第31幕 リソースの嚥下
闇。
光の粒子が一つもない、完全な黒体の中に立っていた。重力感覚が希薄だ。だが、足の裏には、凍りつきそうな冷たさがある。
ピチャリ。
足を動かすと、水音がした。川添千秋は、自分の輪郭を確認しようとして、腕が動かないことに気づいた。
視覚情報ゼロ。触覚のみが生きている。
足首を濡らす液体の粘度と、鼓膜にへばりつく無音の圧力が、ここが現実の物理空間ではないことを告げていた。
『枯渇したな』
声がした。鼓膜を震わせる空気の振動ではない。もっと直接的で、暴力的な伝達。
川添の頭蓋骨そのものが共鳴板となり、脳髄を内側から揺さぶるような重低音の振動。
ナッシュ・セイゲル。川添の中に巣食う、古いリソースの塊。姿は見えない。だが、気配は背後にある。いや、延髄のあたりに物理的に癒着している。
『損傷率、90パーセント。個体としての維持限界だ』
抑揚のない波形。そこに同情や焦燥は含まれていない。ただ、燃料計の針がEを指した事実だけを告げる、機械的な響き。
ガチッ。
川添の奥歯が、勝手に鳴った。寒いわけではない。ナッシュの発声信号が神経パルスとなって運動野に漏れ出し、川添の顎の筋肉を強制的に収縮させているのだ。
不快だ。自分の体の制御権が、回路の混線によって奪われていく感覚。
『選択肢はない。私の「時間」を燃やせ』
頭蓋骨の中で命令が響く。それは提案ではなかった。宿主への強制給油。
川添は首を横に振ろうとした。だが、頸椎がロックされたように動かない。
代わりに、食道が勝手に開いた。
胃の腑から、熱い塊がせり上がってきた。こみ上げてきたのは胃液ではない。
ドロリとした、アスファルトを煮詰めたような、黒く粘着質な液体。
口の中に広がる、強烈なタンパク質の変性臭と、古い鉄錆の味。
異物。ナッシュという他人の「命」であり、数百年分の情報の凝縮体。
吐き出さなければならない。だが、川添の意思とは無関係に、顎関節が限界まで開き、舌が喉の奥へと巻き込まれた。
「……ご、ふッ」
嚥下。
川添は、口から溢れ出そうになるその黒い汚泥を、痙攣する喉の筋肉で無理やり胃袋へと押し込んだ。
食道の内壁が、強酸を浴びたように焼ける。
黒い泥が胃に落ちた瞬間、爆発的な熱量が血管を駆け巡り、壊死した細胞を内側から叩き起こしていく。
混ざる。俺の血液の中に、あいつが溶け込んでいく。
暗闇の中で、川添千秋という個体の輪郭が溶解し、足元の冷たい水面へと崩れ落ちていった。




