第33話 転がり始めた日常
九月一日。始業式。
久しぶりに足を踏み入れた教室は、どこか知らない場所のように見えた。
「おーい、宿題見せろよー」
「俺、海行ったぜ! 真っ黒だろ!」
日焼けした子供たちが、夏休みの思い出を大声でぶつけ合っている。
無邪気で、平和で、何も知らない顔。
俺は自分の席に座り、ぼんやりとその光景を眺めていた。
(ああ……そうだ。こっちが、俺の日常だったな)
もっとも、最初から馴染めているわけじゃない。
俺は四十代の男で、転生者で、二度目の小学校生活だ。
同級生と感覚がズレているのは、もはや日常みたいなものだ。
それでも――。
たった一か月ちょっと。
それしか経っていないはずなのに、今年の夏休みは、やけに濃かった。
カブトムシやプール、自由研究。
本来なら、そんな話題で終わるはずの季節だった。
だが俺たちがこの夏に浴びたのは、
ネットの炎上。
夜の街の論理。
剥き出しの欲望。
そして、少女の絶叫――Screaming。
大人の世界の、濃くて苦い部分ばかりだ。
そのせいか、この「小学校」という箱庭が、
必要以上に無菌で、作り物めいて見えてしまう。
そんな俺の内心など知る由もなく、教室のドアが開いた。
「……おはよう」
一ノ瀬詩が、無表情のまま通り抜け、自分の席に鞄を置いた。
すぐに周囲の女子たちが集まる。
「ねーねー、ウタちゃん! 夏休みどこ行ったー?」
「別に。ピアノの練習してただけ」
短く切り捨て、教科書を開く。
いつも通りの、愛想のない優等生。
(……こうしてみるとただの小学生にしか見えないのに)
俺は頬杖をつきながら、その小さな背中を眺める。
自分の作った曲が、ネットで何十万、何百万と再生され、
界隈を揺るがす事件になっているというのに。
ランドセルを背負ったその背中が、
世界の「台風の目」だなんて、
ここにいる誰も想像すらしていない。
学校という日常において、ネットの熱狂など何の意味も持たない。
それは、あまりにも当たり前の話だった。
俺はその現実に、少しだけめまいを覚えながら――
始業のチャイムを聞いていた。
◇
放課後。
旧校舎の秘密基地――第二理科準備室。
「うーちゃん、コンクールゆうしょうおめでとうー! すごーい!」
ヒナがクラッカーを鳴らす真似をしながら、勢いよくウタに抱きついた。
「ちょっと、暑苦しいわよ」
そう言ってウタは肩をすくめ、ヒナを軽く引きはがす。
だが、その表情には、はっきりとした照れと満足が滲んでいた。
「……まあね。当然の結果よ」
ふふん、と鼻を鳴らし、上機嫌に紅茶を啜る。
前回のコンクールでは、結果は振るわなかった。
あの時の重たい沈黙と比べれば、今の空気はあまりにも軽い。
夏休みの頃のような、張りつめた殺気はもうない。
憑き物が落ちたように、驚くほど晴れやかな横顔だった。
「ウタ、おめでとう」
俺が声をかけると、ウタは少しだけ頬を染めて、こくりと頷いた。
「ええ……父さんがね、演奏を聴いたあとに言ってくれたの。『……以前よりは、聴けるようになったな』って」
たったそれだけの言葉。
だが、父親からの承認に飢えていた彼女にとっては、ネットの百万回再生よりも、その一言の方が遥かに重く、価値があるのだ。
「毒を吐き出したおかげか?」
「そうかもね」
ウタはあっさりと認めた。
「雑念をネットに捨てたから、余裕ができた気がする」
紅茶を口に含み、ゆっくりと息を吐く。
「好き勝手にやったからこそ、今は逆にね。ピアノを弾くときも、作った人の事情とか、気分とか……そういうのを、聞いてあげてもいいかなって」
その言い方は、謙虚とは言いがたい。
けれど、嫌味でもなかった。
自分の内側を一度さらけ出したからこそ手に入った、静かな傲慢。
アーティストにとって、それは紛れもない武器だ。
ウタは清々しく笑った。
「そういやウタ。動画の方、確認してるか? 通知とかメールとか」
「してないけど?」
心底どうでもよさそうな顔で言う。
俺はスマホを取り出し、画面を見せた。
「お前、本当にこれ見てないのか? 百五十万再生だぞ。コンクール優勝より、こっちの方がよっぽど大事件だと思うんだが」
「興味ない……ブーブーうるさいから、通知は全部切った」
ウタは顔も上げず、きっぱりと言い切った。
