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第29幕 裸の視界

 指先が、虚空(こくう)を掻(か)いた。

 川添千秋の右手は、脳の指令を待たずに、無意識の軌道(きどう)を描いて胸元へと伸びていた。そこにあるはずの重量感。首から下げたストラップが頸椎(けいつい)に食い込む痛み、マグネシウム合金の冷たいボディ、そして掌(てのひら)の皮脂が染み込んだグリップの感触。

 ない。

 指先が触れたのは、汗で湿ったワイシャツの薄い生地と、その下にある肋骨(ろっこつ)の硬さだけだった。

 川添は跳ね起きた。全身の筋肉が軋(きし)み、折れた骨が内側から神経を突き刺したが、その痛覚信号(つうかくしんごう)すら無視された。

 釣りベストのポケットを裏返す。ズボンのポケットを探る。予備のフィルムはある。露出計もある。

 だが、それらを使うための「眼球」がない。映鏡(フレフィ)がない。

 その事実が確定した瞬間、川添の呼吸が止まった。心拍数が跳ね上がる。

 脳の処理が追いつかない。世界との接続端子(たんし)が引き抜かれたことによる、システムエラーのような生理的混乱。

「……は、はは」

 乾いた音が喉から漏れた。視界がおかしい。

 鉄格子(てつごうし)の向こう、石壁に設置された松明(たいまつ)の炎が揺れている。その光が、網膜(もうまく)を焼くように眩しい。

 川添は反射的に目を覆った。彼はこれまで、世界という強烈な光源を、常に「レンズ」という減光(げんこう)フィルターと、絞(しぼ)り羽根を通して、安全な光量に減衰させて見てきたのだ。

 フィルターのない「生身の眼球」にとって、この世界の陰影はあまりに鋭利(えいり)すぎた。

 松明の炎が揺れるたびに、川添自身の影が、石壁の上で巨大な黒い染(し)みとなって不規則に伸縮する。その輪郭(りんかく)のシャープさが、ナイフのように視神経(ししんけい)を傷つける。

 色彩が濃すぎる。石畳(いしだたみ)のグレー、炎のオレンジ、闇の黒。それらが混ざり合わず、原色のまま脳に流れ込んでくる。

 処理落ち。情報量が多すぎて、距離感が掴めない。

 川添は膝を抱え、石牢の隅の影に身を隠した。飯野はどうなった。イヴェットは。ペネロペは。思考を巡らせようとするが、それらの固有名詞は脳の表面を滑り落ちていく。

 代わりに、胃の腑(ふ)からせり上がってきたのは、汚泥(おでい)のような欲求だった。

『撮りたい』

 この絶望的な石牢の質感。揺れる炎と、伸びる影の暴力的なコントラスト。腐った藁(わら)のディテール。

 それらを「フレーム」の中に閉じ込め、構図を決定し、シャッターを切ることで、初めてこの現実は「意味」を持つ。記録できない現実に、何の意味がある?ただの苦痛な時間の垂れ流しだ。

 川添の右手の人差し指が、痙攣(けいれん)するように動いた。

 クイクイ、と。

 ないはずのシャッターボタンを、関節が覚えている深さまで押し込む動作。

 エア・シャッター。

 指先が空気を掴むたびに、カサッという乾いた音がし、虚無感だけが指紋の溝に蓄積されていく。

 川添は自分のその浅ましい指を、左手で強く握りしめ、爪が肉に食い込むまで力を込めた。仲間が生死不明の状況で、写真のことしか考えられない自分。

 その怪物的な「業(ごう)」の深さこそが、壁に映るどの影よりも恐ろしく、彼は口の中に溜まった酸っぱい唾液(だえき)を、音もなく飲み込んだ。

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