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8 七番目の大精霊

 ヴァシル様が指定した、三日目の夕方。

 お屋敷の三階にやってきた私は、重厚な木の扉をノックした。

「ルイです」

「入りなさい」

 声がして、よいしょ、と私は重い扉を開く。


 中はまるで、何かの研究室のようだった。

 いくつもある棚の一部には本がぎっしり詰まり、その棚の前にも本がうずたかく積まれて崩れている。ほかの棚や箱の中には香水瓶がぎっしりと並んでいた。窓に近いあたりにはプランターが置かれ、天井からは植木鉢がぶら下がり、ツタが床まで届いている。

 早い話が、物があふれてぐっちゃぐちゃだ。


 窓際の大きな書き物机の向こうで、ヴァシル様が肘掛け椅子の背にもたれている。きれいな白い髪、澄んだ琥珀の瞳、そしてあの、何を考えてるのかわからない微笑み。

 その、微笑む唇が、開いた。

「君を表す香りの材料は、見つかりましたか」


「はい。ええと……」

 私は、おそるおそる言った。

「材料というか……香り、もう作って来ちゃいました」


「……どういうことです?」

 ヴァシル様が軽く首を傾げると、まっすぐな髪がさらりと肩に流れる。

「君はまだ、香精を作れないはずですが」


 私はいったん廊下に戻ると、ワゴンの上に置いてあった白いお皿を手に取って戻ってきた。お皿には、ドーム状の金属の蓋がかぶせてある。

 書き物机のそばまで行って立ち止まると、私は一つ深呼吸してからお皿をヴァシル様の前に置く。

 そして、蓋を取った。


 お皿の上には、一切れのケーキが載っている。

 こんがりいい色に焼けた外側、そしてしっとりした卵色の断面には小さな黒い粒々。飾りに小さなペパーミントの緑も添えて。

「私を表す、香りです。香精を作るのとは違いますが、材料を集めて料理してみました。……レモンペッパーの、ベイクドチーズケーキです」


 ヴァシル様は長い睫毛を伏せてお皿に視線を落とし、そしてふわりと視線を私の顔に上げて、じっと見つめた。

「これには、例のブラックペッパーが入っていますね?」

 そ、その通りですーっ。

 クリームチーズで作るチーズケーキには、レモンの汁に、レモンの皮をすり下ろしたもの、そしてゴリゴリと挽いたブラックペッパーが入っている。

 つまり私は、よりによって、ヴァシルさんにクシャミをさせて怒らせたその原因になったものを使った料理を持ってきたわけだ。


 また怒られるかもしれないと思うと、背中を冷や汗が伝う。 

 でも、今の私を表す香りを考えたとき、これだ、これしかない、と思ったから。

『カフェ・グルマン』で私が作っていたもの、そして大好きなメニュー。私を、受け入れてほしいという気持ち。あの店に帰りたいという気持ち。

 全部が、このケーキに詰まってる。


 ごくり、と喉を鳴らしてから、私は言った。

「クシャミは出ませんから……どうぞ、召し上がってください」


「…………」

 ヴァシル様は、お皿に添えたフォークを手に取った。

 チーズケーキに、フォークを入れる。柔らかく降りたフォークは、ケーキの台になっているタルト生地をサクッと割って、軽くお皿に当たる。

 一口分切り取って、口へと運んだ。形のいい唇が開き、ケーキを迎え入れる。

 私はどきどきしながら、何か言われるのを待った。

 じっくり味わってから、ヴァシル様は喉を動かし――

 そして、フォークをお皿に置いた。


 ダメだった……? と思った瞬間、ヴァシル様はお皿を持ち上げて自分の顔に近づけ、匂いを嗅いだ。

 それから、もう一度お皿を置き、フォークを手に取り、もう一口。

「……甘い香りと、レモンの香り……そこへ刺激的な香りが飛び込んだら、こんなに合うとは」

 ヴァシル様が私を見る。

「まるで、この世界に飛び込んできた、ルイのようですね」

 私は思わず身を乗り出した。

「そ、それじゃあ!」

「甘くて、爽やかで、刺激的。これは、今の君そのものを表す香りだと思います」

 ヴァシル様はうなずいた。

「合格とします」


 いやったーあ!

 私は思わず両手を拳にして、「いぇっす!」と叫んでしまった。


 そのとたん、低い男性の声がした。

『ヴァシル。精霊を呼びますか』

 すーっ、とヴァシル様のすぐそばに姿を現したのは、白髪の、痩せたおじいさんだった。

 お香のような、昔懐かしい香りがする……何の香りだろう。このおじいさんも、大精霊?

