救い救って救われて…
夜が船体を覆いつくして更ける。エンジンの音が波を分ける音と混じり……逆に言えば、その二つの音しかしない静寂の海をすべるように進んでいる。懸念された砲撃や雷撃もなく、あのような大規模な攻撃を行ったわりに、船自体は無傷のまま湾を脱していた。
「ずいぶん親切ですねぇ……」
副長ロールウェイの言葉に象徴されるように、報復が皆無である今の状態が、『弓槻』にとっては逆に不気味ではある。
「哨戒圏外を出るまでは油断できんが、まぁ大丈夫だろう」
今の時点で追撃がないのなら、今日中の襲撃はないと思われる。なぜならここから先、海は無限に広がっているわけで、待ち伏せをするにも都合が悪いためだ。
船長椅子に深々と腰掛けたエルファンスも、不気味を感じつつ、その判断に確信を深めていた。
とはいえ警戒配備は解かれることもなく、見張りたちが八方を尽くして周囲を覗っている。夜なのでもちろん視界は限られるが、小型艦艇による不意の魚雷などにも充分に対応できる布陣を敷いていた。
静寂の佇む闇。……見張りの一人からの報告が入ったのは、それから少しの時間が経ってからであった。
『ふくろう目のザビジ』と言われる夜目のめっぽう利く男だが、彼はその報告で『変な鳥を見た』と言った。
「鳥……?」
艦橋内でその話題が持ち上がっている。
なんでも青い光の屑が尾を引いている鳥であり、『弓槻』の後方から左舷に向けて、数キロ向こうを通り過ぎようとしているらしい。
「鳥じゃねえだろそれ……」
砲術部長マッシュがツッコみ、同じ頃、艦橋指揮所よりも上部に位置する方位盤室にいる射手タカも双眼鏡の前でつぶやいた。
「あの女じゃないか……?」
その言葉は電話を通じて指揮所に伝わり、やや騒然となる。
「『弓槻』を探してるんじゃないでしょうか」
副長ロールウェイが言う。
現在この船は灯火管制が敷かれており、闇の影に隠れてしまっている。夜になんの手がかりもなく発見するのは困難であった。
しかしあのままでは通り過ぎる。その先に陸地はない。
「発光信号の用意」
「灯火管制中ですが……」
……一応、副長はそんなことを言ってみたが無駄なことは分かっている。追加の指示として、見張りの徹底を念押しした。
規則正しい発光信号が深い闇を長く横切って青い星の帯を照らし出すと、それはやがて方向を変えた。後部飛行甲板のライトが滑走路を照らし、彼女の着陸を容易にする。甲板作業員たちが顔を出し、風にたなびく彼女の黒いスカートを見れば、極端に前傾になって杖を操っていたことと、その背中に何か大きいものが載っていることに気づいた。
それでまた甲板は騒然となり、あわただしく散り始める作業員たちは、崩れ落ちている彼女をそのままに緊急手術を手配し、その"男"を医務室へと運ぶ。
重症兵を数名抱えて、ダンの延命処置から先、休む間もなく治療を続けている船医コルバ。彼は嫌な顔こそしなかったが、そんなクルップを診て苦い顔をした。
ナイフでやられている。腹に直径五センチほどの刀創があり、そこからの出血がおびただしいために血圧が極端に低い。
奇妙でいて幸いなのは、何か別の理由でその後すぐに意識を失ったと思われる点で、おかげで容態の悪化が緩やかだったようだ。あるいは間に合うかもしれない。
「輸血!!」
叫びにも似た指示は医務班を走らせたが、どうにも血が足りない。
もともと『弓槻』に存在する血液製剤が限られるのと、この度の戦闘での負傷兵に対する使用によっていた。
「Ωの型の血液の保持者を募れ! 急げ!」
傷を縫合しながら指示は鋭く後方に飛ぶ。
しかし、医務班の探索はごく短時間で終わった。なぜならそこに、一人の少女が名乗り出たからである。
船員の一人に見守られながらよたよたと医務室まで歩いてきたその魔女は「Ωの血!」と叫ぶ医務班の数名をかき分けるようにしてコルバの元へゆき、「わたしΩです」としぼりだす。
彼は彼女の弱り具合にやや難色を示したが、
「もうこれ以上死んでほしくないんです!」
という必死の懇願と、一刻を争う状況であることを鑑みて、反射的にうなずいた。
彼女はクルップの隣に寝かされ、意識不明の彼の代わりに医務室の天井を見上げることになる。
……が、船の揺動と共にちらちらと揺れる電球の光が催眠術の振り子であったかのように、彼女の意識はそのまま落ちていった。
医務室には窓がないから太陽は差さない。
