第11話 苦い祝杯とグレーのボクサーブリーフ
その日の配信は、いつもと少し空気が違っていた。
画面には「収益化記念枠」の文字。
そう、ついにこの時が来たのだ。
チャンネル登録者数1000人、総再生時間4000時間の壁を突破し、俺のチャンネルにも「投げ銭」機能が実装されることになった。
時刻は夜の7時。
美結は仕事に行っており、家には俺一人。
咲夜はいつものように隣の部屋で待機。
俺は少し緊張しながら、配信開始ボタンを押した。
「あー、テステス……よう、お前ら」
画面の中の『AL1-SA』が手を振る。
同接は400人を超えている。ありがたいことだ。
「今日は収益化記念だ……まあ、記念っつっても、やることは変わらん。いつもの雑談だ」
俺はポリポリと頬をかいた。
「正直なところ、俺はただ好きでやってる幼女だから。いざ金をもらう機能をつけるとなると、気が引けるんだよな……」
古い考えなのかもしれないけれど。
どうにも一方的に金銭をもらうというのには抵抗がある。
「まあ、親戚の子供におやつ代あげるくらいの感覚で、100円とか200円とか、チャリンと投げてくれればいいから」
『謙虚w』
『おやつ代了解』
『師匠、おめでとう!』
コメント欄が祝福ムードに包まれる。
よし、ここまでは予定通りだ。
だが、今日のメインイベントはここからだ。
「で、だ。記念して、ついに解禁することにしました!」
俺は机の下から、冷やしておいた「アレ」を取り出した。
「黄金色の液体を!」
カシュッ!
プルタブを開ける、爽快な音が響く。
『ビール!?』
『酒!?』
『アウトーーー!!』
『いや、おっさんだから、普通にセーフだろw』
コメント欄がざわつく。
俺は慌てて補足した。
「待て待て、早まるな! ちゃんとノンアルだからな! これは『ビールテイスト飲料』だ! 合法! 合法!!! ただの炭酸麦ジュースだって!!」
俺は缶の表示をカメラに見せる勢いで強調した(実際は見せられないが)。
法律上は清涼飲料水。三歳児が飲んでも法には触れない……まあ、育児的には推奨されないだろうが、今日くらいはいいだろう。
「何年ぶりかな……前世以来か」
『唐突な前世設定www』
『おっさん、無理すんなww』
周囲の雑音は意に介さず、俺はグラスに麗しい液体を注ぎ始めた。
トクトクトク……シュワワワ……。
「おお、このグラスに注がれる音。聞こえてるかー? これ、最高だよな」
琥珀色の液体が泡立ち、弾ける音。
ああ、たまらない。この音だけでご飯が三杯食える。
俺の喉が、30代の記憶が、あの苦味と爽快感を求めて疼いて止まない。
『うーん……記念すべきこの日に。それじゃあ、乾杯といこうか……かんぱーーーい!』
俺はグラスを煽った。
喉を開け、一気に流し込む。
突き抜ける炭酸、そして懐かしの喉越し――
「――ぶふーーーっ!!!」
俺は盛大に吹き出した。
危ない、マイクにかかるところだった。
『!?』
『wwwww』
『吹いたw』
『大丈夫か!?』
「げほっ、ごほっ! ……にっがぁぁぁぁぁぁ!!??」
俺は涙目で呻いた。
苦い。なんだこれ。毒か?
舌が痺れるような強烈な苦味。
かつて愛飲していたはずのホップの香りが、今の俺には「不快な異物」としてしか感じられない。
忘れていた。
俺の今の肉体は、正真正銘の「三歳児」なのだ。
子供の舌は、本能的に「苦味=毒」と判断して拒絶するようになっている。ピーマンすら苦いと感じるこの舌で、ビールなんて飲めるわけがなかったのだ。
俺はグラスを睨みつけた。
頭(脳)は「美味いはずだ」と認識しているのに、体(舌)が「マズイ」と叫んでいる。
この乖離が気持ち悪い。
『先輩?』
『もしかして、おちゃけ初めてでちゅか?』
『無理すんなw』
『かわいいw』
「……うっせーな! ひ、久しぶりだから舌がびっくりしただけだ!」
俺は強がってグラスを持ち直した。
バカにするな。俺は中身30代のおっさんだぞ。
こんな子供騙しの飲み物、飲めないはずがない。
俺は意を決して、もう一度グラスに口をつけた。
ちびり。
「……うぐっ……にがい……にがいよぉ……」
あまりの衝撃に、マイクの前で素の声が漏れた。
おっさんの思考など吹き飛んだ、純度100%の幼児の泣き言。
一瞬の静寂。
そして、コメント欄が爆発した。
『かわいいいいいい!!』
『え、今の声なに!? かわいすぎんか?』
『保護欲をそそられる……』
『脳が溶ける』
リスナーたちが俺の情けない声に悶絶する。
だが、すぐに冷静な(訓練された)リスナーたちが警鐘を鳴らす。
『騙されるな! 中身はおっさんだぞ!』
『目を覚ませ! これは罠だ! 俺たちを誘い込む演技だ!』
『危ねえ、スパチャ投げそうだったが、まだできなかった』
『おっさん相手に「かわいい」は禁句だぞ!』
……くそっ、不覚を取った。
おっさんとして売っているのに、幼児ムーブを晒してしまった。
だが、これを認めちまったら、俺の中の「おっさん」が死んでしまう気がした。
俺は涙目で、未練がましくグラスを傾け続けた。
「まあ、いい。気を取り直して……というわけで、収益化設定、オンにしてみるか」
俺は管理画面のマウスをクリックし、スーパーチャット機能を「有効」に切り替えた。
その瞬間だった。
ドドドドドドドッ!!!! ピロリン! ピロリン! ピロリン!
