第41話 宿敵の来訪と黒い依頼にゃ
バウマン男爵家の応接室には、張り詰めた沈黙が漂っていた。
上質な紅茶の湯気が、重苦しい空気に揺らめいている。
「急な来訪ですまない、バウマン男爵。それにクラウス君も」
革張りのソファに深く腰掛け、重々しく口を開いたのは、初老の男――ヴァイスハイト伯爵だ。
かつては我が家を「貧乏男爵」と公然と嘲笑っていた男が、今は眉間に深い皺を刻み、苦渋に満ちた表情を浮かべている。
そして、その背後。
直立不動で控えている若者が一人。
ガーラント・ヴァイスハイト。
殊勝な態度で俯き、反省の色を滲ませているが……俺は騙されない。
(……久しぶりじゃないか、ガーラント)
俺、ノワールは、クラウスの膝の上で丸くなりながら、その男をじっと見上げていた。
喉の奥から、勝手に低い唸り声が漏れそうになるのを、必死で噛み殺す。
視界が赤く染まるほどの殺意が、全身の毛を逆立たせていた。
忘れるはずがない。
俺の前世――人間のクラウスだった頃の最期を。
ダンジョンの深層で、魔物に追われた俺の手から、こいつはノワール(当時の愛猫)をひったくった。
そして、『化け物の餌にはちょうどいいだろう!』と笑いながら、俺の家族をドラゴンの目の前へ放り投げたのだ。
助けようと駆け戻った俺の背中を、魔法で撃ち抜き、足止めしたのもこいつだ。
『あばよ、負け犬!』
あの時の、耳障りな哄笑。
骨が砕け、肉が炭化していく音と臭い。
愛する相棒が地面に叩きつけられた、あの鈍い音。
そのすべての元凶が、今、目の前で「神妙な顔」を作って立っている。
(……殺す。絶対に殺すにゃ)
鋭利な爪が、無意識にクラウスのズボンに食い込む。
今すぐ飛び掛かり、こいつの両目を抉り出し、喉笛を食い千切ってやりたい。
だが、今はまだその時ではない。
俺は単なる猫だ。ここで暴れれば、クラウスや父さん、それにミアたちに迷惑がかかる。
俺は深く息を吐き、臓腑が焼け爛れるほどの憎悪を、冷徹な理性の檻に押し込めた。
「それで、ヴァイスハイト伯爵。本日はどのようなご用件でしょうか?」
父、バウマン男爵が静かに問いかける。
相手は格上の伯爵家だが、父の目に怯えはない。
クラウスはその隣に座り、父の言葉を補佐するように控えている。
ヴァイスハイト伯爵は、わざとらしい溜息をつき、テーブルの上に一枚の羊皮紙を置いた。
「実は……恥を忍んでお願いがあるのだ。先日、冒険者ギルドを通じて、貴殿の管理するダンジョンの『上層エリア』での採掘権を購入させてもらったのだが……ご存じかな?」
「ええ、報告は受けております。正規の手続きを経て許可証を発行しました」
父が頷く。
バウマン領のダンジョンは現在、安全な上層の一部のみ、他領の貴族や商人にも有料で採掘を開放している。これはミアの提案による外貨獲得策の一つだ。
「私の部下が数名、その許可証を持って採掘に入ったのだが……定刻になっても戻らないのだ」
「戻らない、ですか?」
「ああ。心配になって私も入り口まで見に行ったのだが、姿が見えない。管理人の話では、まだ退場記録がないそうだ」
伯爵は眉を下げ、困り果てたように首を振った。
バウマン領のダンジョンは整備が進んでいる。入り口には管理人が常駐しているし、平坦な地形の上層で迷うことなどありえない。
にもかかわらず、帰ってこないということは――。
「おそらく……彼らは誤って、許可されていない『中層エリア』への階段を降りてしまったのではないかと思われる」
「中層へ……!?」
父が驚きの声を上げる。
(まあ、そう主張してくるだろうな。だが……)
中層より先は、まだ危険度が高いため一般開放していない。入り口には厳重な柵と警告板を設置しているはずだ。
それを「誤って」降りるなど、よほどの不注意か、あるいは故意でなければありえない。
「契約書を確認させてもらったよ。『不測の事態が発生した場合は、管理者であるバウマン家が対応する』……そうあったね?」
伯爵が羊皮紙の条項を指差す。
確かにその条項はある。だが、それはあくまで「上層での事故」を想定したものだ。禁止エリアへの侵入まで保証するものではない。
「もちろん、勝手に中層へ足を踏み入れたのはこちらの落ち度だ。弁解の余地はない。だが、部下の命がかかっているのだ。……どうか、バウマン男爵。救助をお願いできないだろうか?」
「それは……」
父が言葉に詰まり、隣のクラウスへ視線を向けた。
この状況をどう見るか、現場を知る息子の判断を仰いだのだ。
クラウスは父の視線を受け止めると、視線を落とし、腕の中の俺を見た。
(ノワール。どう思う?)