だから気付かないが、コトヨイが目を開けた時間は、燦燦と照る昼時の太陽が『弓槻』を焦がすほどに照らしていた。
船はパーキンス湾を出ると進路を八十度にとる。昨夜は結局一本の雷跡(魚雷の航跡)も確認せず、日の出を持って一度警戒配備は解かれた。船員たちが三々五々羽を休め始めた静かな昼下がりを、船は静かに進んでいる。
コトヨイは目を開けてもしばらくベッドにあおむけのまま、天井を眺めていた。
さまざまなことが頭をめぐる。魔女であること。魔女の社会的地位。魔女狩りのこと。メイアのこと。『弓槻』のこと。ダンのこと。クルップのこと……。
「(あたしってなんなんだろう……)」
魔女であるという、それだけの理由でまるで人でないような扱いを受け、磔にされて殺されかけた。
……だけではない。そのせいで人が死んだ。何度も何度も自分のことを救おうとした男が死んだ。そして、隣で横になっている男も重傷を受けた。
"魔女"という存在がいわれもない罪であるならば、その冤罪のせいで死んだ人たちは何のいわれがあったというのだ。
死ぬのならあたしが死ねばよかった……しかし彼女はそうは思わない。
生きたい。生きたいのだ。だからわからない。
なぜ普通に生きられないのか。なぜ普通に生きたいだけの自分のために人が死ななければならないのか。
……彼女が昨日のことをもっと確実に知るのは後日だから、二番隊の死傷者のことは知らなかったが、それにしても目の前で死んだ『恩人』の死が、ひたすらに彼女の心をかき乱していた。
その様を、船医コルバは静かに見つめている。
「つらいかね」
「……」
コトヨイは反応しない。が、彼は続けた。
「顔に書いてあるよ。自分の運命がつらいと」
それで初めて彼女の首が動く。見上げれば中年で黒縁めがねの男が立っていた。
「なんで分かるのかって顔だね。おいは医者だからね。何十年も患者見てたから、ここのあたりに……」
無精ひげで黒ずんでいる自身の頬をとんとんと叩き
「何考えてるのかが見えるようになったんだよ」
「……」
「まぁお前さんを慰めてやれる材料を、おいはもっとらん。ただ、『弓槻』のルールを一つ教えておこうか」
見下ろすメガネが反射して、コトヨイは彼の目に自分の姿を映している。
「『弓槻』には従いたくない命令には従わなくていいというルールがある。つまり、昨日お前さんを助けにいった連中は皆、自分の意思でお前さんを助けに行ったことになるわけだ」
死の覚悟をして……である。
「だれもお前さんのために死んだなどとは思っとらんよ。自分たちがしたいことをした。たまたま、その先に死があった」
「そんなの詭弁です!!」
「そうかね?」
声を荒げるコトヨイに、コルバは眠たそうな顔をした。
「死を嫌って平穏な暮らしをしたいのなら、こんな戦闘艦には乗らんよ。自分たちの生命がなんなのか、何に使われるべき命なのか。それを皆……おいも含めて考えながら、明日沈むかもしれない危険な船に乗っている。死に場所を求めているわけじゃないが、結果そこに死があるのなら、その死に方こそが自分が生きる意味だったということだ。わかるかな?」
昨日息を引き取ったダンは、もちろんこれまでも数々の働きで『弓槻』を助けてきたが、その最期はコトヨイに集約されていた。
「つまり、ダンはお前さんのために死んだんじゃない。お前さんのために生きる命だったんだ。そしてお前さんはここで生きている。お前さんのために生きる運命だった奴にとっては実りのある運命だったんだよ」
コルバの論には、数え切れないほどの仲間の死を目の当たりにしてきた上での、一種の悟りのようなものがある。というより、そうでも考えない限り、数え切れない死を見取る立場にいる彼にとってはその現実がつらすぎた。
「魔女として生まれてきた運命は嘆くべきものかもしれないが……生き残ったというのは、やるべきことをやり終えてないということなんだと思う。その意味から逃げないことが、お前さんのために生きた命を無駄にしないってことなんじゃないだろうか」
「……」
そしてきっと、多くの犠牲の上に生き続ける人物ほど、大きなことをやり遂げなければならない数奇な運命をたどっているのだろう。
「ま、悩むといいよ」
自分の娘と言っていいほどの年の差がある。そのような考え方はもっと人生にくたびれてから納得すればいい。
一夜明けてようやく落ち着いた医務室をそのままに、コルバは部屋を出た。半日ご無沙汰だった煙草が吸いたい。




