第23話 黒いスーツの父と、ペンで戦う娘
窓の外は、朝から激しい雨が叩きつけていた。
ガラスを打つ雨音が、一定のリズムで部屋に染み、室内の空気を重たくしている。
湿った空気が重く垂れ込める中、咲夜はデスクの上に置かれた一枚の書類をじっと見つめ、深く息を吐いた。
「……やっぱり、断ろうかなって思ってる」
呟くような声だった。
迷いと諦めが、はっきりと混じっている。
彼女の視線の先にあるのは、大手芸能事務所からの正式な依頼書。
新規VTuberのキャラクターデザイン案件だ。
コンセプト資料には、整った文字でこう記されている。
『世界を魅了する歌姫』
真っ白な世界。
汚れのない偶像。
「どうしてだ? ギャラも条件も破格だろ?」
俺――南雲アリサは、PCに向かったまま、作業の手を止めずに返した。
咲夜は自分の液タブに表示された原稿――絡み合う肢体、湿度のある視線、熱を孕んだ女性たちの絵――に目を落とし、自嘲気味に笑った。
「だって私、エロ漫画家だよ? 『歌姫』なんて、キラキラした存在……私じゃ、描けないよ」
一度、言葉を切る。
「それに……私みたいなのが生みの親になったら、その子の足枷になっちゃう」
長年染みついた自己否定。
事実として、咲夜が評価されてきたのはエロさだった。
売れた理由も、名が知られたきっかけも、そこにある。
だからこそ――
エロがなければ、自分の絵は誰にも届かない。
そう思い込むようになってしまった。
「バカ言え」
俺はペンを置き、画面から顔を上げた。
「お前の描く女性には艶がある。それは、光に当たった瞬間にだけ浮かび上がる、影みたいなものだ。影があるから、歌は深みを持つもんだ」
さらに言葉を続けようとした、その時だった。
ピンポーン。
乾いたチャイム音が、空気を切り裂いた。
「宅配か? 密林で、何か頼んだとか?」
「いや……違うと思うけど……?」
インターホンのモニターを確認する。
「誰だ、こいつ……?」
画面に映ったのは、黒い傘を差した初老の男。
雨粒を弾くような、無駄のない立ち姿。
「ひっ……! と、父さん……!?」
咲夜の声が裏返り、血の気が引いた顔で半歩後ずさる。
『いるんだろ、咲夜』
スピーカー越しでも分かる、低く圧のある声。
「ど、どうしよう……」
「落ち着け。とりあえず居留守で――」
『開けるぞ』
モニターの中で、男が懐から鍵を取り出した。
「なんで!?」
「……合鍵だな。管理会社から借りたか」
問答無用の強行突破。
解錠音が響き、重い足音が玄関から侵入してくる。
リビングのドアが開き、咲夜の父が姿を現した。
「……ふん、破廉恥な部屋だ」
一瞥だけで吐き捨てる。
壁に貼られた肌色の多いポスター。
棚に並ぶ漫画雑誌と資料。
咲夜の世界。そして、咲夜が積み上げてきたもの。
――それらを、汚物を見るような目で見やがった。
「父さん……どうして……」
「汚らわしい仕事で日銭を稼いでいると聞いてな」
男は机に歩み寄り、出力されたチェック用原稿を手に取る。
無言で目を走らせ、そして――
「……まだ、こんな恥知らずな落書きを続けていたのか」
「落書きじゃない! これは私の仕事で……!」
咲夜が声を絞り出す。
だが、咲夜の父親は聞く耳を持たず、原稿を机に放り投げた。
「仕事? 人の劣情を煽るだけのポルノがか? 」
淡々と、切り捨てる。
「近所の目もある。親戚の手前もある。お前が東京で何をしているか、ひた隠しにする母親の身にもなれ」
咲夜の肩が、ぴくりと跳ねた。
「もう十分だろう。実家に戻れ」
父親が、懐から封筒を取り出し、テーブルに置いた。
中から覗く写真と釣書。見合い写真だ。
「地元銀行員の息子さんだ。真面目な男だぞ。先方には、お前が東京で『デザインの勉強』をしていたと伝えてある」
「……そんな……嘘をついたの?」
「親心だ。お前の経歴の傷を隠してやったんだ」
淡々と告げる。
「再来週の日曜に顔合わせをする段取りにしている。来週また来るから、それまでに荷物をまとめておけ。この部屋は解約する」
「い、嫌っ……!」
咲夜が叫んだ。
「私、帰らない! ここでの生活は、自分のお金でやってる! 家を出る時に借りたお金だって、お母さんに全部返した! 父さんにとやかく言われる筋合いはないはず!」
経済的に自立していること、それは彼女の誇りだった。
それが、エロ漫画で稼いだお金であっても。
だが――
「……その金が、どこから出ていたと思っている」
「え……?」
「お前の母親のへそくりで、東京のマンションの敷金や礼金が払えるわけがないだろう……出したのは私だ」
咲夜が息を呑む。
「保証人の審査も、私の信用で通した。お前がここで『ごっこ遊び』ができていたのは、結局のところ、私が許していたからに過ぎん」
「……そ、そんな……」
咲夜がその場に崩れ落ちる。
親元から飛び出して親に頼らず独り立ちしてきたつもりだった。
だが、咲夜が立っていた場所は父親の手のひらの上だったのだ。
「遊びは終わりだ。お前には才能がない。こんな汚らわしい絵で、まともに社会で生きていけるわけがないだろう」
父親の言葉は、咲夜自身の自己否定と共鳴し、心を深々とえぐっていく。
「……ぅ、うぅ……」
咲夜が泣き出した。もう、反論する気力も残っていないようだ。
男はそれを見て、満足げに頷き――俺の方を見た。
俺の前のテーブルにはチェック用の出力原稿が置かれている。
もちろん、あられもない女子がいっぱい描かれている。