「……興味ない、で済ませる数字じゃないだろ」
俺は思わずため息をつく。
百五十万再生。この数字が持つ意味を、このお嬢様はまるで理解していない。
「なあ、チャンネルの収益化設定はどうした? 広告収入とか」
「してない」
「……じゃあ、楽曲の使用許諾のメールとかは?」
「見てない。未読が九十九件以上になってたけど、面倒だから放置してる」
俺は、言葉を失った。
放置。無視。
そこに転がっているのは、サラリーマンの年収を軽く超えるであろう大金と、プロへの切符だ。
それをこの小学生は、「面倒だから」という一言で、何のためらいもなくドブに捨てている。
「お前なぁ……もったいないとか、思わないのか? 正当な対価だぞ」
「思わない」
ウタはペンを置き、冷ややかな瞳で俺を見返した。
「アリサ。あなた、自分の『使用済み下着』を売ってお金にできる?」
「……は?」
唐突な問いに、俺は言葉を詰まらせた。
「想像して。自分が履き古して、汚れて、誰にも見せたくない下着……それを他人に売って、お金をもらう。できる?」
――一瞬だけ、昔の自分が頭をよぎる。
男だった頃なら、「使用済み下着」に夢を見る側の気持ちも、正直わからなくはなかった。
だが、今は違う。
「……いや、無理だな。羞恥心で死ぬ」
想像しただけで、胃の奥がひくりと縮む。
今の俺にとってそれは、金に換えられる商品じゃない。
ただただ、他人に知られたくない自分の一部だ。
「でしょ?」
ウタは当然だと言わんばかりに頷いた。
「私にとって、あの曲はそれと同じなの」
「同じ?」
「あんなの、作品じゃないわ。私の中に溜まったストレス、憎しみ、嫉妬……そういうドロドロした『汚物』を排泄しただけのものよ。誰にも見せたくない、恥ずかしい部分なの」
ウタは自分の胸元を、ぎゅっと握りしめた。
「それをあの女が勝手に拾って、勝手に晒しただけ……私にとっては、汚れたパンツを街中で振り回されてるようなものなのよ」
「……」
「それを『売ってお金にしろ』って? ……変態の理屈ね」
俺は、何も言い返せなかった。
資本主義だの、正当な対価だの。
そんな理屈を持ち出した俺の方が、彼女の潔癖な美学の前では、どうしようもなく、デリカシーのない変態に見えてしまった。
「それにね、アリサ」
ウタは、どこか勝ち誇ったように付け加えた。
「百歩譲って、お金をもらうとしても……『契約』が必要なんでしょ?」
「あ、ああ。そうだな」
「私、未成年よ? 契約するには、何が必要?」
俺は、そこでようやく気づいた。
未成年者が法的な契約を結ぶために、絶対に欠かせないもの。
「……親権者の、同意書」
「そう。つまり――父さんに、ハンコをもらわなきゃいけない」
ウタは、ぞっとするほど冷えた笑みを浮かべた。
「あの厳格な父さんに? 『私がドロドロの情念ソングを書いてネットでバズりました。汚れた恥部みたいな曲ですけど、販売します』って?」
一拍置いて、吐き捨てるように言う。
「……言えるわけないじゃない」
「……そりゃ、そうだな」
俺は頭を抱えた。
ウタが一番嫌がること――それは、父親に自分の恥部を知られることだ。
親バレを避ければ、契約できない。
契約しようとすれば、親バレして精神的に死亡。
完全なデッドロック。
逃げ道は、どこにもない。
「だから、無視するしかないのよ」
ウタは、きっぱりと言い切った。
「……あれは無かったこと。私の人生には関係ない、ただのノイズ」
そう結論づけると、彼女は何事もなかったかのように視線を楽譜へ戻し、再びラフマニノフの世界に沈んでいった。
「うーちゃん、ぱんつ売るの……? ばっちいのに?」
ヒナの無邪気すぎる一言に、
「ち、違う! 売らないって言ってるでしょ!」
ウタが顔を真っ赤にして声を荒げる。
俺は苦笑しながら、ヒナの頭にそっと手を置いた。
「ヒナ。世の中にはな、ばっちいものが好きな変態もいるんだぞ」
「……ほえ?」
「まあ、今のヒナが知る必要はない話だ。忘れていい」
ヒナは少し考え込んだあと、こくりと頷いた。
「……ふーん。おとなって、へんだね」
「その通りだな」
俺は肩をすくめて、小さく笑った。
なんということはない平和な放課後だった。
◇
――ピンポーン! ピンポーン!
