十、熊猫
雷帝の整体が終わると、晶凛は裏庭を通って宮廷の門へ歩いていく。
小さな池に咲く睡蓮は、香りが広がり艶やかな色を広げている。
「あれは……」
遠くにパンダがいた。小さいので子どもだろう。
裏庭からは傾斜の高い山に面しているので、迷い混んできたのかもしれない。
白い柔らかそうな毛を揺らしながら、こちらをじっと見てくる。
晶凛の心を一瞬で捕らえてしまった。
一歩近づくと、警戒心が強いのか背を向けて歩き出す。
「待って。怖がらせたい訳じゃないの」
一瞬パンダの動きが止まる。
願いが通じた予感がして、さらに前へ足を踏み出す。
「晶凛殿!」
焦ったように走ってくる風帝の姿を見て、振り返った。
「えっ?」
足元の土が崩れ、体が傾く。
裏庭の先が小さな崖になっていた。パンダに夢中になっていて気づかなかった。
「捕まって!」
風帝が咄嗟に手を伸ばし、晶凛はその手を掴んだ。
風帝は渾身の力で持ち上げようとしたが、重みに耐えきれずに風帝の足が崖の方へと引きずられていく。
「申し分けぬ。私は体力系ではないのだ……」
風帝の体が浮く。
「そんな……。きゃああああ!」
二人は下へ下へと落ちていく。
尻餅を付いたと思ったら、優美な布の上に座っていた。
「あ! ごめんなさい!」
風帝を下敷きにして座っていた。衝撃が緩和されたようで、痛みはなかった。慌てて立ち上がる。
「いや、大丈夫だ。晶凛殿が無事だったら……」
崖は、大人を縦に三名程度並べたくらいの長さだった。晶凛は上を仰ぎ、二人で協力すれば脱出可能だと感じた。
風帝は頭を起こすが、手を付いたところで「痛ッ」と苦痛の表情を浮かべる。
「どうされたのですか?」
「大丈夫ではなかった。肩が外れたようだ……」
手で肩を庇い、額からは汗が滲んでいる。
「私のことは気にしなくてよい。私の背に乗り、上に持ち上げるから晶凛だけでも脱出するのだ」
「肩を痛めているのに、そんなこと頼めません!」
晶凛は最善の解決策を考えた。
「あの……私でよければ治しましょうか?」
「治せるのか? いや、未婚の娘が男の体に触れてはならないという決まりが……断る」
「それは風国の決まりごとでしょう? 緊急のときは柔軟に考えてはいかがでしょうか」
晶凛は、ムッとしたように言い返した。
「第一、体を治すのは医者の仕事だろう。一介の整体師が治せるのか?」
「どれだけ毎日骨と向き合っているとお思いで? 正しい骨の位置は触っただけでわかります。あとは応用です」
「あ、あぁ。そこまで言うのなら……」
風帝は半信半疑で、任せることにした。
「いきますよー! せーの!」
肩を軽く押すと、骨の定位置に戻った。
あっけなく元に戻ったので、「先程の痛みは何だったのか……」と呟いた。
「手を上げてみてください」
「あぁ……。大丈夫だ」
「よかったです」
崖を脱出しようと作戦を考え始めたとき、ふいに晶凛へ話しかけた。
「晶凛殿……。風国で私付で働かないか?」
「えっ?」
「晶凛殿がいたら穏やかな時を過ごせそうだ。もちろん沢山の褒美もとらすし……」
愛を告白するように、少し頬が赤くなっている。
「……私には待っているお客様もいますし、雷帝からも頼りにされているので、お断りします」
返事は聞かなくとも最初からわかっていたが、風帝は落胆を隠しきれない。
「そうか……。もしや、雷帝のことが好きなのか」
「いえ、そんなことはありません」
即答だった。
「大事な、大事な……金ヅルです」
風帝は驚きで目を剥いた。
雷帝は伝えないでおこうと思う風帝だった。
「晶凛、大丈夫かー!」
崖の上から、雷帝の顔が覗いているのが見える。
「大丈夫です!」
言いながら手を振り返すと、「今からそこにいくからな」と雷帝は言った。
どうやって、と晶凛が疑問に思うと、雷帝は白い虎に乗って崖の下まで降りてきた。
仙獣という生き物らしい。
音を立てずに着地した。
「ふわふわー!」
晶凛が駆け寄って、思わず白い毛に触れる。滑らかでどこまでも手が沈み混む。
「仙獣は気位が高いからそこまでにしておけ」と雷帝に言われて、名残惜しく手を離した。
『触ってよいぞ』
鼻にかかったような声が聞こえて、晶凛は一拍遅れて仙獣の声だと気がついた。
白い虎が顎をクイと横に振る。
「ありがとうございます。それじゃあ……」
晶凛は毛並みを撫でて幸せそうに微笑んだ。
三人は白い虎に乗って、崖を脱出したのであった。
後から聞いた話によると、裏庭にいたパンダは皇帝だけに懐くらしい。
雷帝とパンダが戯れる様子を、晶凛は時折「ふわふわいいな」と羨ましそうに遠目で見た。
※肩を脱臼した場合は、自分で治そうとせず、ちゃんと病院で診てもらいましょう。