 ヴァシル様はおじいさんをちらりと見て、うなずいた。

「そうですね。こちらの世界に、今、ブラックペッパーの香りが存在するのだから……。精霊が生まれれば、そこからブラックペッパーそのものも生まれるでしょう」

 おじいさんもうなずき返し、そして私を見る。

『シトゥルやビーカが騒いでいたのを聞いたよ。君がルイだね。私は【樹脂】の大精霊、ハーシュだ』

「わ、はい、よろしくお願いします」

 樹脂、と聞いたとたん、私は足立さんに教わった香りを思い出した。気品があって、落ち着いた深みのある香りで、ちょっと柑橘っぽい感じもある……

 フランキンセンスの香りだ! いわゆる乳香。このおじいさんは、フランキンセンスの精霊なんだ。

【樹脂】のセンターが、この上品なおじいさんなんだなぁ。


『君が持ち込んだブラックペッパーの香りとは、私は気が合いそうな気がするんだ。力を貸そう』

 ハーシュおじいさんが言ったところへ、横からひょいっと顔を出したのはオレンジの髪の少女。【果実】の大精霊シトゥルだ。

『ずるいわハーシュ、私も仲良くできそうな香りよ? このお菓子、私の仲間のレモンと合わせてあるんだし。ね、ヴァシル様、私にも手伝わせて』 

 二人が、残ったチーズケーキの上に手をかざす。

 え、何をしようとしてるの?

「ルイ、こちらへ」

 椅子を後ろへ引いたヴァシル様が、私を呼んだ。

「は、はい?」

 ヴァシル様の手が示す通り、机のヴァシル様と同じ側に回ると、不意に白い手が伸びた。するり、と私の手を取り、引き寄せられる。

「君も力を貸しなさい。君がこの世界に持ち込んだ香りです」

 えっ、えっ?

 その手の、ひんやりしたなめらかな感触に頭が真っ白になっているうちに、私はヴァシル様の前に後ろ向きに立たされた。座ったままのヴァシル様の両手が、私の背後から前に回り、私の両手を下からすくうようにして持ち上げる。

 私は、お皿の上に両手を差し出す格好になった。何かを、受け止めるように。

 ヴァシル様は、唱える。

「鋭く、刺激的な香りよ。熱をはらんだ香りよ。来たれ、生まれ出でよ」


 そのとたん、頭の芯が熱くなった。

「あっ……」

「大丈夫、そのまま」

 すぐそばで、ヴァシル様の声。

 ああ、ブラックペッパーの香りがする……

 頭の奥の熱は、ゆっくりと私の喉を通り、胸の中を熱くし、それから上半身に広がって指先にまで届いた。ふわふわして気持ちよくて、とろん、となる。

 ヴァシル様の手の上にある私の両手の上に、光の玉が生まれた。その光は、急激に強くなる。

 な、何!?

 あまりのまぶしさに、思わず目を閉じた。


 やがて、瞼にうつる光が収まってきたとき――

 新たな声がした。

『ふわーあ』


 ……ん? あくび?

 目を開けてみた。

 私の両手の上に、二つのものが載っている。一つは、緑色の粒々が葡萄のように連なったもの。そして――

 両手両足をピーンと伸ばし、目を閉じたままあくびをしている、小さなスカンクだった。


「わあっ!」

 私は思わず、ホールドアップするようにパッと手を広げた。

 その黒い生き物はパッと目を見開き、『おっと!』といいながらヴァシル様の机の上に飛び移る。手に、緑色の粒々も握っていた。


 図鑑やテレビで何度か目にしたことのある、スカンク。鼻筋と背中が白く、他の部分は黒くて、そして……ふぁさっと動く尻尾の付け根、早い話がお尻のあたりから、とんでもない匂いが出るというじゃないか。そりゃびっくりするわ!

 スカンクから離れようとして、自分がまだヴァシル様の両手両膝の間にいたことに気づき、私はあわててつんのめるようにしてテーブルの横に出る。


 後ろ足で立ったスカンクは、その場の全員に向かってビシッ、と右前足の指(たぶん親指)を一本立てた。

『よう、来たぜ! オレはブラックペッパーの精霊だ。よろしくなっ!』

 そして、額の上に前足で庇を作りながら、きょろきょろとあたりを見回す。

『おっと? 【スパイス】の精霊が見当たらないな。じゃあ、オレが【スパイス】の大精霊だなっ!』


 だ、大精霊!

 私が持ち込んだブラックペッパーが、いきなり【スパイス】のセンター! 他のスパイスの精霊が見当たらないなら当たり前かもだけど!


 ヴァシル様が落ち着いた声で言った。

「無事に生まれましたね。歓迎しますよ、【スパイス】の大精霊」

『おう! 任せろ!』

 態度のでかいスカンクだ。

 ヴァシル様は私の方を手で示した。

「あなたを生んだのは、彼女です」

 う、生んだ? さっきのアレ? 私が?

 スカンクが、私に視線を移した。そして、ハッとしたように目を見開き、黙り込んで、じーっと私を見つめる。

 な、何。

『……美しい』

 スカンクは、机の上を移動して私の真ん前まで来ると、片手を胸に当てて優雅にお辞儀をした。

『君こそ、オレという大精霊を生み出しし母なる存在だ。名前を教えてくれないか?』

「え、名前? ルイだけど」

 私が言うと、スカンクは妙に色気のある流し目で私を見る。

『美しきルイ。どうか、オレに名前を授けて欲しい』

 名前……?