その日の夜。
俺の部屋のインターホンが、けたたましく鳴らされた。
「開けてー! 姐さーん! いるんでしょー!?」
ドアを開けると、月見里あかりが立っていた。
手にはいつものストロング缶……ではなく、分厚い書類の束。
そして、その表情はいつになく切羽詰まっていた。
「……どうした、血相変えて」
「どうしたもこうしたもないよ! ウタのせいだよ!」
あかりはズカズカと部屋に入り込み、ソファに倒れ込んだ。
「あいつ、メールしても全然返事くれないの! 電話も出ない! 既読すらつかない!」
「ああ……通知うるさいから全部切ったって言ってたぞ」
「はぁああ!? ふざけんじゃないわよ! こっちは運営から突き上げられて、胃に穴が空きそうなのに!」
頭を抱えて、呻く。
「『Screaming』がヒットしすぎちゃったせいで、なぁなぁで済ませられなくなったの。ちゃんと書面で『著作権利用許諾契約』を結ばないと、コンプライアンス的に動画を削除しなきゃいけないって……!」
「……なるほど。企業としては当然だな」
「だから正式に契約して、報酬も払って、クリーンな状態にしたいのに……当の本人がこれじゃ、話が進まない!」
あかりは俺に縋りついた。
「ここで動画削除なんてなったら全部パーだよ! お願い姐さん、なんとかして! あの子、姐さんの友達でしょ!?」
「いや、俺が言っても聞くかどうか……」
俺は正直に答えた。
「あいつ、自分の曲のこと『汚れた下着』だって言ってたからな」
「……は?」
「自分の汚い感情を垂れ流した汚れ物だから、それでお金をもらうなんて恥ずかしくて死ぬ――だとさ」
「……あー、これだからアーティストってやつは!」
あかりは吐き捨てる。
「こちとらは自分を晒して切り売りして生きてんのよ! パンツくらいでピーピー言うなっての!」
金にシビアな夜の世界で生きてきた彼女には、ウタの実利より潔癖さを選ぶ価値観は理解不能なのだろう。
「じゃあさ、親を絡めて説得できないかな? 未成年なんだし、親が納得すればイケるんじゃない?」
「……無理だと思うぞ」
「なんで? サラリーマンの年収くらいにはなるんだよ!? 印税だってすごい額になるだろうし」
「そこは困ってないんだよ。あいつの家、超金持ちだし」
「じゃあ何? 娘の活動を応援してくれないタイプ?」
「いや、そういうのじゃなくてな……」
俺は腕組みをして、一番のネックを告げた。
「ウタにとって、何より嫌なことは、『父親にあの曲を知られること』なんだよ」
「……え?」
「あいつの曲は、世の中への反発とか、演奏への不満とか、父親への劣等感とか、そういうドロドロしたものを五線譜にぶちまけたもんだから。それを父親に見られるくらいなら、動画消された方がマシだと言ってたぞ?」
あかりが口を開けたまま固まる。
「つまり……契約するには親のサインがいる。でも、親に知られたくないからサインは頼みたくない……ってこと?」
「そういうことだ」
「……詰んでんじゃん」
あかりが絶望的な顔でソファに沈んだ。
完全に行き止まりだ。
「どうしよう……動画、消すしかないのかな……」
あかりが涙目でストロング缶を開ける。
プシュッという音が、やけに虚しく響いた。
その時。
寝室のドアが開き、けだるげな声が響いた。
「……んー、なにぃ? あかりちゃん、来てたのぉ……?」
二日酔いで顔色の悪い美結が、あくびをしながら出てきた。
これから出勤なのだろう。
体にフィットしたドレスに着替えているが、まだ目は座っている。
「あ、美結さん……お邪魔してますぅ……」
「どうしたの、死にそうな顔して。男?」
「いえ、女です。ウタの作った曲が跳ねたんですけど、本人が契約したくないって言って困ってるんです……」
あかりが愚痴る。
「ウタちゃんかぁ……」
「そうなんです……お父さんに知られたくないみたいで……」
「……ふーん」
美結は少し考えてから、あかりの顔をじっと見た。
「ウタちゃんのパパって一ノ瀬響さんよね」
「え? 一ノ瀬ってあのクラシックの!?」
「有名な人なんだってねぇ」
美結は事もなげに言い、あかりの肩をぽんと叩いた。
