第3話 はじめてのおつかい
しかし、ある日。
俺は、文字通り窮地に陥った。
レトルトの離乳食が、切れてしまったのだ。
棚を開けても、引き出しを覗いても、そこには何もない。
最後の一つを食べ終えた瞬間、背中を冷たいものが走った。
「……これは、まずいな」
買ってきてほしいと頼んでいたはずだった。
だが、気が付けば美結の姿はない。
『カレシに呼ばれたから行ってくる。お金置いとくから、これで何か買って食べてね』
「……買えるかーっ!」
俺は思わず叫んだ。
身長八十センチにも満たない、よちよち歩きの幼女だぞ。一人で外を歩いていたら即通報案件だ。
「……さて、どうしよう」
怒っていても仕方ない。
お金を置いていっただけでも、まだマシだと思うことにする。
美結の帰宅は、カレシの気分次第だ。
下手をすれば、数日戻らない可能性もある。
水と食糧の在庫は、ほぼゼロ。
ネット通販を使えればよかったが、この家には回線が来ていない。
「……詰んだな」
工夫すれば水道水は飲める。
水は何とかなる。
だが、カロリーがない。
唯一、目に入るのは酒のストック。
……生死の境を彷徨う事態になったら考えよう。
それでも、可能性がゼロというわけではない。
「買い物に行く!」
俺は玄関へ向かった。
おもちゃのように小さな靴を履き、自分の身長より高いドアノブに両手で体重をかける。
がちゃり、と音がしてドアが開いた。
「家の出入りは……問題なさそうだな」
廊下に出て、ドアの開閉を確認しておく。
火事になった場合、自力で逃げ出せるかは死活問題だ。
近所のスーパーには、美結と何度か行ったことがある。道順は覚えている。
「……あっ」
鍵を持ってない。
「……日本の治安を信じるしかないか」
とはいえ、問題は山積みだ。
本当に買い物ができるのか。
店に行き、必要な物を選び、支払いを済ませ、家まで無事に持ち帰ることができるのか。
そう迷っていたとき、隣の部屋のドアが開いた。
「え……?」
顔を出した女性は、そのまま固まっていた。
幼女が一人で廊下に立っていれば、当然の反応だ。
だが――俺にとっては千載一遇のチャンスだった。
「あの……少々困ってまちて……。お時間があるときでかまいませんので、助けていただけませんでしょうか?」
あざといわけではない。単に舌が回らないだけだ。
そして、四十五度の最敬礼。
「ええ……時間は大丈夫なんだけど……」
「失礼ちました。自己紹介もせずに。私は南雲アリサ。隣の部屋に住んでいる者でしゅ」
「わ、私は黒瀬咲夜です」
「咲夜さんですね。ご丁寧にどうも。それで、いかがでしょう? ご相談に乗っていただけるとありがたいのでちゅが……」
「ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「あなた、何歳?」
「先日、一歳になりまちた」
「……歳の割に、ずいぶんしっかりしてるようだけど?」
「子供の成長には、個人差がありまちゅから」
戸惑っているのが伝わってくる。まあ、無理もない。
結果的に、俺は咲夜の協力を取り付けることに成功した。
玄関に置いてあったベビーカーに乗せてもらい、二人でスーパーへ向かう。
スーパーへ向かう道すがら、咲夜はベビーカーを押しながら、どこか落ち着かない様子だった。
話しかけていいのか、放っておくべきか。迷っているのが、歩調から伝わってくる。
なら、こちらから行く。
「咲夜しゃん」
「えっ、あ、はい」
直後に「あ、いや」と彼女は小さく首を振る。
どうやら小さい子供と接するのに慣れていないらしい。
「……なに?」
「改めてでしゅが、助けていただいてありがとうございまちゅ」
「い、いえ。こちらこそ……どういたしまして」
この人、いい人だ。
「……あのさ」
今度は、タメ語。
「ほんとに、その……一人で大丈夫なの?」
