2-1、人魚の呪いの鏡
二
海だ。海が歌っている。
海沿いに建つ高校の部室で、高校生の無邪気な話し声が聞こえる。夏の終わりの風は塩気が混じり、ゆえに木造の校舎も湿り気を帯びる。
「あそこの理科室に鏡があるじゃん」
「あの、使われてない、布がかぶせてあるやつ? 七不思議の?」
平和な放課後のことである。使われていない部室は元々書道部のもので、今は彼女ら五人の秘密基地よろしく、密やかに使われる。
書道部がクラブから部活に昇進したのは、部員が五人から六人に増えたからだと聞いている。が、そんなものは建前で、去年の部長が展覧会で金賞を取ったから、この四畳半の畳張りの部室とはおさらばとなったのである。
後釜として設立されたばかりのこのクラブの部員はまだ五人。六人に増えたとしても書道部のように部屋を移ることはないだろう。
「もう、七不思議なんてこりごりだからね!?」
このクラブの部長である佐奈の話題に噛み付くのは理沙だ。その話を傍らでまるで興味がないように聞いているのがカスミである。
理沙は怖がりだから、もう七不思議は懲り懲りだった。
怪奇クラブと称されたこのクラブで、カスミ、佐奈、理沙、恵美子、かえでは、おのおの面白そうな怪奇を持ち寄っては、それを検証するのが彼女たちの放課後だった。しかしそれは夏休み前までの話だ。今はもう、怪奇現象からはなるべく遠ざかりたかった。
この学校にも七不思議なるものは存在する。彼女らはそれらのいくつかを、『経験済』た。
呪いの人魚の鏡、人面犬、花子さん、屋上の天使、工事現場の生霊、カッパ伝説、そして言わずと知れた『人魚』。
「でもさ、見てよ。今度こそ怪奇現象が嘘だって突き止められるかも」
佐奈は得意げになって鞄からとあるものを取り出した。茶色味を帯びたそれは、独特の匂いを放っている。古本屋の匂いだ。
「え、なに……? 伝記?」返したのは、カスミだった。
「そう。見つけちゃったんだよね、理科室の準備室で」
いかにも『それっぽい』古い本は、今時珍しい紐閉じの本であるし、虫食いや紙の焼けなど、雰囲気を演出するには十分である。
佐奈が取り出した古びた本に、先ほどまでまるで興味も示さなかったカスミでさえもくぎ付けで、ほかの部員もまた、佐奈が机の上に広げた本を覗き込んでいる。
「かえでに聞いたの。この学校には、ある伝記があるんだって」
「へえ、かえでか。いつも七不思議の話題持ってくるの、かえでだよね」
カスミが伝記の表紙をひと撫でする。ザラりとした質感、古い紙だろうか。紐は麻だ。
佐奈はその本をぺらぺらとめくり、そしてとあるページでその手を止めた。ページの文頭に書いてあったタイトルに、カスミを含めた皆が注目する。
達筆ですぐには読めない。それたけで雰囲気もある。虫食いの跡を無視しながら、五人で伝記の文字を追う。
「『人魚に呪われた理科室の鏡』……? この七不思議は確か、深夜に学校に行かなきゃなやつじゃ?」
タイトルを声に出して読み上げたのはかえでである。
先ほどまで興味のかけらもなかったかえでをぎゃふんといわせることができたようで、佐奈はすでに満足気である。
そもそも、かえでが伝記の話を持ちかけたのに、感動が薄いのが気に入らなかった。
カスミほどではないにしろ、かえでも妙にリアリストなところがある。つまり、怪奇現象を信じていない。自分で話題を持ち出すくせに。
かえでのポニーテールが肩にかかって、かえでがかぶりをふって馬の尾を払い除けた。「アホらし」
「とりあえず、私も読ませて」カスミまでもがそれを覗き込む。
「カスミ。やめときなよ」
理沙はいちばんに伝記を読み終えて、隣にいるカスミを心配するようにに言った。
カスミは怪奇現象を全く信じていない。それは入部した時から誰もが知っていることだった。怪奇現象を調べるには、科学要員も必要だ、と佐奈が引き入れたのは記憶に新しい。
「気にならないって言ったら嘘になるじゃん。今までは人魚のミイラだの、カッパ伝説、人面犬に工事を邪魔する生き霊。どれも『噂』しかなかったのに、この七不思議にはちゃんとした『伝記が残ってる』」
カスミが苦虫を噛み潰したような顔をした。
七不思議について、五人はあまりいい思い出がない。どれも中途半端な結果だけが残った。あれが本物かそうでないのか、いまだにわかっていないのだ。
とはいえ、怪奇クラブのメンバーがこうやって打ち解けられる日が来るとは誰も思わなかった。部活が必須の学校だったから、仕方なしにこういった部活に入るものも少なくない。
そんな中で、五人という決して少なくない人数が和気あいあいと部活に励めるのは、なによりの幸いだ。