「……そこの、子供」
「なんだ、おっさん」
「……口の悪いガキだ。どこの子だ」
「隣に住んでる南雲だ。咲夜のアシスタントをしてる」
「アシスタント……? 小学生がか?」
父親の顔が怒りで赤黒く染まる。
「咲夜、お前……! こんな卑猥なゴミを、あまつさえ年端も行かぬ子供に見せるとは……! 家から犯罪者を出すつもりか、恥を知れ!」
父親が大股で歩み寄り、俺の手元にあった出力原稿をひったくろうとした。
だが、俺はさっと身を引いてかわした。
「触んな」
「なんだと……?」
「これは咲夜の大事な原稿だ。あんたの汚い手で触るなよ」
俺は原稿を背に隠し、男を睨みつけた。
「あんた、さっきから聞いてりゃ言いたい放題だな。ゴミだの、落書きだの、才能がないだの……お前、親だろ?」
「親だからこそ言っている。こんなものが社会の役に立つか」
「立つね」
俺は即答した。
「咲夜の絵を大事に思ってる人は多い。咲夜の絵がどれだけの人に求められているかなんて知らないだろう。求められるから咲夜は暮らせてるんだ」
「そんな破廉恥なもので身を立てるなど、恥さらしにも程がある」
「ハッ、見識が低いな。浮世絵って知ってるか? あれも当時は春画、つまりエロ本だったけど、今は世界的な芸術だぞ」
「……いずれにしても、大人のものだ。子供が関わるのは許されない」
「児童福祉法がどうとか言うつもりか? おっさんは法律詳しいのか?」
「なに?」
「確かに『児童福祉法』や『青少年健全育成条例』では、有害図書を青少年に販売・頒布・閲覧させることを規制してる」
俺は淡々と、事実だけを並べる。
「でも、その法律のどこに『創るのを手伝っちゃいけない』って書いてある?」
男が一瞬、言葉を失った。
「閲覧はダメ。販売もダメ。でも、未成年が『商品』になる前の創作作業に関わること自体は禁止されてない。農家の子供が野菜を洗うのと同じ。俺は、創作の手伝いをしてるだけだ」
「屁理屈を……!」
「屁理屈でも理屈は理屈だ。大人は理屈で喋るもんだろ?」
父親はギリリと歯を食いしばる。
振りかざした規律を、逆手に取られたのが悔しいのだろう。
だが、俺の口撃はまだ終わらない。
さっきこの男が言い放った、「親の金と信用があったから生活できていた」という言葉。あれが一番、咲夜の心を折っていた。だからこそ、そこだけはきっちりと否定しておかなければならない。
「それにな、おじさん。さっき『私が許していたから』とか言ってたけどさ」
俺は部屋を見回した。
散らかってはいるが、咲夜が自分の城として築き上げてきた空間だ。
「確かに、最初はあんたの金や信用に頼ってたのかもしれない。成年してすぐだったし、駆け出しだったしな。それは事実だ」
俺は咲夜の父親を真っ直ぐに見据えた。
「でも、今は違うだろ? 咲夜はもう、借りてた金を全額返したって言ってたぞ。今のこの部屋の家賃も、光熱費も、飯代も……全部、咲夜が自分の腕一本で稼いだ金で払ってるんだ」
俺はタブレットの画面――仕事の依頼メールや、振込の通知画面を指差した。
「誰に頼ることもなく、自分の稼ぎだけで生活を回してる。それを世間では『自立』って言うんじゃないのか? 立派に独り立ちしてるプロの漫画家を捕まえて、『ごっこ遊び』だの『恥』だの……蔑まれる筋合いなんて、これっぽっちもないはずだ」
男の眉間が、これ以上ないほど深く刻まれる。
反論できないのだ。
経済的な自立という、大人として最も分かりやすい指標をクリアしている以上、親としての支配権はもう及ばない。それをガキに指摘された屈辱。
行き場を失った父親の怒りは、最も弱い立場の人間へと向けられた。
「……咲夜」
矛先が娘に向く。
「こんな小賢しいガキに何を吹き込まれた! やはり、こんな環境に置いてはおけん!」
俺が言うと、男はフン、と鼻を鳴らした。
「……まあいい、今日は帰る。来週また来る。その時までに支度をしておけ」
言い捨てて、出て行く。
バタン、と扉が閉まる音が、重く響いた。
雨音だけが残った部屋で、咲夜は立ち尽くしていた。
「……師匠」
咲夜が、ポツリと呟く。
その声は震えていたが、泣いてはいなかった。
「私……私、言い返せなかった」
「……ああ」
「私の絵は価値がないって。私の作った作品に意味はないって……『胸を張って見せられない仕事』だって、そう言われた」
咲夜の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
「悔しい」
彼女が顔を上げた。その瞳に、涙ではなく炎が宿る。
「私の絵は、恥ずかしいものなんかじゃない……けど、私の言葉じゃ何を言っても届かない」
「あの父親に言葉は届かないだろうな」
俺は正直に答えた。
「じゃあ、どうする? 諦めて実家に帰るつもりか?」
「ううん」
咲夜は、テーブルの上のお見合い写真を裏返し、代わりに真っ白な原稿用紙を置いた。
「私はクリエイターだもん。クリエイターは、作品で語るしかないから」
彼女はペンを握った。
「一週間後までに作品を仕上げる。父さんの心に届くような……私の本気をわからせてやる」
咲夜が俺を見る。
もう、迷いはなかった。
「師匠、手伝ってくれる?」
「もちろんだ……とびきりのを描いて、あの親父の度肝を抜いてやろうぜ」
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