コメント欄が、一瞬にして真っ赤に染まる。
金額の桁を見た瞬間、背中がひやりとした。
1万円の赤スパ、五千円の紫スパ、その他無数の投げ銭が、滝のように流れ落ちていく。
『祝・収益化!』
『ビール(苦い)代』
『美味しいもの食べて』
『いつもありがとう、師匠』
『さっきの「苦いよぉ」が可愛かったから投げる』
「――は?」
俺は呆気にとられた。
なんだこれ。バグか?
「ちょっ!? お前ら、やめろ!? お金を大切にしろって言ってるだろ! バカなのか!?」
俺は慌てて叫んだ。
「いや、ありがたいんだけどさ! 今の俺は正真正銘ニートだし、金は喉から手が出るほど欲しいけど! でも、こんなにもらったら……お前らと対等じゃなくなるじゃんかよ!」
俺は、ただの「話のわかるおっさん」として、こいつらと駄弁っていたかったのだ。 金をもらってしまったら、それは「演者」と「客」になってしまう。
それが怖かった。
「何を返したらいいのかわかんねーよ……俺にできることなんて、クソみたいな人生訓垂れるか、レトロゲーやるくらいだぞ?」
困惑する俺に対し、温かいコメントが流れる。
『師匠はそのままでいいよ』
『いつも師匠に励まされてるから』
『師匠が楽しそうにしてるだけでいい』
……なんだよ、こいつら。
最高の奴らかよ。
そんな中、空気を読まない(あるいは読みすぎた)一人のリスナーが悪ふざけのコメントを投げた。
『じゃあ、お礼にパンツの色教えて』
「は?」
なんだその脈絡のない要求は。
感動的な空気が台無しだ。
しかし、俺はふと肩の力が抜けた。
ああ、こういうノリでいいのか。
「……パンツの色? 知りたいか?」
俺はため息まじりに答えた。
「……グレーのボクサーブリーフだけど」
俺が今履いているのは、某子供服チェーン店で買った男児用ボクサーパンツ(グレー)だ。嘘は言っていない。
「嬉しいか? これ??」
俺が真顔で問いかけると、コメント欄は総ツッコミ状態になった。
『誰得だよww』
『おっさんのパンツ情報いらねーよw』
『解釈一致』
『もっと可愛い色かと思ったのにw』
『夢を壊すなw』
画面の向こうで、俺たちが笑い合っている空気が伝わってくる。
金銭の授受が発生しても、こいつらとの関係は変わらないのかもしれない。
俺は少しだけホッとして、苦いノンアルビールをもう一口すすった。
相変わらず、とんでもなくマズい。
「……いつか、お前らと飲みに行きたいなぁ……」
ふと、本音が漏れた。
チャット越しじゃなく、グラスを合わせて、くだらない話をして。
そんな「普通の大人」の付き合いができたら、どんなに楽しいだろう。
だが、それは叶わない願いだ。
俺はVtuberであり、そして何より――三歳児なのだから。
「……なんてな。俺は引きこもりの幼女だから、外には出ない主義なんだ。その代わり、ここでならいつでも付き合うからよ」
俺は、画面の向こうの「友人」たちに向けて、苦いグラスを掲げた。
「これからもよろしく頼むぜ、お前ら」
返ってきたのは、たくさんの『乾杯』のコメントだった。
その文字の列を肴に、俺はもう一口、苦い液体を飲み下した。
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