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第28幕 澱んだ石室

 覚醒(かくせい)は、不快な粘液膜(ねんえきまく)を一枚ずつ()がしていくような、緩慢(かんまん)なプロセスだった。

 意識の表面に最初に到達したのは、視覚ではなく嗅覚(きゅうかく)だった。

 臭い。

 何かが決定的に腐っている。生ゴミのような有機的な腐臭(ふしゅう)ではない。数百年間、一度も換気されていない地下室の、乾いた(ほこり)とカビの粒子が肺の奥まで沈殿(ちんでん)していくような臭気(しゅうき)

 川添千秋は、鉛のように重たい(まぶた)を、意志の力で無理やり押し上げた。

 視界が灰色に(にご)っている。光源がない。いや、焦点を合わせようと眼球を動かすと、遥か彼方、太い鉄格子(てつごうし)の向こうにある松明(たいまつ)の揺らめきだけが、網膜(もうまく)の隅を弱々しく刺激していた。

 体を動かそうとした。動かない。鎖で拘束されているわけではない。右手を上げようと脳が命令を出しても、その信号が途中で吸い取られ、筋肉まで届かない。

 数秒、あるいは数十秒の遅延の後、ようやく指先がピクリと痙攣(けいれん)した。

 川添は、自分が横たわっている場所の感触を背中で確かめた。肩甲骨(けんこうこつ)に食い込む硬い凹凸(おうとつ)。石だ。その上に、地下の湿気を吸って黒く変色した(わら)が薄く敷かれている。

 藁の先端が首筋の皮膚に触れ、濡れた虫の脚が這うような生理的な不快感をもたらす。

「……ぁ」

 声を出そうとして、喉が乾いて張り付いていることに気づいた。唾液(だえき)がない。咳き込むことすら億劫(おっくう)だった。

 空気が薄い。呼吸をするたびに、自分の気管支(きかんし)がヒューヒューと鳴る音が、鼓膜(こまく)の中で異常に増幅されて響く。

 静かすぎるのだ。風の音も、羽虫(はむし)の飛ぶ音も、人の気配もない。完全な静寂(せいじゃく)

 空気が循環せず、ただそこに「在る」だけの空間。自分の吐いた二酸化炭素が顔の周りに滞留(たいりゅう)し、それをまた吸い込むごくわずかな窒息感(ちっそくかん)が続く。

 ズキリ。

 遅れて、痛覚が再接続された。全身の骨がきしむ音と同時に、右手の指先に鈍い熱を感じた。

 川添は、時間をかけて右手を目の前まで持ち上げた。暗闇の中で、黒いシルエットが見える。指がパンパンに()れ上がっている。

 感覚がない。

 試しに親指で人差し指の先端を強く押してみた。自分の肉を触っている気がしなかった。古タイヤのゴムのような、ブヨブヨとした弾力。温度がないのに、奥底だけが焼けるように熱い。

映鏡(フレフィ)」を使った代償。そして、あの落下の衝撃。

 川添は無意識に、乾燥して割れた唇の端を舌で舐めた。鉄の味がする。だが、それだけではなかった。

 ジャリ。

 砂を噛んだようなザラつき。血の中に、微細な粒子が混ざっている。

 灰だ。

 この空間を満たしている空気には、目に見えないほどの細かい粒子が(ただよ)っており、それが呼吸器や血管の中にまで侵入して、循環器系(じゅんかんきけい)を目詰まりさせている。

 壁を見た。目の前の石積みの壁に、黒い染みが広がっている。

 じっと見ていると、その染みの輪郭(りんかく)が、人の顔に見えた。苦悶(くもん)の表情で口を開けた老人。あるいは、泣き叫ぶ子供。

 一度そう認識してしまうと、もう染みには戻らない。

 川添は視線を逸らそうとした。だが、眼球を動かしても、その「顔」の残像が網膜に焼き付いて離れなかった。瞼を閉じても、裏側にその顔が張り付いている。

 ここはどこだ。いや、場所などどうでもいい。問題は、自分がまだ「生きた人間」として機能しているかどうかだ。

 川添は腐った藁の上で、手足をもがれた芋虫のように身をよじり、ただ肺の中に灰色の空気を吸い込む作業に没頭した。

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