第12話 過去との決別
VTuber、AL1-SAの初収益が振り込まれた日。
通帳に記帳された数字を見て、俺は小さく息を吐いた。
「……十五万円、か」
三歳児の小遣いとしては破格だが、元サラリーマンの感覚からすれば、大した金額ではない。
だが、これは俺が南雲アリサとして、誰の力も借りずに稼いだ最初の金だ。
この金には、重みがある。
俺はリビングで寛いでいる美結に声をかけた。
「美結。この金だけど、俺が管理していいか?」
「んー? いいよー。アリサちゃんが稼いだんだし、好きに使ったらー?」
美結はテレビを見ながら、あっけらかんと答えた。
この金銭への執着のなさ、おおらかさは彼女の美点であり、同時に欠点でもあるのだが、今回ばかりは助かった。
俺はその足で、隣室の咲夜を訪ねた。
「……なぁ、咲夜。頼みがあるんだが」
「ん? 新しい立ち絵でも欲しいの? 確か収益入ったんだよね」
「いや、そうじゃなくて……旅行に連れて行ってほしいんだ」
俺はタブレットの地図アプリを表示させ、ある地方都市の住宅街を指差した。
「ここに行きたい。旅費は俺が出す」
咲夜の手が止まる。
そこは観光地でもなんでもない、ありふれた地方の住宅街。
だが、彼女は深く追求しなかった。
俺の目を見て、何かを察したようだった。
「……美結さんには、なんて言うの?」
「『咲夜の取材旅行についていく』とでも言っておく。あいつなら『お土産よろしく~』で済むだろう」
「わかった……行こうか、師匠」
◇
新幹線と在来線を乗り継ぎ、その街に着いたのは昼過ぎだった。
駅前のロータリーに降り立った瞬間、風の匂いが変わる。
「……ここ、師匠の地元なんだ」
隣を歩く咲夜が、物珍しそうにキョロキョロしている。
「ああ……あの商店街、昔はもっと賑やかだったんだけどな。シャッター増えたな」
「へぇ。よく買い物してたの?」
「帰りに惣菜買って帰るのが日課だった。あそこのコロッケ屋、まだあるな……」
「コロッケ屋さん。行く?」
「……いや、今はいい」
だが、今の俺の視点は低い。
信号機も、店の看板も、見上げる位置にある。
――まるで子供の頃と同じだ。
そのせいか、見慣れたはずの街が妙に懐かしい。
俺は咲夜の手を引いて歩く。
三十分ほど歩いて、その家が見えてきた。
築十年の一軒家。長女が生まれる少し前に、俺が三十五年ローンを組んで建てた、自慢の家だ。前世の俺が死んだことで、ローンは無くなっている……はずだ。
「……ここ?」
咲夜が小声で尋ねる。俺は無言で頷き、少し離れた電柱の陰に隠れた。
表札を見る。綾瀬。名前は変わっていない。まだ、あいつらはここに住んでいる。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
「いってきまーす!」
「待ってよお姉ちゃん!」
元気な声と共に、二人の少女が飛び出してきた。
長女の柚希と、次女の麻友だ。
俺が死んだ時はまだ幼かった彼女たちも、すっかり背が伸びて、お姉さんらしくなっている。二人とも小学生になっている筈だ。
胸が締め付けられるように痛んだ。駆け寄って、抱きしめたい。
「パパだぞ」と言ってやりたい。
だが、今の俺はただの不審な幼女だ。
「こらこら、走らないの。転ぶわよ」
続いて、妻の華が出てきた。
明るい服を着ている。
その笑顔は、俺の記憶にあるよりもずっと穏やかで、柔らかかった。
そして――彼女の隣に、知らない男がいた。
「じゃあ、送ってくるよ」
「ええ。お願いしますね」
スーツ姿の男性は、慣れた手つきで車のキーを開け、娘たちを後部座席に乗せた。
華が男性に微笑みかけ、何か言葉を交わす。
その雰囲気は、とても自然で、親密そうに見えた。
「ほら、早く乗って」
男性が娘たちの背中を優しく押す。
娘たちも、その男性に懐いている様子で、楽しそうに車に乗り込んでいく。
「……あ」
俺の喉から、渇いた音が漏れた。
車が走り去っていく。華が手を振って見送る。
絵に描いたような、幸せな家族の風景。
――そこに、綾瀬恭介の居場所はどこにもなかった。
(そっか……そういうことか)
俺が死んでから数年。
三十代前半で未亡人になった華に新しいパートナーがいても不思議ではない。
娘たちの送り迎えをしてくれるような、あんなに優しそうな人がそばにいてくれるなら、安心だ。
俺が死ぬ気で働いて残したこの家で、新しいパパと一緒に、幸せに暮らしているんだな。
「……よかった」
寂しさはある。
けれど、それ以上に――安心した。
俺の死は、彼女たちの人生を終わらせはしなかった。
彼女たちはもう、大丈夫だ。
前を向いて歩いている。
「……師匠」
咲夜が心配そうに俺の肩に手を置いた。
「俺がいなくても、あいつらは笑ってる。不幸になってない……それだけで、十分だ」
もし彼女たちが、俺の死を引きずって泣いていたら。
生活に困って路頭に迷っていたら。
俺は何を差し置いても正体を名乗って責任を果たすつもりでいた。
でも、それは必要なかった。俺の居場所はもうそこには無い。
「……帰ろう、咲夜」
俺は踵を返した。
もう、振り返らない。
「挨拶、しなくていいの?」
「ああ。俺には、今の家族がいるからな」
俺は咲夜の手をぎゅっと握り返した。
失った温もりは戻らないけれど、今ここにある温もりは、こんなにも確かだ。
「咲夜、コロッケ食べようぜ」
「いいね。美結さんにも買って帰ってあげようか」
サヨナラ、俺の愛した家族。
どうか、幸せに。
空は高く澄み渡っていた。
俺の二度目の人生が、本当の意味で始まった気がした。




