? お願い、姐さん。私の最高に輝く瞬間を、一番近くで見ててほしいんだ」
俺の中で、断るという選択肢はもう消えていた。
咲夜に受けた恩は大きい。それを返せる機会でもあるのだから。
あとは、俺が腹を括るだけだ。
「ねえ、ありちー!」
横からヒナが口を挟んだ。
「私も見たいな! 三人がキラキラのステージに立つところ!」
「……ヒナ」
「ありちーと、咲夜ちゃんと、ルナちゃん! みんなで並んだら絶対かっこいいよ! 私、自慢したい! あれ私の友達なんだよーって!」
「……いや、前にも言ったが、俺たちの正体は秘密だからな。自慢はできないぞ?」
「あっ、そっかぁ……」
ヒナはあからさまにしょんぼりとした。可愛いが、こればかりは譲れない。
「……出なさいよ」
ウタが追い打ちをかける。
「私たちを煽っておいて、あんただけ蚊帳の外なんて許さないから」
「……お前、意外とやる気満々だったりする?」
「う、うるさい……! それに」
ウタは口元を歪めて、ニヤリと笑った。
「どうせ、あんたも満更でもないんでしょ?」
……図星だった。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
俺は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
「……はぁ。わかったよ」
俺も大概チョロいな、と自嘲しながら。
「マジ!? やったー!!」
あかりが歓声を上げ、美結と咲夜が拍手する。
六人の輪が、ひとつ形になった。
「……やれやれ。とんでもないことに巻き込まれたな」
そう言いつつも、悪い気はしていなかった。
「……アリサ。立ち方、気をつけてね」
ウタがぼそりと釘を刺す。
「ステージの上でガニ股になったら、後ろから蹴り飛ばすから」
「そーだそーだ! ちゃんと練習しなきゃ!」
美結までノリノリで立ち上がり、俺の背筋をバンと叩いた。
「ステージの上でみっともない恰好をしないよう、今日からママたちが徹底的に鍛えてあげる!」
「……お手柔らかにお願いします」
こうして、俺たちの新たな目標が決まった。
星空ルナ一周年記念ライブ。
大人と子供、現実と虚構が入り混じる――とんでもない祭りになる予感しかしなかった。




