ヴェル・デ・ラシーアの闇
今日も朝からさあやは数字と格闘していた。数を計算できる道具 ーさあやはそろばんと呼んでいたー の使い方も、だいぶん慣れてきたようだ。こちらの通貨の単位はグートで、以前市場で見た野菜などの単価とあちらの単価を照らし合わせた感じでは、大体1グート15円と考えていいだろう。
今作っているのは、カースティア歴4年の計算書だ。例のそろばんをはじきながら計算をしていると、扉の陰から誰かが顔を出したり引っ込めたりしていることに気が付いた。
「メダさん?」
声をかけるとメダは照れたように笑いながら入ってきた。
「いやぁ、はははは。どうですかな?少しは進みましたか」
「ええ。少しずつですけど」
さあやが進めた椅子に座ると、メダは菓子の入った袋を取り出した。
「いや、私の母が齢80歳を超えているのですが、まだまだ元気いっぱいでしてな。サアヤ様の話しをすると自分が作ったクッキーを持って行けとうるさくて・・・」
さあやは差し出されたクッキーの袋を受け取ると、嬉しそうに礼を言った。
「それで、今は何を作っておられるのですかな?」
メダはさあやの手元にある計算途中の書類を覗き込んだ。
「キャッシュフロー計算書というものを作っているんです。こちらの2つの表から計算される経常利益(利益に営業外の収益を加えたもの)ではまだ受け取っていない売掛金(未収金のこと)などもすべて計算の中に入ってしまうので、どんなにお金が足りなくても黒字が出たりするんです。だからこの表は余計なものを全てそぎ落として最終的にキャッシュ、つまり現金がいくらこの国にあるかを示すんですよ」
「ほお・・・」
多少なりとも財務の知識があるメダには、さあやのやろうとしていることがよく分かった。
「それでこの国には今どれほどの国帑(国の財貨)があると?」
「あ、今やっているのはカースティア歴4年なんです。この年は例年にない豊作で税収入も安定しているし・・・ただ・・・」
さあやはそこで言葉を切った。
「いえ、もう少ししたら去年の表も完成しますから、もし余剰金(余ったお金)が出たら、お知らせしますね」
「それはありがたい。実は城のあちこちが傷んでおりましてな。それにもう半年も陛下に新しいご着衣を作って差し上げておりませぬ」
それはかわいそうだ。一国の皇帝なのに・・・。
メダが去って行ったあと、さあやは袋を開けてクッキーを取り出した。幼い頃母が作ってくれたジンジャークッキーと似た味がした。
「お母さん・・・かぁ」
皇帝の執務室に戻ったメダは、難しい顔で自分が戻ってくるのを待っているアルバドラスの前に行くと、顔を覗き込んだ。
「サアヤ様に会ってまいりましたぞ。お元気そうに仕事をしておられました。まったく、気になるのならご自分で行かれたらよろしいのに」
「我は別にサアヤの様子を見に行けなどと言った覚えはないぞ」
アルバドラスは口を尖らせてそっぽを向いた。
「そうでございますな。しかしサアヤ様がお姿をお見せにならなくなってから、ずいぶんと不機嫌であらせられるようですが」
「我は・・・そんな態度は取っておらぬ!」
かたくなに言い張ると、アルバドラスは執務室を出て行った。
財務諸表を作り始めてからほどなく一か月が経つ頃、いつもはアルバドラスや部下と一緒にいるサーズが一人で歩いているのを見かけたので、さあやは彼を呼び止めた。少し込み入った話があると言うと、彼専用の部屋に案内してくれた。
サーズの部屋はアルバドラスの執務室より少し狭いくらいだが、それでも十分な広さがあった。近衛連隊長の部屋らしく、壁には何本もの剣や盾、長い槍なども並んでかけられている。飾りの剣もあれば、何かあった時に使える実用的な剣もあった。部屋の中央にあるソファーセットにさあやを座らせると、その向かい側にサーズも腰かけた。
「この間はキートレイの事、ありがとう。次の日ちゃんと謝ってくれたわ」
さあやが礼を言うと、サーズは当然の事をしたまでですという風にうなずいた。
「でもキートレイがもしまた私の事を泣かせたとしても、責任をとって死んだりしないでね」
サーズは微笑むと、「騎士は常にそのくらいの心構えがなければいけませんので」と答えた。やっぱり真面目だ。
「それと、ついでだから聞くけど、私にルディと食事をとるようにさせたのは、まさか側室にしようとか思ってたわけじゃないわよね」
「そうですね。陛下は未だにご正室も迎えておられませんから、側近の中にはもうご正室の身分も問わないという者もおりますし、サアヤ様が銀色の瞳のお子様を生んでくだされば、我々とすれば嬉しい限りです」
さあやがちょっと唇を尖らせているのを見て、サーズは小さく咳ばらいをした。
「しかしあなたは異国どころか異世界のお方ですし、陛下にもいつかはお帰りになられる方と伺っております」
さあやはその通りと言わんばかりにうなずいた。
「ですが陛下はあなたの文句を聞いておられる時なぜか楽しそうですし、あなたとは人目もはばからずまるで少年のように喧嘩もする。そんな陛下を見ていて、あなたが側に居れば陛下も安らげるのではないかと思い、あなたのお気持ちも無視して強引にお食事をしていただくことにしました。今でも嫌だと思っておられますか?」