かえでのノリが悪いのは気に入らないが、普段怪奇現象に興味のないカスミを引き入れることが出来て、佐奈はそれだけで終わりにするか迷った、迷ったが、ひとりで抱えるには荷が重すぎた。
本題はここからだ。佐奈は意を決して伝記を手に取って、とあるページを開いて、四人に見えるように胸の辺りに伝記をかかげた。
「ここ、読んでみて」
「うーんと……『丑三つ時に理科準備室の鏡を覗くとき、呪いの人魚の姿が見えることだろう』……って意味であってる?」
「そう、そうなの。まさしくここに書かれてるのは、そういうことなの」
佐奈の持ってきた伝記を、カスミが読み上げると、次は理沙、恵美子、かえでの順に回し読みして、五人で顔を見合わせて口を引き結んだ。
怪奇クラブでは時々こうやって、うわさ話や七不思議など、怪奇にまつわる場所に赴く。そうしてその怪奇を検証するのが彼女たちのクラブの存在意義だ。
今回もまた、女子高校生の退屈しのぎにはもってこいの、なんの根拠もない伝記である。
学校の七不思議のひとつでもある、理科準備室の鏡。
あれはいつも布が被せてあるから、鏡を実際に見た人は少ない。もしかすると、鏡に度々呪いの人魚が見えるから、布を被せたのかも。
「でも、深夜に学校になんて入れないし」
カスミがしり込みするも、かえでは伝記を今一度見て、
「でも、今までの七不思議が嘘か本当か……確かめる意味でも、この伝記を検証するのはアリじゃない? それともカスミは、本当は幽霊を信じてるから、怖いとか?」
かえでに煽られ、カスミはむ、と息を漏らした。
「じゃあ、確かめよう。この伝記の通りにして、なにもなければ、今までの七不思議だって、気のせいだって証明するし!」
「……私はカスミに賛成。今までのを、払拭したい」
乗り気でないにしろ、一番に佐奈が賛成し、そのあとに続いて残りのメンバーも賛成の意を示した。手を挙げて、しかし顔は引きつっていた。
「……私も。嘘か本当かは、確かめたい」
「私も……今までを否定するためだから」
決行はその日の夜に決まった。いったん家に帰った五人は、深夜にこっそり家を抜け出して、学校の後者脇で待ち合わせた。
いかにも『出そうな』雰囲気に、待ち合わせの時点でカスミは少しだけ怖気付いた。
来る途中、街灯がチカチカ点滅していることだけで、この危険を引き返せと言われている気分になった、しかし、ひとりで夜道を歩くのは違った意味で恐怖もあった。恵美子とかえでは幼なじみみたいなものだから、一緒に来るらしい。今日ばかりはみながそれを羨んだ。
カスミが校舎脇の待ち合わせにつくと、まだ誰もいなかった。
恐怖に身をちぢこませて数分、トン、とカスミの肩が叩かれた。
「ひっ」
「えっ!? あ、ごめん、私。佐奈」
大袈裟に跳ねたカスミに笑いを噛み殺し、佐奈が両手を顔の前で合わせて今一度謝った。「ごめんって」
「もう、佐奈遅い。怖かった~」
「カスミが一番乗りかぁ。普段あんまり怪奇ネタに乗ってこないカスミが一番乗りとか」
「からかわないで。それで、理沙たちは?」
「うん、もう家は出てるからすぐ来ると思うよ」
季節は初秋、九月とは思えない暑い日が続いている。肝試しなとしたくないのに、今日は心なしか肌寒い。
だがそれは、恐怖から寒々しく感じているだけなのかもしれない、カスミはそんなことを思いながら、残りのメンバーを待つ。
佐奈が隣にいるだけで、寒気も和らぐのだから不思議だ。
スマホのライトをつけて、ふたりの顔が青白く光っている。
カスミは今か今かと理沙やかえで、恵美子を待っている。その横顔は、不穏だ。
その傍らで、佐奈もまた、今からの肝試しに思いを馳せ、恐怖からか、武者震いが止まらなかった。
次に待ち合わせに着いたのは理沙である。理沙の家は遠いから、タクシーを使ったのだと理沙が青い顔で笑った。
すでに恐怖に染まった顔は、暗闇でも蒼白さがよく見える。
「ふたりとも、早いね」
「そうなの、カスミが一番乗り」
「へえ、カスミが。やっぱり、科学で解明できるから怖くないの?」
「怖くないわけないよ! だって夜の学校の七不思議だし。あの伝記も雰囲気あったし。前のこともあるし」
目に見えないものは信じない、ならば目に見える形になれば、信じるということだろうか。
七不思議も噂も、形のない人々の伝言ゲームだ。
しかし、今回の伝記は、本として記録されたものであったし、その伝記自体が、だいぶ古びたものだった。それゆえか、カスミの猜疑心は過去一番に強いようだった。
「あ、恵美子! かえで!」
佐奈が手を振る先をカスミは見る。
ふたりが手を繋いでこちらに向かってきていた。心なしか、恵美子の膝か笑っている。
「みんなもう来てたんだ」
「恵美子、顔真っ青」
理沙が心配そうに言うと、隣のかえでが、より一層恵美子と密着して、まるで男顔負けに口説き落とした。