言葉には出さないが、クラウスの瞳が問いかけてくる。
俺は前世の記憶を反芻する。
ガーラントという男の卑劣さ。そして、ヴァイスハイト家が追い詰められているという現状。
遭難? 馬鹿な。これは口実だ。
中層という「人目のない場所」へ、俺たちを誘い出すための。
(……罠だにゃ)
俺は【意思伝達】のスキルを発動し、明確な「警告」の意志をクラウスへ送った。
クラウスの眉がピクリと動く。
俺の意図を完全に理解した彼は、テーブルの下、父にしか見えない角度で指を交差させ、「×(バツ)」のサインを作った。
――罠です。信用してはいけません。
父の目が、微かに細められる。
息子の、そしてその飼い猫(守り神)の判断を、父は絶対的に信頼している。
だが、その一瞬のアイコンタクトを、見逃さない男がいた。
「…………」
ヴァイスハイト伯爵だ。
彼の視線は父ではなく、クラウスの腕の中にいる俺へと向けられていた。
射るような眼差しで、凝視している。
(……チッ、勘のいい爺だにゃ)
俺は知っている。
かつてヴァイスハイト家には、「ロビン」という賢い老猫が飼われていたことを。
ロビンはつい半年前までヴァイスハイト家のためにスパイ活動を行っていた。
だからこそ、伯爵は知っているのだ。
猫という種族の中に、稀に人知を超えた知性を持つ個体が存在することを。
伯爵の視線が、「まさか、この猫が入れ知恵を?」と語っている。
だが、俺はあくまで無邪気な猫のふりをして、「にゃあ」と小さく鳴いてみせた。
「……そこで相談なのだが」
伯爵は視線を外し、再び父に向き直った。
「私たちも同行させてもらえないだろうか?」
「同行、ですか?」
「ああ。中層は危険だと聞く。君たちの案内が必要だ。それに、もし部下が怪我をしていたら、私の手で運んでやりたい。……彼らは私の大切な家族同然なんだ」
伯爵が目を潤ませる。
背後に控えるガーラントも、神妙な顔つきで深く頭を下げた。
……上手い芝居じゃないか。
親子そろって、「自分たちの落ち度を認めつつ、部下のために頭を下げる誠実な貴族」を演じている。
父は、「ちょっと席を外させていただく」と断りを入れ、別室で俺とクラウスで協議をした。
罠だと分かっていて、それでも受ける。
それが、俺たちの結論だった。
断れば「バウマンは遭難者を見捨てた」と悪評を流される。ならば、あえて懐に入れ、こちらの庭で迎え撃つ。
「……席を外して申し訳ありません、重要な決め事だったもので。結論としましては、ご提案を受け入れます。案内しましょう」
「おお! 引き受けてくれるか!」
「はい。ですが、中層は魔物も強力です。私の息子クラウスと、彼のパーティメンバー全員で護衛として同行します。……それでも構いませんね?」
父の条件提示に、伯爵の背後でガーラントの口元が微かに歪んだ。
一瞬、「全員で来るのか、手間が省ける」とでも言いたげな、嗜虐的な色が瞳に宿る。
「……もちろん構わないとも。優秀な冒険者でもあるクラウス君が来てくれるなら、これほど心強いことはない。感謝するよ」
伯爵が仰々しく礼を言う。
その笑顔の下で、親子がほくそ笑んでいるのが分かった。
上等だ。
どちらが獲物か、その身に教えてやる。