さあやは顎に手を当ててしばし考えていた。
「ううん。そういう理由ならいい。私も1人で食べるより2人で食べたほうが楽しいし」
「それはようございました」
一区切り話がつくと、さあやは誰にも見られないよう、大きな布に包んだ帳簿を取り出した。
「今日あなたを呼んだのは、ちょっと込み入った話があるからなの。ルディに言う前にあなたに聞いてもらおうと思って・・・・」
さあやは持ってきた書類を見やすいようにサーズの方に向けて並べた。
「この国にもちゃんとした財務の計算表があって、それなりに計算されているんだけど、単純に収入と支出を並べて書いてあるだけだから、最終的に残ったお金しか出て来ないのよね。そう言う計算方法だと必ず零れ落ちるものが出てくるわ。それで私の国では大きな組織用にこういった財務諸表という物を作るの。これは1年ごとにすべての収入、支出、財産、資本などを計算式に従って作るものなんだけど・・・」
とりあえず並べた書類の中から気になる書類の束を取り出すと、さあやは年代を確認しながらページをめくり始めた。中はたくさんの文字や数字がきれいに整頓されて並んでいる。彼女が取り出したのは今から18年前、カルドラ歴22年の記録であった。
「これは貸借対照表と言って、この国の資産、純資産(資産から負債を差し引いた額)、負債を示すものよ。これを見る限り、経済状態はそんなに悪くはないわね。他の国からの借入金もないし・・・」
次のページをめくると、損益計算書が出てくる。売り上げの所はファイファを売った儲けや薬草園の薬など、国収が記されている。税収入は一番下に分けて記されていた。売上原価の所にはそのファイファを作るために使った費用や、農民への手当て、販売費および一般管理費の項目には、この城を維持するためにかかった費用、兵や召使への手当て等、そして国で一番大きな支出を伴う公共工事は一番上の欄に独立表示してあった。
サーズは生まれた初めて見る数字の列を口をぽかんと開けてみていたが、やがて感心したようにため息をついた。
「すごいですね。これを見るだけで、この国の色々なお金の動きが分かる。これを1か月やそこらで作られたのですか?」
「うん。かなり大変だったけど勉強になったわ。暗算もずいぶん早くなったし。私も国家的規模の財務諸表は作ったことがないから、科目や並べ方はちょっと適当なんだけど、数字は間違っていないと思うわ。見方が大体分かったところでこれを見て」
次に取りだしたのはカルドラ歴23年とカースティア歴元年だ。(カルドラ歴24年にアルバドラスⅡ世が亡くなったので、カースティア歴元年と同じになる)丁度皇帝が急な病で倒れ、次の年に崩御した。それで当時15歳の若き皇帝が起ったわけだが、そのせいで色々な人事異動が行われ、城中がごたごたしていた時代であった。
「この頃から少しずつだけど、経常利益(純利益)が減少しているの。でもファイファの売り上げも順調だし、以前ファイファの農園の人に聞いたけど、ここ30年間は目立つ不作もなかったそうよ。それから25年前、他の国から手に入れた銅山も産出量が減ったわけじゃない。なのにどうして利益が落ちているか分かる?」
サーズは3年分の損益計算書をじっと見つめた後、顔を上げた。
「公共工事が・・・急に増えている・・・」
「そう。あの書庫には工事報告書は保管されていなかったから詳しい内容は分からないけど、17年前から本当にこれらの工事が行われていたか、調べる必要があるわね。もし架空の工事だった場合、何が行われているか・・・・」
さあやはそこで言葉を切ってサーズをじっと見た。サーズには彼女の言葉の続きを聞かなくても十分わかっていた。それは間違いなく横領が行われていると言う事だ。それも国家の財政を揺るがすような横領だ。関わっているのもこの国の中枢を担う人間に違いない。
サーズはしばらくの間、額に手を当てて考え込んでいた。この方は自分がどれほどの闇に首を突っ込もうとしているのか分かっている。だから陛下より先にまず私に相談したのだ。目の前で私の返事を待っている女性は「私は何の力もない人間だ」と言った。だが今、ただ微笑んでじっと私の返事を待つこの方に、私は恐れさえ感じる。彼女の目はこう言っているのだ。
ー 怖いのなら、この書類全てを焼き捨て、今までと同じように安穏と生きなさい。何も知らず、何も聞かず、何も考えずにね -
サーズはまだ顔を上げられないままさあやに尋ねた。
「なぜ、コルテス殿ではなく私に?」
「メダは駄目。もう年だもの。あまり負担はかけられないし、改革にはやる気とパワーが必要よ。それに私はあなたとメダ以外、信頼できる人間をあまり知らないの」
それでもサーズは決心がつかないように、うつむいたまま大きくため息をついた。
「貴方も私もただでは済まないかもしれません。陛下にまで累が及ぶかも・・・」
「それは困るわ。私はあなたを騎士の中の騎士と見込んで話をしたのだから、どんな事があっても私とルディは守って。出来るでしょ?」
結局この方は私に逃げ道など与えるつもりは無いようだ。時々、彼女の目が何もしない私を非難しているのは分かっていた。
ー あなたは皇帝の側近でしょ?なぜ命を懸けても彼をいさめないの?ただ守るだけがあなたの仕事? -