「響さん、多分今日うちの店来ると思うけど……?」
「「はぁ!?」」
俺とあかりの声が重なった。
「去年くらいからかなぁ。お店で偶然会ってね。それから、ときどき来てくれるようになったの」
美結は冷蔵庫から水を取り出し、喉を鳴らして飲み干す。
「で、酔うと決まって娘さんの話をするのよ。『距離感が分からない』とか、『厳しくしすぎて嫌われたかも』とか」
あまりにも軽い口調だった。
「こないだなんて、悩みすぎて飲みすぎちゃってさ。気がついたらホテルで朝チュンしちゃったの」
「ブフォッ!!」
俺は麦茶を吹き出した。あかりも目が点になっている。
「あっ、大丈夫。響さん奥さんとは死別してるみたいだから浮気じゃないから。それに、ワンナイトの過ちなんて、よくある話でしょ?」
にこやかに、そう言ってのける。
――いや、全然よくない。
俺的には問題ありまくりなんだが。
……あの堅物が、美結相手にそんな失態を。
美結の包容力は、時として社会的地位のある男の理性を骨抜きにするらしい。
「で? その響さんが、話聞いてくれないって?」
「そ、そうです! 娘の活動なんて認めてくれるわけがないって……」
「うーん……」
美結は少し首を傾げてから、くすっと笑った。
「そんなことないと思うけどなぁ。あの方、娘さんの話になるとすごく饒舌だし。不器用なだけで、相当大事にしてるの、見てれば分かるよ」
そう言って、美結はあかりの手を取る。
その仕草は自然で、逃げ場を与えない。
「あかりちゃん。今夜、暇?」
「い、いえ……暇じゃないですけど……」
一瞬の逡巡のあと、あかりは歯を食いしばる。
「……でも。契約が取れるなら、なんでもします」
「ふふ。そう来なくちゃ」
美結は満足そうに頷いた。
「じゃあ、お店においでよ。今日、響さん来る予定だから」
軽くウインク。
「一日だけ復帰して、私と一緒に席につけばいいよ――直接、パパに相談しちゃえばいいじゃない」
「えっ……でも……」
「大丈夫」
被せるように、美結が囁く。
「私が、一緒についててあげるから……ね?」
その一言で、あかりの表情が変わった。
怯えではなく、覚悟の色に。
それはまるで、
溺れる者が――掴んだ瞬間に引きずり込まれると分かっていながら、
それでも手を伸ばしてしまう、最後の藁だった。
「……わかりました。やります! やらせてください!」
あかりが勢いよく立ち上がった。
その目には、迷いはない。獲物を定めた狩人のそれだった。
「……最悪、枕でも」
「おいっ!? 友達の親に変なことするなよ!?」
俺は慌てて釘を刺した。
「それに、ウタは親に知られるの嫌がってるんだぞ? 勝手なことしたら――」
「これは、私とあの子との問題です」
あかりは振り返りもせず、ぴしゃりと言い切った。
「姐さんでも、口出しはご遠慮ください」
その声には、いつもの軽さはない。
「それに――」
あかりは一拍置いて、淡々と続ける。
「曲を世に出したのは、あの子自身の意志です。やったことの責任は取らせるのが、大人の……親の仕事じゃないですかねぇ?」
「それは……」
言い返せなかった。
正論だ。
子供の理屈だけで、この世界をやり過ごせると思っていた自分が、甘かったのかもしれない。
「アリサは、ウタちゃんの味方をしてあげて」
美結が、やわらかく言った。
「私は、あかりちゃんの味方だから」
そう言って、美結はあかりの背中を軽く押す。
「あかりちゃん、行こっ」
「はいっ。姐さん、行ってきます!」
――バタン。
ドアが閉まり、嵐のように二人は去っていった。
残された俺は、静まり返った部屋で、その場に立ち尽くした。
……大丈夫なのか、これ。
最悪の場合、ウタの秘密が父親に知られて、話が取り返しのつかないところまで転がっていくかもしれない。
いや――違う。
もう、転がり始めていたのだ。
曲の使用を許した、その瞬間に。
玉はとっくに坂道を下り始めていて、俺たちはただ、それに気づいていなかっただけだ。
今さら止めることはできない。
できるのは、転がり落ちる先を、少しでもマシな場所にすることだけ。
だからせめて。
俺はウタの一番の親友として、傍にいよう。