「恵美子は私が守るから平気」
「お熱いこと。言っても、かえでは理沙の次に怖がりだもんね」
「それを言わないでよ。でも、今日は死んでも守るよ」
いつもなら萎んだ風船みたいになるのに、夜の学校に来てもかえでの様子はなんら変わりない。どころか、いつもより強気な雰囲気さえある。
怪奇クラブのすべてのメンバーが集まってから、五人でこっそり学校に侵入する。
そろりと忍び足でみながみな、警戒を怠らない。用務員の夜勤なんて制度が昔はあったらしいが、今は労働者に働きやすい環境づくりのため、夜の巡回を実施する学校は少ない。
この学校もまた、夜の見回りなどなく、門だって登って超えてしまえばあとはなにも障害はない。
これはれっきとした不法侵入になるのだが、不可解を解明するためなら、彼女らにとってそれらは取るに足らない。
子供とも大人ともつかない年頃の彼女らにとって、恐怖の解明に勝るものはないのだ。
あとで教師にばれて大目玉を食らうことになろうと、彼女らはこの肝試しをやめることはないだろう。
あの不思議な伝記の出処を探るよりもなによりも、そこに記された怪奇現象を確かめるほうが優先なのだ。
学校の一階の教室の窓の鍵を、クラブから帰る前にこっそりと開けておいた。
その窓から、カスミをはじめとした怪奇クラブの面々が校内へ侵入する。
教師が戸締りを確認したあとを狙って、カスミの入れ知恵である。日直が戸締まりして教師に報告、のち、教師が最後の戸締りを確認した後に忍び込んで鍵を開けた。
少しスムーズすぎる気もするが、何事もタイミングだ。
鍵が開いていたことに安堵する間もなく、怪奇クラブのメンバーは窓をそっと開け放つ。
狭いから、ひとりずつ教室に入る必要があるだろう。
「開いちゃった、ね」
しり込みしたのは佐奈である。しかし、カスミは「行くよ」と息を吐くように言い聞かせた。
先導を切ったのはカスミである。靴を脱ぎ窓をよじ登るも、後に続いた理沙が焦り気味にカスミを押す。
カスミの身体を押し出して、理沙がさっと窓枠に上がった。
「いて、ちょっと押さないで」
「ごめん。暗くて見えなくて」
カスミと理沙が苦戦する中、残された佐奈たちはあたりをキョロキョロと警戒する。
理沙は一刻も早く教室に入りたいようで、カスミとほぼ同時に校舎内に降り立った。
理沙はやはり怖がりで、真っ暗な校舎でカスミの腕にしがみついた。
「動きづらいよ」
「ご、ごめん。でも」
ふたりがやり取りする中、佐奈が小さく、
「しっ、誰かに気づかれるかも」
「ごめん」
佐奈はカスミと理沙の両方を注意したのだが、謝ったのは理沙だけである。
先に教室に無事に入れたカスミは、後に続く部員たちなどそっちのけで、夜の教室を観察していた。
そもそも、この学校に用務員がいないのは確認済みだ。
だったら、それほど警戒する必要はない。
カスミはリアリストだから、無用な恐怖は抱かない。抱くとしたら幽霊への恐怖ではなく、学校に侵入した罪悪感だ。
どっどっど、カスミの心音が耳に響く。
今までの怪奇現象と同じ類の緊張感だ。
幽霊だの怪奇現象だのは信じていないが、前例があるだけに、油断はできない。今度こそ確実に幽霊の正体を暴かなければ。
カスミが足音を忍ばせて教室内を見て回っている間に、佐奈も恵美子もかえでも、無事に教室内へとよじ登ることに成功する。
佐奈が先に入って、かえでが恵美子を先に行かせて、最後にかえでが窓を登った。
五足の靴は、窓の側に放置する。帰りもこの場所から出ていく予定だから、なんら問題はない。
各々、サンダルだったりローファーだったり、不揃いな靴がなんだかおかしい。
「カスミ、うろうろしない。行くよ」
佐奈は夜の教室が怖いのか、いつもとは違い張りのない声でカスミをいさめる。
怖気づいているのだろうか、あの強気な佐奈が。可愛いところもあるものだと、カスミは庇護欲さえ覚える。
カスミにとってこれは科学の延長だ。ただ、それだけ。
幽霊なんて、ましてや呪いの人魚なんて出るはずがないとわかっている。
だからこそ、ひとり冷静でいられるのだ。いや、平静を装っているだけだ。
「だ、大丈夫だって。私、幽霊とか呪いの人魚とか信じてないし」しかし、カスミの声は上ずっていた。
「そ、それはわかってるよ。そのうえで入部に誘ったんだから」佐奈はカスミの恐怖に気づかないふりをした。
「大丈夫だよ。私がいる。この世に幽霊なんてものは存在しないって確信してるから、夜の学校なんていかにもな場所、来たんだから」
ごく、と唾を飲み込みながら、カスミの足取りは重い。佐奈も、そのあとを続く理沙も恵美子もかえでも、その足取りは重いものだった。