『大精霊としての名前だ。ブラックペッパーのオレは、スパイスの代表としてその名を名乗る』

「あ、ああ、そういうこと……ええと」 

 ラベンダーの精霊がフロエを、オレンジの精霊がシトゥルを名乗るように、ブラックペッパーの精霊も大精霊としての名前が必要なのね。

「え、今? 今すぐ決めるの? 呼びやすい方がいい? それとも神秘的なの? ああ、それに他の大精霊の名前とは似てない方がいいよね?」

 難しく考えるとこんがらかる!


 よ、よし。直感だ。ヴァシル様だって言ってたもん、香精師には直感も大事だって。


 私はまじまじとスカンクを見つめた。

『……そんなに見つめたら、照れるぜ……』

 くねくねと身をよじるスカンクは、照れ隠しなのか、ポンッと宙返りした。


 スカンク。ペッパー。ぴょんぴょんしてる……


 私は思い切って、言った。

「ポップ! 【スパイス】の大精霊は、ポップと名づけますっ!」

『すっごーい! 七番目の大精霊ポップの誕生だぁ!』

 シトゥルが大喜びで飛び回った。ハーシュおじいさんはウムウムとうなずいている。


 しゅたっ、とスカンクが私の前に戻ってきた。 

『ありがとう、ルイ。オレは君の僕だ。いつもそばにいるから、何でも言ってくれ』

「そ、それはどうも」

 私はうなずきながら、こっそり考えた。

 ……他の大精霊は人の姿なのに、何でこんな、絶対いい香りなんかしないだろ的なビジュアルなの……。まさか私のせい? ブラックペッパーが黒くて刺激的だから、私の中でこんなイメージができちゃってたのかな?


 ヴァシル様が、目を細めて笑う。

「まさかルイが、『精霊母』になるとはね」

 いつもの口元だけの笑いじゃなくて、面白そうにしてる……

 つい見とれてしまいながら、私は聞いた。

「精霊の、母? ですか?」

「新しい種類の香りを見つけた人間が、『精霊母』と呼ばれます。この緑の粒は、ブラックペッパーの種。この世界に新しい植物がやってきたわけです。これからポップが、大精霊として人々の役に立つでしょう。ルイは母と呼ばれるにふさわしい」


 何だか、すごいことになっちゃった……。ええと、ブラックペッパーはコショウの実を乾燥させてあるから黒いんであって、この緑色のはつまり乾燥させる前の実だね。中に、種があるはず。ここからきっとコショウが育つんだ。


 呆然としている私の前で、ヴァシル様は顔を上げた。

「ポップ、初仕事です。シトゥルも」

『了解!』

『はーい!』

 ヴァシルさんは立ち上がって机を回り込むと、部屋の中央にぽっかり開いた床でかがみ込み、あの胸のペンダントからロウセキを出して魔法陣みたいなものを書いた。その真ん中に、食べかけのレモンペッパーチーズケーキの皿を置いて立ち上がる。

 そして、唱えた。

「爽やかな風の香りとともに、目覚めの刺激を」

『爽やかな風と!』

『目覚めの刺激を!』

 ヴァシルさんの声に答えてシトゥルとポップが唱えると、空中にポワンと卵大の光が生まれ、そして弾け――


 ふわり、と、小さな香精が誕生した。

 薄いレモン色の姿、白い光の粒をまとっている。


「あっ……いい香り。レモンペッパーの香精ですね!?」

 思わず声を上げる私に、ヴァシル様は微笑む。

「気持ちがすっきりする香りですね」

 本当だ、何だかリフレッシュできる!

 ヴァシル様は私を横目で見た。

「なかなか気に入りました。この子はしばらく、私のそばに置きます。……君も弟子として、私のそばに置きますよ、ルイ」

 わっ、やった! 宣言してもらったよ、私は弟子だって!

「はいっ、師匠! よろしくお願いします!」

 ぺこりと頭を下げ、そして顔を上げると、いきなり肩にポップが飛び乗ってくる。

『おっ、ルイは香精を作る勉強をするのか。よーし、オレも力を貸すからな!』

「あ、はは、ありがと」

 本当に私にくっついて離れないつもりかな、この子……と、私は戸惑いつつも苦笑い。

 ふと見ると、ヴァシル様は魔法陣からケーキのお皿を取り上げ、いそいそと机を回り込んでいた。座りながらフォークを手にしたところで私の視線に気づき、そっとお皿を自分の身体で隠すようにする。

「これは、私が全部いただきます」

 私は思わず、吹き出してしまった。

 気に入ってもらえたんだ、何だか可愛い!


 ちなみに、ワンホール作ったレモンペッパーチーズケーキの残りは、厨房スタッフの皆で美味しくいただきました。



【第1章 目覚めのレモン 完】

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