「はい。生活面は問題ありまちぇん」
「……生活面」
小さく笑ってしまったらしい。
すぐに口元を手で覆う。
「ご、ごめん。変な意味じゃなくて……」
「だいじょうぶでしゅ」
事実だ。
スーパーが見えてきた。
「ここでしゅ」
「うん……じゃ、行こうか」
店内に入った瞬間、空気が変わる。
冷房。蛍光灯。規則正しく並んだ棚。
――戦場だ。
ベビーカーの視点は低いが、陳列の配置は頭に入っている。
美結に連れられて、何度も来た場所だ。
「まず、こっちでしゅ」
「え? あ、うん」
俺が指差した方向へ、咲夜は素直に舵を切る。
離乳食コーナー。
ずらりと並んだ瓶とパウチ。
俺は即座に判断を下す。
「これと、これと……あ、そっちはダメでしゅ」
「えっ?」
「原材料に、はちみつ入ってまちゅ」
「……ほんとだ」
咲夜が、目を丸くする。
「よ、よく見てるね……」
「一度、死にかけてまちゅから」
「え?」
「気にしないでくだしゃい」
深掘りされると面倒なので、流す。
「このシリーズは、栄養設計が安定してまちゅ。今日は、この味と、この味を多めに」
「は、はい……」
言われるがまま、カゴに入れていく。
次はお菓子。
「赤ちゃん用のおせんべい。硬すぎないやつを二袋でしゅ」
「二袋も?」
「保存がききまちゅから」
「……なるほど」
納得している。
もう完全に、俺の指示待ち状態だ。
粉ミルク売り場。
「フォローアップを一缶。月齢的に、これで問題ないでしゅ」
「……詳しい、ね」
「そりゃあ、自分が飲むものでちゅし」
「そんなものなのかな……?」
「トイレットペーパーとティッシュ……」
――本当なら、欲しい。
備蓄は心許ない。
切れたら地味に詰むやつだ。
「……買うの?」
咲夜が、カゴを見ながら控えめに聞いてくる。
俺は、首を横に振った。
「今回は、見送りまちゅ」
「え?」
「かさばりまちゅし、持ち運びが大変でしゅ。今日の目的は、食糧の確保でちゅ」
「……なるほど」
納得はしているが、少し意外そうな顔だ。
「優先順位、ちゃんとしてるんだね……」
「いのちが掛かってまちゅから」
「……重いなぁ」
俺はもう一度、棚に視線をやる。
欲しいものと、今買うべきものは違う。
「……じゃあさ」
生活用品コーナーを離れかけたところで、咲夜が足を止めた。
少し迷うように視線を泳がせてから、こちらを見下ろす。
「後で、買ってきてあげようか? トイレットペーパーと、ティッシュ」
「……ありがとうございまちゅ」
俺は、素直に頭を下げた。
「とても助かりましゅ」
「うん。そんなに重いものじゃないし」
軽く言ってくれるのが、ありがたい。
少し間を置いて、咲夜が続けた。
「でも……あれ? そういうの、買ってきてくれる人はいないの?」
来た。
一拍、考える。
どう答えるのが一番角が立たないか。
「……いるには、いるのでちゅが」
「いるんだ」
「はい。ただ……」
言葉を探す。
正直に言えば、いくらでも言える。
だが、それをこの人にぶつける必要はない。
「……あまり、頼りにならないというか……」
「……ああ」
察しが早い。
「その……生活の細かいところまで、気が回らないタイプでちて」
「うん、なるほどね」
深追いはしてこなかった。
ただ、納得したように小さく頷く。
「じゃあ、なおさらだね。
後で、私が持ってくるよ」
「本当に、ありがとうございまちゅ」
今度は、少しだけ声が柔らかくなった。
助けてもらえることそのものよりも、
助けが必要だと理解してもらえたことが、ありがたかった。
ベビーカーが、再び動き出す。
――この人は、信用できる。
少なくとも、困っている幼女を、放っておくことはできない人だ。
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